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戦国山城を歩く
典型的「別城一郭」の城、太尾山城祉
太尾山城は、JR 米原駅東方の山上にある。米原の地は中山道と北国街道の分岐点にあたり、北国街道の米原宿として栄えた交通の要衝であった。中世、江北を領した佐々木京極氏は、米原を確保するため米原氏に命じて太尾山に城を築いたという。その間の歴史は曖昧だが、山麓の湯谷神社には城主米原氏が寄進した灯籠などが残っている。太尾山城が確実な歴史に現れるのは、応仁の乱最中の文明三年(1471)、近江に侵攻した美濃の斎藤妙椿が「米原山」で戦ったときで「米原山」は「太尾山」のこととされている。以後、江北の交通の要衝を押える「境目の城」として、浅井氏と六角氏との抗争、浅井長政と織田信長との抗争に際して重要な拠点となった。浅井氏が江北に覇権をたてると中島宗左衛門が在城したが、
織田信長と浅井長政との戦いのなかで廃城となったようだ。
城址は堀切を挟んで北城と南城に分かれ、「別城一郭」とよばれる構えとなっている。城域の広い北側が主体のようで、最高所の主郭を中核として南尾根に梯郭式に曲輪が築かれ、要所に堀切、塹壕を思わせる曲輪などが設けられている。主郭の北端には分厚い土塁が築かれ、北西尾根に土塁で囲まれた出曲輪、北東尾根に腰曲輪、堀切などが設けられ、美濃方面からの攻撃に備えた縄張りとなっている。発掘調査によれば、北城、南城の主郭には礎石をもった建物が検出され、一時的なものではなく
恒常的な城として機能していたことが判明している。
・米原駅から太尾山城祉を遠望
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湯谷神社鳥居横の登り口 ・ 整備された登山道 ・ 北城と南城の分岐 ・ 分岐点は深い堀切 ・ 北城最南端の曲輪
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堀切 ・ 曲輪と登り土塁 ・ 見事な土橋 ・ 塹壕状の曲輪 ・ 主郭の南直下の曲輪と主郭のの切岸
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主郭北端の土塁 ・ 主郭からの眺望 ・ 主郭を見る ・ 主郭北東直下の腰曲輪 ・ 最東端の出曲輪
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南城へ ・ 南城の段曲輪 ・ 曲輪を取り巻く土塁 ・ 最高所の主郭 ・ 主郭切岸を捲いて南曲輪へ
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南城最南端 ・ 北尾根の堀切 ・ 湯谷神社の鳥居 ・ 京極氏が建立した青岸寺山門と四つ目結の紋
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太尾山城は、米原駅からも近く登山道も整備され、要所に案内板も立てられている。
山麓の京極氏ゆかりの青岸寺、太尾山城の守護神であった湯谷神社なども登山コースに含まれており、
それらと併せて気軽に登れる戦国山城の一つとなっている。とはいえ、尾根に至るまでの登山道は急坂の連続で
一汗かくことになるが、北城主郭からの展望はその疲れを吹き飛ばすこと請け合いの一大パノラマである。
とくに木々が落葉した晩秋の登山がお奨めだ。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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