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櫛橋氏
櫛橋系図によると、藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊家→櫛橋氏とつながっている。しかし、この系図は信憑性に乏しいものである。おそらくは相模国大住郡櫛橋郷より出た東国御家人のようだ。南北朝時代赤松氏に属し、のちに播磨の守護目代となった櫛橋氏の初代は伊朝で、赤松氏の領国形成の初期に活躍した。
戦国時代後期の天正五年(1577)十月、豊臣秀吉が播磨に入り、櫛橋左京亮伊定は、別所氏に応じて三木城南方の前衛として近郊の諸将を集めて、その本城である志方城に籠城した。
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神吉氏
『石野系図』によれば赤松氏の庶流で、赤松規則祐の孫祐利の子民部少輔則実が神吉氏を称し、その子則氏も神吉民部少輔を称したという。しかし、中世には志方・中村・英保・神吉の四家は一姓で、源三位頼政の三男の後裔だと称していたことが『蔭凉軒目録』にみえている。嘉吉の乱後、逼塞を余儀なくされ、その後は別所氏と通じながら、播磨の一土豪として戦国時代に至った。
織田信長の播磨攻めに際して、頼定は卯の花威の鎧、燕尾の兜、家宝の業物菊一文字を打ち振るって寄せ手に攻め込んだ。激しく切り立てられて秀吉軍もひるんだが、加古川の河原に繁る竹を切って竹の束を作り、ここに兵を入れて攻めかかった。もの凄い攻防戦で城はなかなか落ちなかったという。
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広峰氏
播磨国飾東郡国衙荘にある広峯社の大別当家。古今和歌集の選に預かった歌人凡河内躬恒の子恒寿がはじめて広峰神社の大別当となった。弟の勢恒も大別当となり、以後、勢恒の子孫が大別当職を世襲した。後裔は広峰をもて名字とした。
南北朝期の貞長は、足利尊氏に属して但馬枚田河原の合戦や気比城合戦に加わり、湊川合戦では楠木弥四郎を討ち取る功をあげている。 室町期は村上源氏赤松氏の末葉と称して大別当職を世襲した。祇園社は赤松氏と結んで支配権回復を図り、広峰氏も赤松氏と結んで祇園社支配を排除しようとした。しかし、やがて赤松政則が没しかれの死後赤松氏の勢力は衰退に向かうと、浦上氏・小寺氏など在地勢力の保護を受けるようになった。
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福原氏
福原氏は赤松氏の一族上月氏の分かれである。上月景盛の孫景行が福原氏を称したことに始まる。景行は、三郎藤馬允を称し、嘉吉元年京都で討死している。
戦国時代、織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。佐用郡上月城の赤松政範は、ひとり備前の宇喜多氏に属して従わず、秀吉は竹田重治、黒田孝高の三千余騎の軍を先陣として佐用郡に攻め入った。福原藤馬允則尚の拠る福原城は、竹中、黒田の先陣と激しく戦ったが、結局落城。則尚は、福原家の菩提寺である高雄山福円寺に入り、一族従士五十余人とともに切腹した。
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衣笠氏
衣笠氏は赤松氏の一族別所氏の分かれといわれ、元弘の乱で活躍した赤松円心の弟円光の曾孫持則を祖とする。赤松八十八家の一つ。赤松満祐が将軍義教を弑殺した「嘉吉の乱」に際して、書写山坂本城着到者諸将のなかにも衣笠豊後守の名がみえる。
天正五年(1577)十月、秀吉が播磨に入ると、三木城の別所長治は秀吉に反した。このとき衣笠氏は範弘の子範景が当主で、範景は別所長治に与して三木城に籠城して、秀吉軍と戦った。しかし、有名な「三木の干殺し」にあって、天正八年、遂に城は落城し、範景は三木城で戦死したとも伝える。
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妻鹿氏
妻鹿氏は薩摩氏流といわれる。『太平記』によれば、円心は大塔宮の令旨に応じて作用庄苔縄に城を構え、与力の輩を催した。馳せ集まった武士は赤松一族のほかに、妻鹿孫三郎長宗、田中、八木、衣笠らの諸氏であったという。以後、妻鹿氏は赤松氏に属して南北朝の内乱期に活躍した。
その後、赤松氏流の妻鹿氏が史上に表われてくる。明応元年(1492)、将軍義稙は近江の佐々木高頼を討伐するため軍を起こした。この戦いに赤松政則も従軍し軍奉行となって戦功をたてている。そして、この合戦に貞祐も従軍したことが系図に記されている。妻鹿氏からは名を表わす人物は出なかったようで、近世、土着、帰農していったようである。
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上月氏
上月氏は、中世播磨守護として威勢を誇った赤松氏の一族。その始祖は山田則景の子次郎景盛で、兄に間嶋太郎景能、弟に櫛田八郎有景、末弟が家範ではじめて赤松氏を名乗った。景盛は建武に武功を挙げ、延元元年(1336)に上月城(大平山城)を築いた。
戦国時代、上月城は作用系赤松氏が代々居城としていた。かし、天下統一を図る織田信長は羽柴秀吉によって落城。その後、上月城は宇喜田直家が奪回、その後援と加勢をもって上月十郎景貞が城主となったが、天正六年(1578)秀吉に攻められて落城、景貞は討ち死にした。
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広瀬氏
赤松円心父子は元弘の乱に後醍醐天皇方に属して活躍した。赤松氏の惣領は、三男の則祐が継ぎ、則祐は領国の北辺宍粟郡にある長水城の城主として兄範資の四男遠江守師頼をおいた。この師頼が広瀬氏を称し、広瀬氏の祖となった。
織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。はじめ、播磨の武士は秀吉に従ったが、三木城主の別所氏が秀吉に反旗を翻したことから、一転、秀吉軍と戦うことになった。広瀬政氏は置塩に籠ったが、開城後は三木城に入りそこで討死した。
政氏の子政清は、宇野政頼の拠る長水城が先祖の居城であったこと、それに宇野氏が同じ赤松一族であったことなどから、長水城に移り、政頼・祐清父子とともに長水城に籠って秀吉軍を迎え撃ったのである。しかし、秀吉軍の前に城は落ち、政清は戦死した。
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中村氏
播磨国波賀庄の中世土豪で波賀城主の中村氏がいた。『武蔵七党系図』諸本によれば、中村氏は秩父丹党の再有力一族であり、中村郷を名字の地とし、三山谷に勢力をもった地頭領主であった。おそらく承久の乱の勲功として中村氏が新補地頭に補任されたものと推測される。
戦国時代の播磨は、山名氏の侵入、赤松氏の衰弱、浦上氏の内紛、尼子氏の侵入、毛利氏の勢力拡張と、絶えることのない政変のなかにあった。こうしたなかで、中村氏一族は赤松氏に属して働いていたことが知られる文書が伝わっている。
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【各氏の詳細、に関しましては『地方別戦国武将家一覧-近畿編-』をご覧ください。】
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