衣笠氏
三つ巴*
(村上源氏赤松氏別所流)
*笹丸としているものもある。 |
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衣笠氏は赤松氏の一族別所氏の分かれといわれ、元弘の乱で活躍した赤松円心の弟円光の曾孫持則を祖とする。赤松八十八家の一つ。赤松満祐が将軍義教を弑殺した「嘉吉の乱」に際して、書写山坂本城着到者諸将のなかにも衣笠豊後守の名がみえる。
嘉吉の乱で赤松宗家は滅亡したが、のちに赤松政則が赤松氏を再興した。そして、政則は旧領である播磨を回復するために、応仁の乱では東軍細川方に属して、山名氏を盟主とする西軍と戦った。持則の曾孫上野介祐盛は政則に仕え、数々の戦において軍功を挙げた。但馬勢との合戦の時にも奮戦し、政則より衣を賜った。祐盛はこれを笠印として戦い、政則から衣笠姓を賜ったという。
ところで、鎌倉時代の「文永年中」に、衣笠法眼目が諏訪大明神勧請や菩提寺を建立したということが「如意寺寺社改」や「如意寺旧記」にみえるが、「文明年中」の誤記である可能性が強く、法眼は祐盛のことと考えられている。これは、祐盛が別所姓から衣笠姓に改めたのは、その軍功をたたえられて赤松政則から賜ったということのほかに、鎌倉時代に信州から播磨国櫨谷庄へやってきたとされる衣笠法眼成る人物を鎌倉御家人のごとく描くことで、衣笠氏を古くからの瀘谷庄の領主であったかのごとく強調し、祐盛の開発領主らる立場を正統化したものと思われる。
あるいは、別所祐盛が衣笠法眼系衣笠氏のいる櫨谷庄へ新たに進出し、法眼系衣笠氏を嗣ぐかたちで別所姓を衣笠姓に改めた可能性も考えられる。
戦国期播磨における衣笠氏
いずれにしろ応仁の乱において、赤松氏は旧領であった播磨守護職に返り咲いたのであった。しかし、赤松氏の実権はその被官である浦上氏の掌握するところとなり、赤松氏と浦上氏のあいだに争いは絶えなかった。そして、浦上村宗に圧せられた赤松義村は、永正十七年(1520)十二月、前将軍足利義澄から託されていた亀王丸(のちの将軍義晴)を奉じて、衣笠五郎左衛門尉範弘の居城、明石榛(端)谷城に入り、翌年、村宗討伐の軍を起こした。
しかし、義村が御着まで兵を進めたとき、先鋒弘岡左京進謀叛の報が伝わり、義村は軍を引いて遠く加東郡東条の玉泉寺に入り、翌二年九月室津実佐寺において村宗のために謀殺され、播磨の名族赤松氏の勢望は地に落ちた。
義村と浦上氏の確執のとき、範弘は義村に従って忠義を尽くした人物として知られている。またこのころ、衣笠左京亮朝親の名が、櫛端豊後守、志水孫左衛門清定とともに、赤松義村時代の三奉行の一人として、永正十四年(1517)十二月の「播磨国清水寺掟条々」に現われている。
以後、播磨国は戦乱が打ち続き、亨禄四年(1531)浦上村宗が討死したのち、義村の後嗣政村(のち晴政)は浦上一族の勢力を制して赤松氏の威信を挽回した。しかし、天文七年(1538)年には尼子氏が播磨に乱入し、赤松氏は存亡の危機に立たされた。時代は、まさに弱肉強食の戦国時代であった。
天正五年(1577)十月、秀吉が播磨に入ると赤松一族の多くはすみやかに帰順したが、翌年三木城の別所長治は秀吉に反した。このとき衣笠氏は範弘の子範景が当主で、範景は別所長治に与して三木城に籠城して、秀吉軍と戦った。しかし、有名な「三木の干殺し」にあって、天正八年、遂に城は落城し。範景は野に下り、櫨谷の庄に住したという。一説には三木城で戦死したとも伝える。
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端谷城は六甲山の裏側、押部谷の一角にある。麓を櫨谷川が流れ、三の丸にあたる場所に満福寺が建っている。満福寺の裏山が端谷城で、幼少の将軍足利義晴を匿った城としても知られる。城址は東西両面に天然の断崖、北面に人工の大堀切、さらには城域内各所に土塁、空堀がいまに残り、要害の城であったことが実感できる。衣笠氏は三木城の別所氏に与して織田軍に抵抗、天正八年(1580)二月十五日落城した。ときの当主は衣笠範景で、満福寺境内に供養塔が建立されている。きれいに整備され、案内板も要所に設けられた、登りやすい気持ちのよい城跡であった。
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ところで、『東作志』には、吉野郡石井庄・下石井村庄屋として衣笠武右衛門、
英田郡英田保南海村庄屋 衣笠忠蔵などの名がみえる。この衣笠氏は、範景の子政次が美作に移り住み、
その子政直は公保田の神主弥左衛門の娘を妻とし、のち庄屋を務めるに至ったと伝えている。
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