ヘッダイメージ




タイトル
通 史
嘉吉の乱で滅亡した赤松氏は政則のときに再興
政則は東軍方の勇将として大活躍したが…




 遺臣たちの活躍によって加賀半国守護に返り咲いた政則は、応仁の乱が起こると失った播磨・美作・備前三国守護職を取り戻す好機として 細川勝元を総帥とする東軍方として大活躍した。そして、念願の播磨・美作・備前の三国の守護に補任され、 赤松氏をかつての姿に再興することに成功した。さらに、文明三年(1471)には侍所所司にも任ぜられた。 しかし、播磨・美作・備前守護職を失った山名氏は、虎視眈々と赤松領国をうかがっていた。政則は三国の守護を確実なものとするために 否応なく山名氏との対立、抗争を深めていった。
 応仁の乱は、室町幕府政治の末期症状から起こったもので、将軍義政にも、派閥の領袖にも大乱を収拾する力はなかった。 文明五年、山名持豊(宗全)・細川勝元が相前後して病没、跡を継いだ細川政元と山名政豊の二人は講和に同意したが、 東軍では赤松政則、西軍では畠山義就が猛烈に講和に反対した。文明九年、山名義就が河内に下向したことで応仁の乱は一応の終局を迎えたが、 それは、戦乱の地方への拡大、戦国動乱の幕開けに過ぎなかった。

山名氏との抗争

 政則も文明十一年播磨に下向、領国の経営に専念しようとした。ところが、同年十一月、備前では松田元成が備後守護山名俊豊と結んで、 赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。赤松氏と山名氏は、明徳の乱(1391)、嘉吉の乱(1441)、応仁の乱(1467〜)において、 互いに領国を奪いあった、いわゆる因縁の宿敵関係にあった。山名氏は播磨・備前・美作を再び奪回する動きに出たのである。
 赤松政則は、福岡城救援をという老臣の意見を無視して、一気に但馬の山名本国を衝こうとした。かくして 文明十五年(1483)十二月、政則は播但国境の真弓峠で山名政豊軍と戦い大敗を喫し、姫路に逃げ返った。勝ちに乗じた山名軍は播磨へ乱入、 以後六年にわたって播磨を舞台とした山名氏と赤松勢力の抗争が続くのである。政則の戦略的失敗は、国人層の離反を招き赤松領国は 動揺をきたした。翌十六年正月、所司代として京都にいた重臣の浦上則宗が急ぎ播磨へ下向してくると国人領主の多くが則宗のもとに参習した。 一方で、宇野下野守(赤松政秀)を盟主とする動きもあった。また、赤松一族である在田・広岡の両氏は、赤松播磨守の息子を擁して山名氏に 与して行動した。さらに有馬右馬助も山名方に属しており、赤松方は四派に分裂してしまった。 そんななかで、政則に付き従うものはわずかとなり、身の危険を感じた政則は播磨から遁走、和泉国堺へと逃亡した。
 政則の去ったのちの赤松勢力の盟主となった浦上則宗は諸将と会談し、政則を廃して、赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に 家督を継がそうとした。二月、浦上則宗・小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実の重臣五人は連署して、室町幕府(将軍足利義尚)に これを願った。そして、幕府もこれを承認した。その後、浦上則宗ら赤松家臣は山名氏との戦いに敗れて上洛、 播磨はふたたび山名氏の治世下に入った。やがて、足利義政の仲介により政則と浦上氏らは和解し、播磨奪回に向けて行動を開始した。文明十六年、京を発した赤松勢は、 摂津有馬郡に留まり、翌十七年三月播磨に入った。政則は三木郡三津田、加東郡小田・光明寺と転戦、東播磨を制圧すると坂本城を拠点に 西播磨に居すわる山名氏と対峙した。以後、五年間、赤松氏と山名氏は一進一退の合戦を繰り広げるのである。
 山名政豊が坂本城を出て但馬へ去ったのは、長享二年(1488)七月のことであった。これ以後、瞬く間に赤松政則は播磨・備前・美作の三ケ国を回復する。そして、三ケ国回復に活躍した別所則治の功績に対して、三木の地を与えて東播磨八郡を管轄する守護代に任じたという。
 南北朝内乱以来の赤松氏と山名氏との宿命の対立は、応仁の乱に続く延長戦で政則が勝利したことで、決着がついたかにみえた。 武力でも播磨・美作・備前を回復した政則は、将軍義材の近江再征には軍奉行として活躍した。そして、明応二年(1496)従三位に叙せられ、 公卿に列した。将軍以外の武将でこの位に昇ったのは政則がはじめてという、晴れがましい位階である。しかし、その二か月後、 政則は四十二歳で病没した。
・置塩城下の性海寺に建立された赤松政則供養塔

国人の台頭と赤松氏の凋落

 政則の後半生は、赤松氏盛時以上の栄光に包まれていたようにみえる。だが、それは虚構に満ちた最後の栄光でもあった。応仁の乱中から、 被官浦上氏が台頭、次第に政則の実験を握っていった。つまり、政則の栄光は、浦上氏の活躍に負うところが大だったのである。
 政則は祖先の本拠地白旗城や守護館があった越部に拠らず、置塩城に本拠を置き、置塩館と呼ばれた。政則の死後、 七条家から義村が迎えられて、置塩城二代となった。このころ浦上氏にも分裂が生じ、播磨の戦国動乱は深まった。 小寺・別所氏ら赤松一族の国人の成長も顕著となった。また、将軍家や細川氏の分裂抗争も播磨に直接的に波及してきた。  応仁の乱後、赤松政則が侍所の所司に任ぜられるや、浦上則宗が所司代となった。また政則が文明十三年(1481)山城国守護になると、 則宗が守護代になるなど、浦上氏は赤松氏の重臣として次第に勢力を拡大していった。
 則宗の子宗助は備前国和気郡の三石城に居城を移し、次第に没落しつつある赤松氏に代わって勢力強大になっていった。永正十五年(1518)七月、守護赤松義村は宗助の子で守護代村宗を三石城に討とうとした。このとき、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑んだ。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが城を落とすことはできなかった。  そこで義村は、浦上方の美作粟井城と岩屋城を小寺則職に命じて襲撃させた。このとき、赤松軍を迎えうったのは浦上村宗の重臣宇喜多能家で、小寺則職の兵を飯岡で破ったという。その後、小寺則職は岩屋城を攻めて敗れ、村宗はこの勝ちに乗じて守護赤松義村を捕え、播磨の室津に幽閉し、ついに大永元年(1521)七月義村を暗殺した。村宗は義村の跡目としてわずか二歳の遺児才松丸を立て形ばかりの守護家を残したが、播磨・備前・美作三ケ国の実権を手中に収めることに成功した。
 この村宗の主家乗っ取りは、下剋上の典型としてよく知られているが、守護大名として実際の在地支配を離れた立場の者よりは、守護代クラスの、実際に農民支配にタッチしているものの方がまさっていたことを物語っている。その後村宗は、細川高国の依頼を受けて軍を起こし、転戦したが亨禄四年(1531)六月、天王寺の戦いで討死した。
 村宗には嫡子政宗と二子宗景があり、兄弟が跡を継いだ。浦上兄弟の武威は大いに振るい、播州室津に城を築いて領国を治めた。しかし、兄弟の間は不和であった。亨禄四年(1531)頃から、宗景は備前国天神山に城を築きはじめ、翌年室津城を出て天神山城に拠った。兄政宗には、父村宗の領を継承する力量はなかったようで、宗景としては、兄に従っていては将来が危ぶまれ、早く兄から遠ざかりたかったようである。なお、宗景の天神山移城は、永禄十二年(1569)足利・赤松の軍と戦って敗れ、勢力を失って備前一国を保ったときのことであるともいう。
 その後、天神山城を本城とした宗景は、しきりに美作・東備前に兵を繰り出し、その勢力はあなどりがたいものとなっていった。そして、兄政宗との対立は深刻となっていった。また宗景は赤松義祐などと戦い、次第に戦国大名として成長していった。
 その後、浦上氏は内訌が続き、家臣の宇喜多氏の台頭などもあり、次第に、昔日の勢いにかげりが見えてきた。そして、龍野城主赤松政秀が、天文・弘治を経て、永禄年間にわたり活躍し、永禄七年(1564)つにに累代目の上のたんこぶであた浦上氏を滅ぼすことに成功した。

東播磨の雄、別所氏

 別所氏の活躍がはっきりするのは則治からである。そして、別所則治は忽然と登場するや、赤松政則の被官筆頭の地位に座っている。本来、赤松政則の被官人筆頭は浦上則宗であった。また、則治は嘉吉の乱で没落した赤松氏の数次にわたる再興の行動にも参加していない。それどころか応仁の乱に際しても則治が軍勢を催した様子はみられない。
 則治の功績としては、浦上則宗らによって追放された政則を擁して京都に上り、足利義政にとりなしたっことが光っている。しかし、政則を救援しただけで、名もなき被官人が浦上則宗と並ぶ地位に立つことはありえないのではないだろうか。
 おそらく赤松政則は、浦上氏や赤松政秀に擁立されただけでは従前と立場が変わらない。そこで、別所則治を登用して浦上則宗と並立させ、家臣団を牽制したものと考えられる。いずれにしろ、別所氏は東播磨守護代として、播磨の中世において大きな存在となったのである。
 その後も東播磨は細川両家の内訌、三好長慶の台頭などによって、戦乱が治まることはなかった。安治のとき、三好長慶が病没し、その家臣らが争った。権臣の松永久秀は三好義継を擁し、奈良多聞山城に立て篭って三好三人衆と対立した。永禄十年、播磨の別所氏は三好三人衆の応援にあたっている。安治も父に劣らぬ器量を示し、東播磨における別所氏の覇権はさらに不動のものとなっていった。
・三木城址本丸跡から三木市街を見る

戦国乱世の終焉

 時代は降り、天正四年(1576)羽柴秀吉の中国征伐にあたり、政秀の子広英は龍野城に降伏した。置塩城主で晴政の孫則房はこれより先に信長に従っていた。
 こうして赤松氏は、新興の織田・羽柴軍の前に膝を屈したが、三木城に拠る別所長治・長水城の宇野政頼・上月城の赤松政範らは、毛利氏と結んで羽柴軍に抵抗した。
 上月城の赤松政範は、織田軍に抗するよりも織田方に降るのが時代の趨勢であると考えていたようだ。しかし、毛利氏に節を通すため、あえて織田軍に抗戦することを決したようだ。
 そして、天正五年十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に政範らの拠る上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は兵三千で来援させた。そして下秋里に陣をとった。秀吉は兵の一部で上月城を警戒し、主力で宇喜多勢を攻撃、両軍激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わり、宇喜多勢は夜蔭に紛れて上月城に入ることができたが、宇喜多勢の秀吉にあげられた首級は六百十九といわれている。
 秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、さらに城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。秀吉軍は城内に突入ことごとく残兵の首をはねたという。さらに見せしめとして、城中の女子供を捕え、播備作三国の国境で、子供はくしざしにし、女ははりつけにした。ここに、佐用氏は滅亡した。
 三木城の別所氏は、はじめ、織田方に与していた。別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。そのとき長治は叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切り、毛利方に属するべきだと説いたという。
 もっともその原因を、ただ吉親の献策を秀吉が受け入れなかったからとするには、いささか疑問が残る。しかし、いずれにせよ長治は毛利方となり、秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、天正八年正月、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。こうして別所氏の嫡流は絶えてしまった。
 西播の作用赤松氏が滅び、東播の三木氏が滅亡、ついで英賀三木城が落ち、最後まで抵抗する宍粟郡長水城へ秀吉軍が襲いかかった。
 天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。そして、蜂須賀小六らの兵を残して三木氏攻略のために姫路に引き返している。籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。
 ここに、中世以来、播磨に蟠踞した赤松氏とその党類であった播磨の戦国大名たちは時代の波にのまれて潰えてしまった。いまは、かれらが拠って戦った城跡がむなしく残っているばかりだ。
・長水城祉の石垣   

CONTENTS
●播磨-戦国通史 ●戦国大名記 ●国人領主記 ●武将家紋地図 ●播磨合戦記 ●近隣の戦国大名 ●群雄割拠図