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タイトル
戦国群雄割拠図
・播磨国以外の戦国大名の城は割愛しました。



 応仁の乱で東軍として活躍した赤松兵部少輔政則は、播磨・美作・備前の三国の守護となり、赤松氏を再興することに成功した。政則は三国の守護を確実なものとするために、宿敵山名氏を武力で打倒する以外にはない。政則は東軍の猛将の一人として活躍、文明三年(1471)には侍所所司にも任ぜられた。
 政則は祖先の本拠地白旗城や守護館があった越部に拠らず、置塩城に本拠を置き、置塩館と呼ばれた。政則の死後、七条家から義村が迎えられて、置塩城二代となった。このころ浦上氏にも分裂が生じ、播磨の戦国動乱は深まった。小寺・別所氏ら赤松一族の国人の成長も顕著となった。また、将軍家や細川氏の分裂抗争も播磨に直接的に波及してきた。
 天正四年(1576)羽柴秀吉の中国征伐にあたり、政秀の子広英は龍野城に降伏した。置塩城主で晴政の孫則房は これより先に信長に従っていた。しかし、三木城に拠る別所長治・長水城の宇野政頼・上月城の赤松政範らは、 毛利氏と結んで羽柴軍に抵抗した。
・復興された近世龍野城祉


CONTENTS
●播磨-戦国通史 ●戦国大名記 ●国人領主記 ●武将家紋地図 ●播磨合戦記 ●近隣の戦国大名 ●群雄割拠図