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広瀬氏
●三つ巴*
●村上源氏赤松氏範資流
*赤松氏の代表紋を掲載。
 


 赤松氏は村上源氏を称し、赤松円心父子が「元弘の乱」に後醍醐天皇方に属して活躍したことで世にあらわれた。建武政権の発足後、円心は報いられることが少なく不満をかこった。やがて、足利尊氏が天皇に反すると円心と赤松一党は尊氏を支援して活躍、足利幕府が成立すると、一連の功に対して播磨・美作・備前・摂津の守護職に補せられた。円心の長男範資は摂津守護職に任じ、次男貞範は美作守護を、そして三男の則祐が惣領として播磨守護となった。
 赤松氏の惣領職を継いだ則祐は、領国の北辺宍粟郡にある長水城の城主として兄範資の四男遠江守師頼をおいた。のちに、この師頼が広瀬氏を称して広瀬氏の祖となった。師頼のあとは頼康が継ぎ、次いで赤松貞範の子則親が頼康の婿養子となって長水城主となった。則親は明徳二年(1391)、山名氏清が幕府に反乱を企てた「明徳の乱」において、赤松義則に従って出陣、同年十二月、二条猪熊で山名中務大輔率いる五百余騎と戦った。この戦いは激戦で、義則の弟右馬助をはじめとして、佐用・柏原・宇野・櫛橋ら赤松家中で名のある武士五十七人が討たれた。この合戦の功で、則親は宍粟・揖東・揖西・神西西郡の内において恩賞を受けている。
 則親のあとを継いだ満親の代の嘉吉元年(1441)、赤松宗家満祐が京都で将軍足利義教を殺害、「嘉吉の乱」を引き起こしたのである。幕府軍の討伐を受けた赤松満祐は、一族・家臣とともに播磨城山城で滅亡した。このとき、満親も城山城において自刃した。しかし、満親の死を嘉吉の乱の直前であるとする説もあり、その子弥次郎親茂が嘉吉の乱当時の当主であった可能性も高い。いずれにしても、この乱で赤松宗家は滅亡し、長水城主広瀬氏も没落の憂き目となった。
 その後、赤松政則が赤松家を再興、応仁の乱に際して政則は東軍細川勝元に属して本国播磨回復のために西軍山名氏と戦った。応仁の乱を契機として、世の中は戦国時代となり、それは一世紀にわたって続いた。播磨も群雄が割拠し各地で合戦が繰り返されたが、広瀬氏の動向は明確ではない。おそらく、置塩の赤松氏に属していたものであろう。

信長軍の播磨侵攻

 やがて、尾張の織田信長が台頭、天下統一に大きく前進した。永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した信長は、諸勢力と死闘を演じつつ着実に勢力を拡大していった。信長の勢力伸張は播磨にも影響を及ぼし、それは織田信長の中国出兵というかたちで現実のものとなった。天正五年(1577)、信長の部将羽柴秀吉を司令官とする織田軍が播磨に進攻してきた。  織田軍の播磨進攻に際して、別所氏をはじめ播磨の武士らは秀吉に従った。しかし、天正六年、三木城主の別所氏が秀吉に反旗を翻したことから、一転、秀吉軍と戦うことになった。当時の広瀬氏の当主は政氏で、政氏は置塩に籠ったが、置塩開城後は三木城に入りそこで討死した。政氏の子政清は、宇野政頼の拠る長水城が先祖の居城であったこと、宇野氏が同じ赤松一族であったことなどから、長水城に移り、政頼・祐清父子とともに秀吉軍を迎え撃ったのである。
 天正八年(1580)長水城は秀吉軍に攻められ、ついに五月八日、安積将監・小林戸兵衛など城内に裏切り者が出て、落城は必至の事態となった。その夜、城主政頼父子はひそかに城を脱出して、三男で作州竹山城主新免伊賀守宗貫をたよって、蔦沢谷より間道を抜け、鷹巣を超え千種の岩野辺に落ちて行った。このなかに広瀬七郎兵衛政清もあった。
 ところが、おりからの雨で千種川は増水、一行は渡ることが出来ず立往生してしまった。そこへ、蜂須賀正勝・荒木平大夫・神子田半左衛門らの秀吉軍に追いつかれ、長水勢は奮戦のすえに宇野一族をはじめことごとく討死した。現在、宇野政頼をはじめとした宇野一族の墓碑とともに討死した家臣の板石が残され、以下の諸将の名前が刻まれている。 ・2007年11月13日

●石塔碑名
 宇野右衛門佐祐光
 宇野民部大輔祐清
 宇野下総守 政頼
 宇野采女正 祐政
●板石連名
 宇野 内匠   下村治左衛門  春名 修理
 石原 勘解由  神山 但馬   横治三郎兵衛
 小林 三河   広瀬七郎兵衛  安積 久蔵
 宇尾墨 勘介  石田小兵衛   阿甫助大夫   他に女房二人

 宇野一党が滅亡したとき、九歳になる政清の子友市は、叔父の広瀬長兵衛政繁に伴われて久保に落ち延び、のち成人して久兵衛政茂を名乗った。以後、子孫は久保の地に住し、武士を捨てて帰農したという。

参考資料:三日月町史/山崎町史 ほか】



■参考略系図


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