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合戦記
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●上月合戦
 上月城主作用氏は赤松氏の一族であった。戦国時代、赤松宗家より政元を養子に迎え、政元は上月城主となった。その子政範の代に織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。
 天正五年(1577)十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に政範らの拠る上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は兵三千で来援させた。秀吉軍と宇喜多軍両軍の激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わり、敗れた宇喜多勢は上月城に入った。
 秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、さらに城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。秀吉軍は城内に突入ことごとく残兵の首をはねたという。


●三木合戦
 別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。
 ところが、長治は突然、毛利氏に転じ秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。
 その原因は、叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切るように献策したとする説が流布しているが、長治は、丹波の波多野氏と姻戚関係にあったこと、荒木村重が信長に謀叛お起こしたこと。そして、それらの制圧における信長の対応に対して、長治は深く危惧を抱いたのではなかろうか。  いずれにせよ、三木城の籠城戦に敗れたことで、別所氏の嫡流が絶えたことは紛れもない歴史の事実である。


●長水合戦
 天正四年(1576)、織田信長はその部将豊臣秀吉に中国地方の平定を命じた。これに対して、播磨国内の諸豪族のうち、赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。秀吉の播磨平定は順調に進むかとみえたが、別所長治が秀吉にそむき、戦線は膠着状態にはいっていった。
 しかし、天正八年三木城が落城して別所長治は自殺し、英賀城の三木氏も降された。こうして秀吉の攻撃目標は長水山城に向けられた。天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。
 籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。
  
CONTENTS
●播磨-戦国通史 ●戦国大名記 ●国人領主記 ●武将家紋地図 ●播磨合戦記 ●近隣の戦国大名 ●群雄割拠図