●三木合戦
別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。
ところが、長治は突然、毛利氏に転じ秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。
その原因は、叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切るように献策したとする説が流布しているが、長治は、丹波の波多野氏と姻戚関係にあったこと、荒木村重が信長に謀叛お起こしたこと。そして、それらの制圧における信長の対応に対して、長治は深く危惧を抱いたのではなかろうか。
いずれにせよ、三木城の籠城戦に敗れたことで、別所氏の嫡流が絶えたことは紛れもない歴史の事実である。
|