上月氏
三つ巴に二つ引
(村上源氏赤松氏流)
*「岡山の家紋」の小林さんから
御教示いただきました。 |
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上月氏は、中世播磨守護として威勢を誇った赤松氏の一族。その始祖は山田則景の子次郎景盛で、兄に間嶋太郎景能、弟に櫛田八郎有景、末弟が家範ではじめて赤松氏を名乗った。
景盛は建武の争乱に武功を挙げ、延元元年(建武三年=1336)に上月城(大平山城)を築いた。景盛の後、三朗盛忠─次郎兵庫介盛家と続き、その子の孫三朗景家は嘉吉の変に、赤松一族の多くが討ち死にするなか、再起を願う赤松満祐の嫡男赤松教康を補佐し伊勢に逃れた。しかし、幕府軍の追求は厳しく結局全員自殺、上月氏の嫡流は四代100年余りで滅亡した。
その後、長録元年(1457)赤松遺臣の南朝襲撃に、上月左近将監満吉は間嶋彦太郎らと川上御所を襲った。この時のことは『堀秀世上月満吉連署注進状』俗に「上月記」と題された記録が残されている。
これは、赤松氏が将軍義教を討ってお家断絶の憂き目をみた赤松家の遺臣らが、命を賭してお家再興をはかった行動の「末代之証拠」として記されたものである。すなわち、嘉吉の乱の翌々年南朝の遺臣日野有光らに奪い去られた神璽を、自らの手で奪い返すことと引き替えに、赤松家再興の許しを得た旧赤松家臣ら二十数人は神璽奪還の策を練った。そして、長録元年(1457)雪の吉野山中に南朝方を襲い、首尾よく神璽を京都に持ち帰ったのであった。結果、赤松氏の再興が許されたのである。
この神璽奪回に参加した上月満吉が、事件後二十一年を経た文明十年(1478)にその経緯を記録し、堀出雲守秀世が加判してその事実を証したものであった。
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