神吉氏
亀甲に五七の桐*/三つ巴**
(村上源氏赤松氏流?)
* 神吉頼定の墓に据えられた家紋。
**『播州英城日記』の内「武具印」には「神出 右頭三つ巴に琴柱」とある。
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神吉氏は播磨国の中世土豪として知られ、播磨国印南郡神吉村より起こったと伝えられる。『石野系図』によれば赤松氏の庶流で、赤松則祐の孫祐利の子民部少輔則実が神吉氏を称し、その子則氏も神吉民部少輔を称したという。しかし、『蔭凉軒目録』によれば、志方・中村・英保・神吉の四家は一姓で、源三位頼政の三男の後裔だと称していたことがみえている。これによれば、神吉氏は赤松氏とは別系であったということになる。
さて、赤松系図によれば、南北朝時代の神吉元頼は父神出範次から神吉庄を与えられて神吉氏を名乗った。こちらの神吉氏は赤松則祐の長子範資を祖とし、神出範次はその孫にあたる。元頼は神吉の河岸段丘の先端部に神吉城を築城し、以後、代々神吉城主であった。
赤松満祐が将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」に際して、『赤松盛衰記』には神出左衛門が、『赤松秘武士録』では「五千貫百五十丁領神出左衛門尉則行」の名がみえる。『嘉吉太平記』によれば、神出左衛門尉は神出範次の孫であるという。また、さきの『赤松秘武士録』には、「七千貫領神吉義彦八郎貞光、五千貫領神吉伯耆守光定」の名がある。神吉氏が嘉吉の乱に際して宗家赤松氏とともに戦ったことが知られるのである。とはいえ、赤松宗家の滅亡とともに、逼塞を余儀なくされ、その後は別所氏と通じながら、播磨の一土豪として戦国時代に至ったようである。
三木城の攻防
『別所長治記』には、別所長治に味方して神吉城に立て籠って奮戦した神吉民部少輔がみえる。民部少輔は元頼八代の後裔にあたる頼定に比定される。
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・神吉城祉と境内墓地内にある神吉頼定の墓の紋
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神吉城は織田信長の播磨攻めに際して、攻撃目標となった。神吉城攻めは天正六年(1578)六月二十六日から始まり、翌月十六日に落城したと伝える。このとき、頼定は卯の花威の鎧、燕尾の兜、家宝の業物菊一文字を打ち振るって寄せ手に攻め込んだ。激しく切り立てられて秀吉軍もひるんだが、加古川の河原に繁る竹を切って竹の束を作り、ここに兵を入れて攻めかかった。もの凄い攻防戦で城はなかなか落ちなかったという。
そこで、秀吉勢は頼定の叔父神吉藤大夫を謀略で味方に引き入れ、それに応じた藤大夫は頼定を暗殺、さしもの神吉城も城主を討たれたため落城したという。実際は、秀吉勢が押しまくって勝ったとされ、藤大夫の裏切りは物語りとして作られれたものとされている。
『信長記』では、天正六年七月十五日、滝川一益と丹羽長秀が神吉城の東の丸に攻め入り、十六日には中の丸に攻め込んで、民部少輔を討ち取り、天主に放火したので城は焼け落ち、篭城していた将士の過半は焼死したという。
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神吉城址を訪ねる
神吉氏は赤松一族で、文和年中(1352〜1355)に戦功をあげた範次は播磨明石郡の神出城主となり、神吉城を築いた。加古川右岸に位置する神吉城は、中の丸を中心に二の丸・東の丸・西の丸などで構成された環郭式平城である。城址は神吉の集落にあり、集落全体が城跡という。天正六年(1578)織田軍の攻撃の前に落城した。いま、本丸にあたる高台に浄土宗常楽寺が建立され、境内には最後の城主神吉民部大輔頼定の墓が静かに立っている。神吉城の北方には、地域の氏神神吉八幡宮が鎮座している。神吉城近くの志方城も訪ねたが、花粉症の相方は完全武装でのぞみ、まことに怪しいものがあった。
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ところで、神吉藤大夫の守っていた西の丸は荒木村重が攻め、荒木と佐久間信盛が藤大夫の詫言をとりついで奔走したことで助命され、志方城へ退去し、ついで包囲された志方城も降参したという。つまり、藤大夫は志方城降参の説得を条件に助命されたもので、『別所長治記』の記述はこれを曲解したものであるようだ。
なお、神吉城落城の日を『多聞院日記』は同月二十日のこととしている。神吉氏の嫡流は神吉城の落城で滅亡したようだが、近世姫路藩領神吉組大庄屋に神吉次郎兵衛家があり、また平福領大年寄に神吉家があった。いずれも神吉城主の末裔を称したという。
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