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櫛橋氏
●三つ巴*
●藤原氏/武蔵七党児玉党後裔?
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櫛橋氏は『印南郡誌』に、「赤松則景の子、八郎有景を祖とす」とみえるが、赤松則景は宇野則景の誤りであり、八郎有景は佐用郡櫛田に住した櫛田氏の祖である。ちなみに、『赤松家風条々事』や『姓氏家系大辞典』なども八郎有景の後裔説をとっているが、こちらも誤りであることはいうまでもない。加えて、櫛橋という地名は、赤松氏発祥の地である佐用郡内はもとより、播磨国には見当たらないのである。
一方、『志方町誌』に記載された「櫛橋氏略系図」がある。それによると、櫛橋氏は藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊寺家→櫛橋氏とつながっている(下記参考系図参照)。すなわち、摂政・太政大臣藤原師輔に始まり、孫行成から伊経までは世尊寺流書家の公卿であり、伊経は鎌倉時代前期の嘉禄三年(安貞元年=1227)に没している。そして、伊経の子が櫛橋氏の祖という伊朝となっている。
伊朝は「櫛橋家は藤原氏で伊朝を元祖とし、代々赤松氏の家臣であった。伊朝も国難に赴いて戦死したが...」と、元弘の変(1331)以後、南北朝時代はじめの人物として登場する。伊経と伊朝の間には一世紀余の断絶がみられ、こちらも信憑性に乏しいといわざるを得ない。
櫛橋氏の系譜に関する史料としては、建仁寺・南禅寺の住持を歴任した禅僧天隠龍沢の『翠竹真如集』に見える「櫛橋字渓居士賛」「櫛橋万善居士寿像賛并序」がある。そして、後者には初代とされる伊朝から、万善居士則伊までの系譜が記されている。しかし、伊朝以前の櫛橋氏に関する記述はない。
櫛橋氏の出自─考察
では、櫛橋氏の出自は?ということになる。有力な説として、武蔵七党の児玉党から分かれ出たとするものがある。児玉党は櫛橋氏系図にも出てくる伊尹の甥道隆の子伊周が没落したのち、子の遠峯が武蔵国に土着したことに始まるとされている。そして、児玉党の某が相模国大住郡櫛橋郷に住して櫛橋を名乗るようになったのだという。
おそらく、櫛橋氏は相模国大住郡櫛橋郷より出た東国御家人と思われ、鎌倉時代以降、播磨に土着して赤松氏の被官となったものと思われる。そのきっかけとなったのは、櫛橋郷に隣接する糟谷郷から出た糟谷氏との関係から播磨に下ったものと推測されている。糟谷氏は藤原氏の分かれといい、治承四年(1180)の石橋合戦において糟谷権守盛久は源頼朝を攻めたが、のちに頼朝に仕えて御家人となった。盛久の室は横山氏であったようで、横山党系図によれば盛久と横山氏の間には五人の男子が生まれ、そのうちのひとりが櫛橋余一を名乗っている。可能性としては、この櫛橋余一がのちの播磨櫛橋氏の祖にあたる人物かも知れない。
承久の乱(承久三年=1221)後、播磨守護は北条得宗家が管掌し、守護所は加古郡加古庄に置かれた。そして、鎌倉後期になると糟谷・小串氏らが守護代に任じられて在地の支配にあたった。『東寺百合文書』によれば、正和四年(1315)十月、悪党寺田法念の矢野別名乱入に対して、六波羅が播磨守護代糟谷弥次郎らに法念逮捕令を命じている。また『峯相記』の悪党退治の条にも、糟谷氏の名があらわれる。
糟谷氏が播磨守護代として活躍していたことは、史料上からも疑いない。そして、播磨糟谷氏の本拠は加古庄であり、そこに近接して櫛橋氏と関係の深い志方庄があった。このことからも櫛橋氏の来播には、糟谷氏との関係が伺われるのである。櫛橋氏の出自に関するひとつの推論として、播磨櫛橋氏の祖は相模国大住郷櫛橋郷に住していた。そして、来播の時期は不詳ながら、櫛橋郷に隣接する糟谷庄の大族糟谷氏に臣従して播磨に来たり、加古庄西辺の地に住したのではないだろうか。
『太平記』に、櫛橋次郎左衛門尉と同三郎左衛門尉の名が六波羅方のなかにみえ、次郎左衛門尉義守は六波羅探題に殉じたことが『蓮華寺過去帳』によって知れる。のちの櫛橋氏の居城が加古川に近い志方城であったことを思うと、義守は播磨の櫛橋氏であったのではなかろうか。さらにいえば、 三郎左衛門尉は義守の弟で伊朝であった可能性もある。
櫛橋氏の勢力伸張
いずれにしろ櫛橋氏の初代伊朝は、南北朝時代になると赤松氏に属し、赤松氏の領国形成の揺籃期に活躍した。足利尊氏と弟の直義の不和から起った観応の擾乱に際して、庶子直冬を討つため播磨に下った尊氏は摂津松岡城に拠って大敗を喫した。この一件を記した『太平記』の「松岡城周章ノ事」には、糟谷新左衛門尉伊朝が出てくる。この伊朝は櫛橋伊朝と同一人物と思われ、南北朝時代はじめの櫛橋氏は糟谷と櫛橋を併用していたようだ。
伊朝は赤松氏に従って各地の戦いにおいて活躍したが、新田勢との戦いに敗れ、そのときの傷がもとで死去したという。先述の「櫛橋万善居士寿像賛并序」によれば、伊朝のあと伊光─伊範─伊高─貞伊、そして則伊と続く。
伊光は「摂の中島に戦赴き、赤松霜台と戦ひて、以って斃れる」とあり、赤松霜台とは赤松弾正少弼のことで、赤松円心の末子氏範のことである。赤松氏は南北朝の争乱に際して武家方として活躍したが、ひとり氏範は南朝方として行動した。応安元年(1368)、氏範が摂津国江口五荘を濫妨すると、幕府は赤松則祐に討伐を命じた。翌年、氏範が摂津中島で挙兵すると、伊光は則祐に従って出陣、中島の戦いで戦死したのである。
戦いに敗れた氏範は大和に逃れ、のち則祐のもとに保護されたという。しかし、応安四年(1371)に則祐が死去すると、至徳三年(1386)、播磨国清水寺で兵を挙げ、敗れた氏範は家則ら一族とともに自刃して果てた。このとき、家則の子で志方庄に残されていた遺児二人を養育したのは、櫛橋伊範であった。のちに、伊範は一子を櫛橋別家に立て、もう一子を志方氏としている。
櫛橋氏は播磨守護赤松氏に仕え、伊範の代に勢力を増大する気運にめぐまれたようだ。しかし、伊範は明徳二年(1391)の明徳の乱において戦死をとげた。『明徳記』によれば、赤松義則は京都内野において山名軍と激戦を展開した。戦いは赤松方の勝利となったが、「義則の弟満則をはじめ、佐用・柏原・宇野・櫛橋などの諸氏が戦死した」という激戦であった。ここに書かれた櫛橋は伊範で、赤松一族の佐用・柏原・宇野らと同等に扱われる存在であった。
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赤松氏の重臣に列す
明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、足利幕府体制が確立された。赤松氏も支配体制を固めるため、年寄衆を置き、領国経営には二人の守護代をおいた。西播磨八郡の守護代として宇野氏、東播磨八郡の守護代として別所氏が任じられ、櫛橋伊高は東播磨の目代に任ぜられた。伊高は東播磨の目代のみならず、播磨・美作・備前三国の財産出納役もつとめたという。換言すれば、赤松氏全領国の会計責任者をつとめる重職を担ったのである。
永享四年(1432)、赤松満祐が幕府の命によって大和に出陣すると、伊高は嫡男の貞伊とともにこれに従軍した。満祐は畠山氏とともに筒井氏を支援して、越智・箸尾氏らのよる箸尾城を攻略した。ところが、その帰途に赤松軍は野伏に襲われ伊高ら六十余名が戦死した。貞伊も瀕死の重傷を負ったが奇跡的に助かった。しかし、父の死を知った貞伊はともに死ななかったことを恨んで悔し泣きをしたと伝えられている。
貞伊も父伊高と同様に東播磨の目代をつとめた。そして、嘉吉元年(1441)、赤松満祐がかねてより折り合いの悪かった将軍足利義教を殺害するという一大事件が起った。いわゆる嘉吉の乱で、京都から播磨に帰った満祐は、坂本城に拠ると一族・郎党に檄を飛ばした。貞伊も一族とともにこれに応じて幕府軍を迎え撃った。
緒戦こそ赤松方は善戦したが、次第に幕府軍におされ、ついに最後の拠点とした城山城において満祐をはじめ一族自刃して赤松氏は没落した。このとき、満祐の嫡男教康は城を脱出して、岳父である伊勢の北畠顕雅を頼った。ところが、娘婿教康の処遇に困った顕雅は、結局、教康を殺害してその首を幕府に差し出したのである。
このとき、教康に随行していた貞伊をはじめ内蔵助・三郎らの櫛橋一族は、教康に殉じて自害を遂げたことが、天隠龍沢の賛序に記されている。櫛橋氏は赤松氏に属して数々の合戦に参加し、代々の当主、一族が戦場で落命していることは、乱世とはいえまことに壮烈というしかない。
乱世の序奏
嘉吉の乱で貞伊が死去したとき、一子則伊はいまだ九歳の少年であった。赤松氏の没落後、播磨守護職は山名氏が補任され、一族の多くも討死していた則伊は、僧籍に身を隠していたという。
赤松氏の再興を企図する赤松遺臣らは、天隠龍沢に庇護されていた満祐の甥性存(時勝)とその子次郎法師丸を守り立て再興の機会を狙った。そのような嘉吉三年(1443)、楠木氏ら後南朝の一党によって三種の神器が奪われるという事件が起った。神器のうち神鏡と神剣は奪回されたが、神璽のみが大和に持ち去られてしまった。遺臣のひとり小寺藤兵衛は神璽奪回をもって赤松氏の再興を幕府に願い、一党を語らって後南朝方に近付き、ついに長禄二年(1458)、神璽奪回に成功したのである。
かくして、赤松氏の再興がなり、次郎法師丸は加賀半国守護に補任され、将軍義政の偏諱を賜って政則と名乗った。政則は僧籍にあった則伊を還俗させ、一字を与えて則伊と名乗らせた。そして、「我が家を興すに何ぞ一日も櫛橋無かるべけんや」と語ったと伝えられる。ここに櫛橋氏も再興し、則伊は政則のもとで奉行職に登用された。
やがて、応仁元年(1467)、応仁の乱が起ると、政則は幕府管領細川勝元に味方して、播磨奪回を目指した。播磨に下向した政則は一族・旧臣に呼びかけて、山名宗全と対立した。播磨の奪回に成功した政則は、備前、ついで美作も回復し、文明三年(1471)ころには播磨・備前・美作の守護に補任されることを得た。この間、則伊も政則の下にあって活躍し、文明十二年には、清水寺宛文書に浦上則宗らととともに奉行衆として署名をなしている。
応仁の乱をきっかけに戦乱は全国に広まり、時代はようやく下剋上の横行する戦国時代の様相を濃くしていった。やがて、播磨・備前・美作を失った山名氏が、文明十五年、備前の松田元成を唆して攻勢に転じた。則伊は浦上則国の守る守護所福岡城の救援に赴き、松田・山名連合軍と対峙した。この事態に政則に代わって京都にあった浦上則宗は政則に福岡城の救援を依頼したが、政則は一挙に山名氏の本国但馬を衝く作戦をとり真弓峠に出陣した。ところが、結果は政則の散々な敗北に終わり、山名勢の播磨侵攻を許してしまった。
政則の敗北によって孤立無援となった福岡城の則伊は、浦上則国とともに城を開いて播磨に退却した。政則の失態は国人の反発をかい、京都から浦上則宗が帰国すると国人の多くは政則から離反していった。かくして、則宗は政則を廃し、小寺・中村・明石・依藤らの赤松老臣と連署して有馬氏から新たな当主を迎えようとした。政則は播磨・備前・美作を回復したものの、その実態は浦上氏ら重臣に擁立されたものであり、政則はみずからの権勢を確立しようとして挫折したともいえよう。
以後、播磨一国は浦上氏ら赤松氏重臣のかつぐ赤松有馬氏と、山名氏に通じる赤松氏一族らとの間で小競合いが続き、ついに赤松重臣らは山名氏に敗れて京都に奔ったのである。
播磨錯乱
将軍義政の斡旋により政則と浦上氏ら赤松氏重臣は和睦し、播磨に入ると山名勢と合戦を繰り返した。則伊は政則の奉行衆のひとりとして所々の戦いに出陣、ついに長享二年(1488)、山名政豊は但馬に去り播磨は赤松氏の支配に復した。
この戦乱のなかで則伊は天神山城を築いていたが、明応元年(1492)、志方の中心部に新たに市易城(志方城)を築いた。さらに、京都男山八幡宮から分霊を勧請して八幡神宮を創祀した。則伊の代において、櫛橋氏は一定の勢力を築きあげ、播磨の国人領主へと成長したのである。
曲折はあったものの赤松氏をよく再興した政則は明応五年(1496)に死去し、そのあとは養子義村が継承した。しかし、このころになると浦上氏の勢力が赤松氏を凌ぐようになり、一方で東播磨の守護代別所氏、御着城の小寺氏らの勢力も自立の動きを見せていた。やがて、浦上則宗のあとを村宗が継ぐと、義村は村宗を除こうとして浦上氏の居城三石城を攻撃した。ところが、返って敗れて、ついには家督を嫡男の才松丸(のち晴政)に譲って隠退を余儀なくされた。
大永元年(1521)、村宗は播磨の室津に幽閉していた義村を殺害する挙に出た。文字通り、浦上氏の下剋上によって赤松氏の声望は大きく失墜し、浦上氏が備前・美作・西播磨を支配下におく戦国大名に躍り出たのである。
櫛橋則伊が死去したのち、家督は伊家が継いだようだ。伊家の代は播磨錯乱といわれる時代であり、一城の主として平穏ではいられなかったであろうが、その動向は明確ではない。一方、櫛橋豊後守則高なる人物が、赤松氏の奉行のひとりとして残された史料に登場する。ひとつの可能性として、伊家は打ち続く合戦において傷を負い、伊高に代わって則高が櫛橋氏の惣領として行動したとも思われる。そして、則高は伊家の弟にあたる人物であったのではないか。
義村を殺害した浦上村宗は全盛を極めたが、細川高国を援けて幕府の内訌に介入したことであっけなく戦死を遂げてしまう。すなわち、享禄四年(1531)、細川晴元を擁する三好一党と戦ったとき、赤松晴政は晴元に味方して村宗を攻撃した。思わぬ挟み撃ちにあった村宗は乱戦のなかで討死を遂げたのであった。このとき、則高も晴政に従って出陣したものと思われる。
村宗を倒したのち晴政は勢力を盛り返したものの、すでに赤松氏の威令は置塩城周辺に及ぶばかりであった。そして、天文七年(1538)、出雲の尼子氏が播磨に侵攻してきたのである。長水城主宇野氏は尼子氏に通じ、置塩城を攻撃された晴政は播磨から逃れる始末であった。
・写真:志方(市易)城祉
織田軍に抵抗
多難ななかの天文十一年に伊家は死去したようで、伊定が櫛橋氏を継承した。しかし、赤松氏の奉行として豊後守政朝(入道喜半)が、伊定に代わって活躍している。政朝は則高のあとを継いだ人物のようで、若い伊定に代わって櫛橋氏の代表にあったようだ。とはいえ、則伊後の櫛橋氏の系譜は、錯綜していて必ずしも明確ではない。
戦国時代後期の天正五年(1577)十月、豊臣秀吉が播磨に入り、赤松一族の多くはすみやかに帰順したが、翌六年の春、三木城主別所長治は秀吉に反した。このとき、櫛橋左京亮伊定は、別所氏に応じて三木城南方の前衛として近郊の諸将を集めて、その本城である志方城に籠城した。城主伊定とともに、櫛橋別家の伊則が将として加わり、一族の外に『播磨古城記』には「宇野、魚住、中村、長谷川等一千余騎守之」とあり、また、櫛橋別家の秀尚は天神山城を修復し、「赤羽城」と称してこれに拠った。
別所氏の謀叛によって苦境に陥った秀吉は、六月、上京して播州陣について信長の指図を仰いだ。これに対し、信長は「謀略武略もなしに長陣していても詮はなし。まずは陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で別所が籠る三木の城を囲むべし」と指示した。この指示により神吉攻めが開始され、志方城に対しては織田信雄が攻囲の陣を据えた。織田軍が志方城を包囲すると櫛橋勢は二度三度と城を撃って出たが、そのたびに大損害を受けるばかりで、三木城からの援軍も来ず、ついに櫛橋方は城中に立て籠った。
七月、神吉城を攻め落した織田軍は志方城に迫った。志方地方は元来周辺の山が低く、良水に恵まれない地であった。しかも季節は夏の盛りとなり、城内には疫病が発生し、武器をとって戦える将兵も減少していった。ついに八月になって、今はこれまでと観念した伊定は、人質を出し自分の命と引きかえに城兵の助命を願って降伏した。
伊定の娘は小寺氏の家老官兵衛孝高に嫁いで男子を生していた。官兵衛はのちの黒田如水であり、その子は黒田長政で福岡藩祖となった。その縁で、櫛橋氏は黒田氏の家臣となったと『図説三木戦記』に記されている。かくして戦国時代の終焉とともに、櫛橋氏は播磨における歴史に幕を閉じたのである。・2004年09月18日→2006年03月24日
【参考資料:加古川市史/兵庫大百科事典/ひょうごの城紀行/糟谷氏一族=安田三郎氏/播磨の豪族櫛橋氏=山下道雄氏 など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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