広嶺氏
抱き柏
(凡河内忌寸後裔)
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播磨国飾東郡国衙荘にある広峯社の大別当家。古今和歌集の選に預かった歌人凡河内躬恒の子恒寿がはじめて広峰神社の大別当となった。弟の勢恒も大別当となり、以後、勢恒の子孫が大別当職を世襲した。
大別当七代勝賀のとき、鎌倉御家人となった。勝賀には男子がなく、阿曽氏の一族広瀬三郎を婿とし、その子で孫にあたる家長が大別当職を継いだ。家長の曾孫貞長のとき、元弘の争乱期に遭遇した。
中世の争乱を生きる
貞長は元徳二年(1330)父重長から広峰社大別当職を譲られ、広峰社の第十一代別当となった。元弘の争乱に際してはじめから宮方として合戦に参加し、後醍醐天皇の綸旨を得て本領を安堵された。しかし、恩賞ははかばかしくなく、建武の新政が破綻すると足利尊氏に属した。以後、今川頼貞の軍に加わり、但馬枚田河原の合戦や気比城合戦に加わり、湊川合戦では楠木弥四郎を討ち取る功をあげ、上洛して鳥羽や阿弥陀峰の合戦にも参加した。
これらの合戦で貞長自身も負傷したが恩賞がなかったものか、建武五年(1338)四月には今川頼貞が入道昌俊(貞長)の軍忠状に起請文を添付して申請している。そして、土山荘内の中井村・萩原村の地頭職をその恩賞として獲得したようだ。とはいえ、布施彦三郎・浦上孫三郎・平居新三郎ら在地武士の押妨のために所務は困難であったようだ。やがて、康永四年(1345)貞長は大別当職以下の所職所領を嫡男長種に譲って隠居している。
貞長が武家方に味方して活躍した一方で、弟の信則は後醍醐天皇方に属して活躍、兄弟は南北に分かれることになった。これは、当時のひとつの風潮である惣領家と庶子家との対立が、広嶺氏にも生じていたのであろう。信則の系はのちに尾張に移り、終始南朝方として活躍し、その子孫は戦国期、織田信秀、信長に仕えたことが系図から知れる。
貞長から大別当職他を譲られた長種は、同じ社家の肥塚範重や芝原又五郎らとともに摂津山田丹生寺や紀伊星尾、播磨滝野城、越前敦賀などを転戦した。広峰氏は長種以降、播磨国守護となった赤松氏への隷属を強めながら、平野村・白国村・中島村・砥堀村・山井村・北条村のほか土山荘内四ケ村と南条郷内五ケ村を神領として支配した。さらに鵤荘や穴無郷地頭職などを寄進されている。
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広峰神社を訪ねる
広峰神社は姫路市北方にある広峰山上に鎮座している。かつて、参拝者は山上の神社をめざして
山道を登るしかなかった。現在は山上の鳥居まで舗装された道路が開通、自動車で難無く登れてしまう。
「味気ない」「有り難みがない」といえば、まことにその通りだが、急ぐ旅の途中に立ち寄るときには
有り難いものではある。
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かつて広峰神社には御師とよばれる神職の屋敷が並び立ってがいて、参拝者の宿泊などの世話をしていた。
道路が開通したことでこぞって下界に移住、いまではK家が残るばかりで、かつての賑わいは崩れかけた土塀や石垣から
想像するばかりだ。文明というものは、まるで巨大なブルドーザーのように、一瞬でひとつの時代を
削り取ってしまう恐ろしいものだ。
【訪問:2008-08-16】
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戦国乱世の広峰氏
室町期は村上源氏赤松氏の末葉と称して大別当職を世襲した。ところが、南北朝時代の末期ごろから広峰社は京都祇園社と本末を争い、嘉慶二年(1388)、幕府は祇園社の訴えを支持して大別当範長は広峰社から追放され、広峰社は祇園社から派遣された代官の支配を受けるようになった。
その後、「嘉吉の変(1441)」で播磨守護赤松氏が没落し、播磨は山名氏が守護として支配した。その後、赤松政則が赤松家を再興したが播磨を回復するには至らなかった。やがて応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発し、この乱は広峰社が祇園社支配を脱する好機となったが、時代が乱世の様相を深めていくにつれ社領は武士蚕食の的ともなっていった。
応仁の乱に際して東軍の細川勝元に味方して活躍した赤松政則は、播磨守護に復活し赤松家を完全に復活させた。延徳元年(1489)、政則は広峰社に太刀を奉納し、守護使の入封を禁じ、また、広峰純長のために太刀を鍛えて与えている。祇園社は守護赤松氏と結んで支配権回復を図り、広峰氏も赤松氏と結んで祇園社支配を排除しようとした。やがて赤松政則が没すると、赤松氏の勢力は衰退に向かうようになり、広峰氏は浦上氏・小寺氏など在地勢力の保護を受けるようになった。
戦国後期の当主長職は播磨御着城主小寺則職の子で、広峰氏を継いだ人物であった。また、戦国期に備前国から播磨に流れてきた黒田重隆が、広峰社の御師の協力を得て家伝の「目薬」を販売して財をなし、播磨に一勢力を築いた話は有名である。
その後も、広峰氏は広峰神社と京都の祇園社との本末支配の争乱に巻き込まれるが、広峰神社の神宮寺である増福寺が天台宗であったことから、近世に至り日光門跡の差配を受けるとともに姫路藩主の崇敬を得て安泰期を迎えた。そして、広峰山上には広峰氏をはじめ二十七の社家が居住したと伝える。
大別当家広峰氏の子孫は、のちに広嶺姓を名乗り、旧社領地内稗田神社の神主家としていまも存続している。
●広峰氏の家紋、考察
広峰社は神紋に「木瓜紋」を用いているが、これは祇園社との関係から木瓜紋を用いるようになったもので、
本来「抱き柏紋」だったようだ。広峰社の神事の古い写真をなどを見ると、幔幕に抱き柏紋が付けられている
ことからもそれが確かめられる。また、書物によれば「鐶輪に抱き柏」としているものもある。これは、
抱き柏紋を木瓜紋の鐶部分で囲むようになった結果と考えられる。
神社に奉仕した神官家の場合、その多くが「柏紋」を用いている。吉田神道で知られる吉田卜部氏も「抱き柏紋」を
使用している。広峰社神職広峰氏も、抱き柏紋を用いたとされ、あるいは「鐶輪に抱き柏」を用いた可能性も捨て難い。
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神紋と社家の姓氏・広峰神社のページ
■参考略系図
・『古代氏族系図集成』から作成。
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