猪苗代氏
三つ引両
(桓武平氏三浦氏流)

 桓武平氏三浦氏の支族。三浦義明の七男義連の子佐原遠江守盛連の長男長門守経連に始まる。経連の弟光盛は葦名氏の祖となった。経連は、宝治二年に鎌倉将軍九条頼嗣に仕え、会津猪苗代麻谷荘五千余町を与えられ、猪苗代を名乗ったことに始まる。
 経元にいたって、嗣子がなく葦名盛詮の次男が継いで猪苗代盛清と称した。その子盛国は宗家の葦名義広と対立して、天正17年、伊達成実の臣羽根田直景を介して伊達家に投じた。
 猪苗代盛国は、はじめ平太郎・弾正忠と称し、初名は盛親であった。猪苗代城主として、葦名氏に属した。天正十三年(1585)、五十歳で家督を嫡子盛胤に譲って隠居をしたが、後妻の讒言を信じて盛胤を廃せんとし、天正十六年五月、盛胤が黒川の葦名氏に伺候した隙に猪苗代城を襲い、これを奪った。翌十七年、伊達政宗に内応して、その軍勢を猪苗代城に引き入れ、摺上原の戦いで葦名義広が惨敗する原因をつくった。この功により、伊達家の準一家に列せら五千石を給され、引両紋を賜っている。
 一方、盛胤は左馬介を称し、父の譲りを受けて猪苗代城主となったが、父によって城を奪われた。進退に迷った盛胤は、猪苗代湖東岸の安積郡横沢村に拠って盛国と戦った。天正十七年六月、摺上原の戦いに参戦したが、伊達政宗に内応した父盛国の旗を見ていったん退いたが、また進んで伊達の陣へ突入し、深手を負って横沢村へ帰った。葦名氏滅亡後は、耶麻郡内野村に住み、そこで生涯を閉じた。
 ところで、猪苗代盛国の家督は次男が継いで宗国と称し、以後、伊達氏の家臣として続いた。  

■参考略系図