佐久間氏
三つ引両
(桓武平氏三浦氏流) |
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佐久間氏は相模国の豪族三浦氏の支流で、三浦義明の四男義春の嫡男が佐久間太郎家村と名乗り、はじめて佐久間氏を称し、その養子朝盛に至り、尾張国愛知郡御曾に移ったといわれる。佐久間を名乗ったのは、安房国佐久間の地名によったものであろう。
佐久間信盛は織田信長の父・織田信秀に仕えていたが、信長が家督を継いだ時、老臣柴田勝家・林通勝らが信長の弟信行を家督相続者にしようと策動したのに対して、一貫して信長支持を守っていたので信長から信任され、その後、重く用いられるようになった。
永禄十一年(1568)、近江観音寺城の六角義賢・義治攻めに軍功をあらわし、元亀元年(1570)柴田勝家とともに野洲河原の戦いで六角氏を破り、長光寺城主となった。
その後、比叡山の焼き討ち、三方ケ原の戦いには家康の援兵として派遣され、朝倉征伐・長島一向一揆の鎮圧にも戦功を挙げ、織田家中でも目覚ましい働きをしていた。その働きが認められ、石山本願寺攻めには主将として天王寺に出陣することとなった。天正四年(1576)のことであった。
ところが天正八年(1580)、石山本願寺が信長に講和を請い一段落したとき、突然、信盛は子の正勝とともに高野山に追放されてしまった。信長が信盛を追放した理由に、三十年間の奉公に、比類なき働きが一度もなかったことをうたっているが、三方ケ原の戦い、朝倉討滅・比叡山焼き討ち・長島一向一揆鎮圧などに戦功を挙げており、この叱責は当たらない。むしろ、五年間、本願寺攻めの主将としてみるべき成果を挙げえなかったことが一番の原因とされたようである。
しかし、これとても、佐久間の部盛個人の責任ではなく、信長軍団の全体的な戦力配置の結果であり、信盛一人を責めるのは酷であり、信盛にしてみれば、とんだ濡れ衣であったろう。
いずれにしても、信長は全十七ケ条にわたって信盛父子の軟弱ぶりを厳しく問責した。まことに厳しい勤務評定で、明智光秀・柴田勝家らの線功と露骨に比較もされている。結局、信盛父子は高野山に追放され、信盛は十津川で没した。子正勝(信栄とも)はのちに赦免され、織田信雄に仕え、天正十二年(1584)の小牧の戦いには、信雄方の将として秀吉方の滝川一益と戦っている。
のち、秀吉に仕えてお伽衆となり、さらに秀吉没後は家康に仕えた。正勝の跡は、弟で信盛の三男がその後を継ぎ、徳川旗本に召し抱えられている。
なお、一族の佐久間盛政・安政は天正十一年(1583)の賎ヶ岳の戦いには柴田勝家方として戦い、ことに盛政・安政たち佐久間四兄弟の母は柴田勝家の妹だったという関係から柴田軍の主力として活躍した。盛政は、賎ヶ岳の戦いで大岩山を急襲し、中川清秀を討ち取ったが、戦後捕らえられ、秀吉の懐柔の言葉を聞かず、山城の槙島で殺された。弟の安政は許されて蒲生氏郷に仕え、氏郷の子秀行が減封になった段階で秀吉に仕えている。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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