安見氏
藤の丸*(下り藤)
(三宅氏後裔?)
*加賀藩に仕えた一族の家紋が
「給帳」に藤の丸とみえる。 |
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安見氏は三宅姓と伝えられ、もともとの出身地は若狭国の保見荘といい、かなり早くから河内国に住み、河内守護畠山氏の被官として活躍していた。安見を「あみ」と読んでいる書もあるが、『言継卿記』に「八隅」の字が用いられていることから、「やすみ」と読むことは間違いない。
『姓氏家系大辞典』にみえる「安見氏家譜」には、「若狭国保見荘(一に安見荘)より起こる。二郎清政より安見氏と称す。七代清照は大塔宮に従い、八代清賢は吉野に戦死す。九代清儀は楠木正儀に属し、以後、連綿す」とある。
●河内守護代、直政
直政は中村円賀の子で、安見友重の養子に入り、右近丞、左近、美作守を称した。河内飯盛山城主で、河内守護畠山高政・昭高に仕えた。天文二十年(1551)五月、遊佐長教暗殺により、代って守護代になった。主君高政が三好長慶と対立すると、高政を助けて長慶方と戦った。同二十年八月、長慶入京のとき、高政とともに将軍義輝を擁して近江へ逃れた。以後、永禄二年(1559)から三年にかけて、しばしば長慶方と戦ったが、同三年十月、一旦降伏して居城を開いて、堺に出奔した。
その後、ふたたび長慶に対抗。五年三月、高政に従って久米田で長慶の弟義賢と戦って、義賢を戦死させた。しかし、主君高政との間も必ずしも親密ではなく、永禄元年最初の衝突があり、高政は出奔して岩室城に蟄居した。
天正七年(1579)七月、長慶が死去し、三好家中が三人衆方と松永久秀方に分裂すると、直政は高政とともに久秀に味方し、九年二月、高政とともに河内に乱入し、三人衆方と戦った。しかし、このときは和泉芝にて大敗した。
十一年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、高政が河内半国の守護とされたので、ともに義昭・信長政権に従った。しかし、同年秋、またも高政と対立、同じ老臣遊佐信教と協力して昭高を立て、高政を逐った。とはいえ、義昭・信長政権には忠実で、元亀元年(1570)十月より交野城を堅守し、三好三人衆の進撃を許さなかった。
●その後の安見氏
その後、畠山昭高が久秀と対立すると、直政は元亀二年五月、久秀のために切腹させられた。直政切腹の直後より翌年にかけて、久秀父子の交野城攻撃が繰り返されるが、直政の子安見新七郎は城を堅く守り、信長軍および公方衆の救援によって救われた。
三好義継・松永久秀没落後、信長旗下として河内の領地を安堵されたようで、天正六年十月、堺より帰洛途次の信長を居城にて急速させたことが「信長公記」に見えている。しかし、信長横死後の安見氏の動向は詳らかではない。
ところで、戦国期、安見氏一族から信国が出、信国は松永久秀に殺されたが、その子勝之が秀吉に属したことによって家を興した。すなわち、勝之は伊予国宇麻郡麻布において一万石を与えられているのである。ところが、関ヶ原の戦いのとき、勝之は西軍に属したため、戦後失領してしまい、のち、加賀におもむき、六千石で前田利長に仕えたという。子孫は加賀藩士として続いた。
■参考略系図
・詳細系図は不詳。
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