山川氏
三つ巴
(藤原氏秀郷流結城氏族) |
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山川氏は、秀郷流藤原氏である小山政光の子孫である結城朝光の子に始まる。すなわち、結城朝光の長男朝俊は平方氏、三男時光は寒河氏、四男重光は山川氏、五男朝村は網戸氏をそれぞれ名乗り、分家独立し
それぞれ領地の地名をもって名字とした。山川氏の歴代当主は結城氏に属して行動したが単なる家臣ではなく、分家として同盟者に近い立場にあった。
永享十年(1438)、鎌倉公方足利持氏が永享の乱を起こし、幕府軍に敗れて自殺後、持氏の遺子春王丸・安王丸は下野に逃れ、やがて常陸で挙兵した。これに際し、結城氏朝は春王丸・安王丸を結城城に招き、公然と幕府に対して反旗を翻した。これが「結城合戦」である。
これに山川氏も小山氏らとともに参加し、結城氏朝・持朝父子と結城城の籠城、上杉清方を大将とする十万の大軍を迎え撃った。しかし、翌嘉吉元年(1441)落城し、結城一党は四散した。
山川氏の台頭
結城氏が滅亡したあと、その遺領は氏朝の弟で山川氏に入嗣していた氏義の管轄するところとなったが、結城成朝が結城氏を再興すると、遺領も成朝に返された。このとき、成朝と兄の長朝との間で家督継承をめぐる対立があり、山川氏義と結城氏との間にも険悪な空気が流れた。
成朝は結城氏の勢力回復につとめたが、重臣多賀谷和泉守のいよって謀略殺された。二十四歳という若さで、いまだ子はなかった。ここに再び結城氏の家督相続問題が発生した。結局、成朝の兄長朝の子氏広が家督を継いだが、氏広も三十一歳の若さで死去した。あおの跡は嫡男の政朝が継いだが、この家督継承に際しては、山川景貞が強く介入した。景貞は子の基景を結城氏に送り込んだ形跡もある。
景貞は氏義の嫡男で、十五世紀の後から末期に結城一族の中で重鎮もの立場にあった。そのころ、小山氏に男子がなかったため、弟景胤を養子として送り込み、小山氏をその影響下においた。また、弟のひとりを上野国の領主舞木氏の養子として送り込み、さらに。弟の朝治を山川領南部の要地、女人堂砦に配置するなど、山川氏の最盛期を築き上げた人物である。
当然、結城氏に対して強い影響力をもっていたことは疑いない。その意味で、政朝が家督をついだことは、山川氏の干渉に対する結城方の反撃であったものと思われる。もっとも、基景は十九歳の若さで死んでおり、結城氏の当主であったとしても、その期間は短かったといえよう。このように、山川景貞は結城一族を自らの傘下におくほどの勢力を振るったことは確実なこととみられる。
景貞は明応八年(1499)、死去した。その四日前、政朝は専横を振るった多賀谷和泉守を多賀谷家稙の応援を得て誅殺し、結城氏の勢力回復の一歩を踏み出している。景貞の死と多賀谷和泉守誅殺の日がほぼ同じであることから、両者の間にはなんらかの関係があったことは間違いないだろう。こうして、結城氏と山川氏の力関係は逆転し、結城氏の優位が確定することになる。
結城氏との連合
以後、結城氏は戦国大名へと大きく飛躍していくことになるが、山川氏をはじめ、多賀谷氏・水谷氏らの有力国人領主との関係は「主従関係に近い同盟関係」であり、主従関係ではあるが一種の提携関係といえるゆるやかなつながりであった。いいかえれば、戦国大名結城氏は、自らを盟主とする山川・多賀谷・水谷氏らの国人領主の連合、すなわち国人一揆としての側面ももっていたといえよう。
永正から天文年間(1504〜1532)にかけて、古河公方の内紛により起きた一連の合戦では、山川朝政や政貞が結城政朝や政勝らとともに戦っている。
結城政勝の時代は、小田原の後北条氏が急速な勢力拡張を示していた。そして、氏康は足利義氏を古河公方にたて、自ら関東管領に就任した。ここに至って政勝は後北条氏と同盟関係を結び、後北条氏の後楯を得て、小田城の小田氏治との戦いを有利に進めようとしたのである。そして、弘治二年(1556)、政勝は北条氏康・公方足利義氏からの援軍を得て、常陸の海老島で小田氏治と戦い、小田氏を破り、さらに小田氏の本城である小田城も落し、年来の念願であった小田氏討滅に成功した。この合戦に山川直貞も参加し結城軍の一翼を担った。
永禄年間(1558〜69)になると、後北条氏の台頭を恐れた北関東の諸大名は連合してこれに対抗するが、かねて後北条氏と同盟関係にあった結城晴朝は後北条方につき山川氏重も行動をともにした。しかし、永禄三年(1560)越後の上杉謙信が関東に進出してくると氏重は結城氏と袂を分かち後北条方から離れ謙信方についた。永禄六年になると晴朝も謙信方についたため、ふたたび、山川・結城両氏は連合して後北条氏と対立した。その後も、謙信と後北条氏との間を揺れ動いたが、天正二年(1574)ごろ、謙信の麾下に入り、以後、後北条氏との対決姿勢を崩すことはなかった。
天正三年(1575)後北条氏は結城領に隣接する小山領を占拠し、これを足場に、同五年、山川・結城両城に攻撃をかけた。この山川氏にとって最大の危機を、山川晴重は晴朝と協力し宇都宮・佐竹・
那須氏らの支援を受けて切り抜けた。
戦国時代の終焉
天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原後北条氏を降し、関東諸将の所領を安堵、あるいは没収した。山川晴重は秀吉より所領を安堵され、同年十一月には陸奥で起こった葛西・大崎一揆鎮圧のため徳川家康より出兵を要請され、軍を率いて陸奥に向かった。
このころ、結城晴朝は家康の次男秀康を養子に迎えていたこともあって、翌年の家康書状では、「このたび結城少将、奥州表に至って出陣のところ、人数召しつれ、供を致され、精を入れられる儀、家康において祝着せしめ候」といわれている。書状のなかで山川氏の出陣は、結城秀康のお供をした、と家康から表現されているのである。ここに、やがて秀康の家臣となっていく山川氏の将来が暗示されていたともいえる。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦は、家康の全面的勝利に終わった。このとき、結城秀康は会津の上杉景勝の関東進攻を防いだ功績を賞されて、越前六十七万石に加増されて移封が決定した。翌年、秀康は越前に赴いたが、山川晴重もそれに従って越前に移った。晴重の子讃岐守朝貞は、吉田郡花谷一万七千石を与えられ重臣に列した。
ここに至って、山川氏は独立した大名への道を完全に断たれたことになり、以後、山川氏は越前家の家臣として続くことになったのである。
■参考略系図
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