脇坂氏
輪違い/桔梗*
(藤原氏後裔?)
*輪違い紋以前に用いていたという。 |
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脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名をとって脇坂と称したのが始まりという。『寛政重修諸家譜』では、安明から系譜が始まっている。
脇坂安明は浅井郡小谷城を本拠とする江北の戦国大名浅井氏に仕えた。浅井氏は亮政雄の代に勢力を拡大、孫の長政は江北の戦国大名六角氏を破り、尾張の織田信長の妹を娶ってその勢いは隆々たるものがあった。永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の陣を起こすと、長政も同盟者として信長軍の先鋒をつとめた。安明も長政に従って出陣、観音寺城攻めの戦いで討死してしまった。
安明は佐々木氏の一族田付景治の妹を妻にしていたが、子を成さないまま早世したようで、その妹を後添いに迎えた。そして、義妹が田付源左衛門との間にもうけていた男子を、みずからの養子とした。その男子こそのちの脇坂安治であった。
安治の登場
永禄十二年、織田信長は明智光秀に命じて丹波攻を行った。このとき、脇坂氏を継いだ安治は光秀に従って初陣、赤井直正の拠る黒井城攻めに功があったという。そして、同年、羽柴秀吉に仕えて食禄「わずかに三石」を与えられた。三という数字は武家がはじめて人を遇するときの習いで、人物の経歴や由緒によって三十、三百、あるいは三千というふうに数字が上がった。
以上、安治がはじめ秀吉に仕えるまでの経歴だが、腑に落ちないところが多々ある。まず、義父の跡を継いだ安治が浅井氏に仕えなかったのは何故だろうか。ついで、信長が丹波攻めを開始したのは天正三年(1575)のことであり安治初陣の功はありえない。さらに、安治が仕えた当時の羽柴秀吉は未だ近江と深い関わりを持っていなかった。加えて、浅井氏に仕えていたという脇坂氏には少なくとも幾許かの食禄があったことは間違いなく、それが三石で召しだされたというのも納得できない。
おそらく、安明が死んだのち脇坂氏は禄を失ったのではなかろうか。その結果、不遇をかこった安治は近江を去り、つてを求めて羽柴秀吉に仕えたのであろう。ひょっとして、秀吉と安明は観音寺城攻めのときに知己をえていたのかも知れない。いずれにしろ、脇坂安治が名をあらわしたのは、元亀元年(1570)、信長と浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦いおいてであった。戦後、羽柴秀吉は小谷城攻めの最前線となる横山城の城番を命じられ、安治も秀吉に従って横山城に入った。元亀三年、信長軍と浅井・朝倉連合軍とが大津で戦ったとき、安治は秀吉に従って奮戦、戦後、騎馬の士に取り立てられた。
ひとかどの武士となった安治は、天正四年、信長の安土築城における石騒動において忠節をあらわし秀吉から百五十石を与えられた。翌五年、羽柴秀吉は信長から中国攻めを命じられ、播磨に出陣した。当時、丹波攻めを進める明智光秀は苦戦を強いられ、信長は羽柴秀吉に援軍を命じた。当時、丹波には八上城に波多野秀治、黒井城に丹波の赤鬼の異名をとる猛将赤井悪右衛門直正がいた。秀吉の命をうけて丹波に下った安治は、黒井城に使者として赴き直正に投降を勧めた。敵城に乗り込んできた安治の勇気に感じた直正は、降伏は受け入れなかったものの、先祖伝来の貂の皮を贈ってその労に報いたという。これが、有名な脇坂家の「貂の皮」の由来である。
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写真=安治が直正と対面したと思われる赤井氏の居館址(興禅寺)、後方黒井城址
目覚しい出世
翌年、播磨三木城攻めに活躍、神吉城攻めにおいては兜を鉄砲で撃たれながら一番乗りの功をあげた。この三木城攻めのとき、秀吉から「金の山道に白い輪違いを付けた赤い母衣」を賜り、以後、輪違いを定紋として用いるようになった。
天正十年六月、明智光秀の謀反による本能寺の変で織田信長が斃れた。当時、備中にあった秀吉は姫路にとって返すと、京方面に押し出し、山崎の合戦で光秀を打ち破った。信長後の織田家における主導権を握った秀吉は、翌十一年、ライバルの柴田勝家と賤ヶ岳で対峙した。安治も秀吉に従って出陣、敵将佐久間盛政をはじめ、神部兵左衛生門らを討ち取る功を挙げる活躍を示した。戦後、加藤清正・福島正則らとともに「賤ヶ岳の七本槍」に数えられ、秀吉から三千石を与えられた。勝家を倒した秀吉が天下人への道を突き進むようになると、安治も順調に出世を続けていった。
天正十三年、摂津国能勢郡において一万石を賜り、従五位下中務大輔に叙任。ついで大和高取城二万石、さらに淡路洲本城三万石とわずか半年で三倍の身上となった。世間の人は驚くとともにおおいに羨んだという。翌十四年に九州島津攻めが起こると、仙石秀久・加藤嘉明、長宗我部元親・十河存保ら四国勢とともに九州に出陣した。
天正十八年の小田原攻めには、九鬼嘉隆・加藤嘉明らとともに水軍の大将として伊豆下田城を攻めた。文禄の役でも九鬼嘉隆・加藤嘉明とともに水軍の大将として出陣、巨済島によって朝鮮水軍と戦った。つづく慶長の役にも水軍を率い、巨済島で朝鮮水軍を破ったが、朝鮮水軍の名将李舜臣に大敗を喫している。帰国後、一連の戦功により、三千石の加増を受けた。
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると秀吉の恩顧もあって最初西軍側であった。しかし、嫡男の安元をして徳川家康に通じ、合戦中に東軍に転じるという「裏切り」を演じた。決戦後、小早川秀秋に随って家康の陣に参候、命を受けて佐和山城攻めに加わり、所領の保全をえた。以後、徳川家康に仕え、十四年、のち伊予大洲五万三千石の領主となった。大坂の陣で豊臣家が滅んでのち、致仕を願い出て許され、家督は嫡男の安元が継承した。
近世大名として続く
三代将軍徳川家光の治政の頃、「寛永諸家系図伝」が編纂された。このおり、戦国時代に槍一本で成り上がった大名諸家があれこれとりつくろった家系や系図を提出するなかで、脇坂安元は祖父安明から稿を起こし、その冒頭に「北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」 という和歌をしたためて提出したという。その正直なことに、家光はおおいに感じ入ったと伝えられている。
その後、脇坂氏は信濃国飯田に転じ、寛文十二年(1672)、播磨国龍野五万一千石へ転封となった。
以後、封を継ぐこと十代、脇坂氏は明治維新を迎えた。
龍野城下を歩く
写真:龍野城のある鶏籠山・龍野城址・城址に残る脇坂氏の家紋
歴代藩主のなかでは、忠臣蔵事件の折、赤穂城接収の上使となった淡路守安照や、「仙石騒動」や「延命院事件」に寺社奉行として辣腕をふるい、老中にまで出世した淡路守安薫らがいる。「延命院事件」とは、大奥の桃色遊戯にふけっていた谷中の延命院に対して誰もが手をつけなかったのを、新しく寺社奉行となった安薫が手を入れ、きびしく処断した事件のことである。その後、安薫は寺社奉行を辞任したが、天保元年ふたたび寺社奉行に登用された。そのとき、「また出たと坊主びっくり貂の皮」という川柳が流布されている。一方、関ヶ原の合戦における裏切りに対しては「貂の尾を輪違いに振る関ヶ原」という川柳がのこされていて、
江戸時代、貂の皮が脇坂家の代名詞だったことがうかがわれる。
【参考資料:寛政重修諸家譜・戦国大名諸家譜・戦国武将総覧 ほか】
■参考略系図
・脇坂氏の出自は諸説あって一定しない。家紋に桔梗も用いていることから、美濃の土岐氏の庶流の可能性が高いが…。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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