分部氏
丸に三つ引両 (藤原南家工藤氏流/清和源氏?)
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伊勢国安濃郡分部村を発祥地とする。その先祖については諸説がある。一つは、藤原南家工藤氏流とするもので、工藤祐経の六世の孫高景が、足利尊氏に仕えて伊勢国安濃郡長野の地頭となり、その曽孫光久がはじめて分部氏を称したというもの。もう一説は、清和源氏の流れというものである。また、在原氏流長野氏の後裔とする系図が『古代氏族系譜集成』に収録されている。前後のことから考えて、長野工藤氏の後裔というのが自然なようだ。
伊勢長野氏の家臣として、累代分部城に居城した。光高のときには長野藤定に仕えて活躍し、藤定が子なくして死んだときには、光高が奔走して信長の弟織田信包を後嗣としている。光高には実子がなく、細野藤光の次男を養子として迎えている。それが光嘉で、『寛政重修譜』には「天文二十一年(1552)伊勢国に生る。のち光高が養子となりてその女を室とす。伊勢国羽野合戦のとき十六歳にして軍功をはげまし、二箇所の疵をかうぶる」と記されている。
また、信包を長野家に迎えたのは光高の養子となった光嘉とするものもある。すなわち、光嘉は永禄十年(1567)十六歳のとき、北畠国司家との一志郡葉野合戦において養父光高が戦死したことに悲憤して敵陣に突入して功を挙げ、同十一年織田信長の長野氏攻めにあたっては兄細野藤敦の好戦主張に対し、和順を説き、長野家に信長の弟三十郎信包を嗣として迎かえ入れたという。
近世大名に生き残る
以後、信包に仕えて、永禄十二年、信長の北畠攻略戦に長野氏の与力であった川北氏らとともに織田勢に従い、元亀元年(1570)には、信包の命により普請奉行となり津城の仮城として上野城を築城した。天正八年(1580)に津城が完成し、信包は津城に移り、光高は上野城で城代となった。元亀九年、信長の伊賀攻めに従軍し、のち、家康から味方になるように勧められたが、累代長野氏に属していたことから、信包に属した。
その後、文禄三年(1594)に信包は近江に移り、このとき、光嘉は信包を離れて豊臣秀吉に属し、伊勢国の飯野・度会・一志郡で三千石、慶長二年に奄芸郡で加増されて四千二百石、上野城主、左京亮となった。家康の推薦を受けて太閣の赤布衣衆に加わり、度会・一志郡で加増を受けて一万石の大名となった。
慶長五年(1600)、家康に従い会津征伐に従軍、石田三成の挙兵によって伊勢に帰国、富田信高とともに津城で西軍の毛利秀元らと戦ったが、敵せず城を逃れて高野山に幽居した。のち戻されて関ヶ原の戦いの功によって奄芸郡で一万石を加増され、二万石の大名となった。
光嘉は長子に先立たれ、外孫にあたる光信を養子とした。光信は大坂の陣に従軍、戦後近江大溝二万石に転封され、以後、その地で代々封を継ぎ明治維新を迎えた。
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