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和田氏
●三つ引両に檜扇
●桓武平氏三浦氏の一族
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戦国時代、現在の高崎市周辺を領した和田氏は、桓武平氏三浦氏の一族である和田義盛の後裔と伝えられている。三浦氏は桓武平氏良文流で、世にいう坂東八平氏の一である。良文の子忠通は源頼光に従い、その子為通は前九年の役に源頼義のもとで活躍し、その功で相模国三浦の地を与えられたという。以後、三浦氏は源家との関係を深めた。
鎌倉幕府の有力者、三浦一族
治承四年(1180)源頼朝が挙兵すると、三浦一族はこぞって頼朝に従い、鎌倉幕府創設に尽くした。相模国府で頼朝が行った「論功行賞」で、義澄・義盛らは本領安堵、新恩拝領を受け、義澄は三浦介の名乗りを許された。このころ義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに「宿老」として頼朝のブレーンとなった。そして、甥の和田義盛は侍所別当の要職に任じられた。
建久元年(1190)上洛した頼朝の参内に随兵の筆頭として義澄、それに義盛・義連らも加えられた。建久十年、頼朝が死去し、子頼家の吉書始めに列席した北条義時・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時らのメンバーは以後、合議して幕府の政務を決裁した。和田義盛は、京都では「三浦の長者」とされ、将軍実朝への年頭の"椀飯(おうばん)"を広元、義時・時房兄弟についで献じている。
その後、幕府内は有力御家人同士による政争が頻発し、まず梶原景時の失脚、滅亡につづき、比企能員・仁田忠常、さらに畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人があいついで失脚、滅亡した。この間、北条氏は頼朝の外戚、三浦氏は御家人の筆頭として幕府を支えた。激動のなかで北条氏は実朝廃立をはかって隠退に追い込まれた時政に代わって義時が実権を握り、三浦氏は義澄の子義村が幕政の中央に登場した。
やがて、義盛は北条義時との間に確執を生じ、建保元年(1213)二月、一族の三人が幕府に検挙されるという事件が勃発。この事件で面目をつぶされた義盛は義時打倒の兵を挙げ幕府を襲撃した。戦局は義盛に有利に展開したが、本家の三浦氏が幕府方に寝返り、急を聞いた御家人らがかけつけるにしたがい、義盛軍は頽勢となり結局敗れて自刃した。義盛の蜂起に際して、宗家三浦氏の義村をはじめ一門のほとんどが加わらず、義盛の甥重茂も義村と行動をともにした。この乱は、和田一族が強力になることを危惧した北条義時が義盛を挑発し、早期弾圧を加えたものであった。
上野和田氏の出自
和田氏の乱で、和田義盛の一族のほとんどは滅亡し、わずかに一人、幕府に味方して和田氏の家名を断絶させなかったのは、重茂の子次郎実茂であった。しかし、実茂も宝治元年(1247)の三浦氏の乱で三浦泰村に従って父子ともに討死し、和田氏の主流は滅亡した。
その中で、実茂の弟時茂だけはいかなる理由か「赦免の教書」を与えられ、名字を後代に伝えることとなった。時茂は相模国鎌倉郡南深沢郷津村の屋敷田畠と越後国奥山荘地頭職の地頭職を領有し、その子孫は「三浦和田」と称して中世の越後に勢力を築いた。越後の戦国時代に活躍した中条藤資はその嫡流である。
さて、上野の戦国時代に名を顕した和田氏であるが、『上野国誌』には「和田城は群馬郡、いまの高崎也。和田義盛の七男六郎左衛門義信、鎌倉合戦(和田の乱のこと)のとき、逃れて蟄居し、上野国に至る」とあり、『姓氏家系大辞典』には「群馬県和田より起る。和田義盛の六男(あるいは七男)義信の裔と云ひ、あるいは在原姓長野氏の族と見ゆ」とあり、義信を上野和田氏の先祖であろうとしている。しかし、『吾妻鏡』には和田六郎左衛門は「被討人々」のなかに入っているし、『和田系図』には「六郎左衛門尉、父同被誅、十八才」とある。
姓氏家系大辞典の記す在原姓長野氏の一族というのは、和田氏が長野氏と姻戚関係を結んだことが誤伝されたものであり、桓武平氏和田氏の裔とする説が有力であろうと思われる。しかし、義信が直接の祖となったのかといえば、それも疑問が残るものといわざるをえない。
和田氏の興隆
上野和田氏のことを記した『和田記』は、始祖を六郎左衛門義信の弟にあたる義国とし、以後、歴代のことを記述している。これによれば、義国は和田合戦に敗れて葛西谷を切り抜けて、西上州群馬郡和田山に退いて蟄居した。合戦のとき、義信は十八歳(二十八歳とするものもある)でつぎの弟秀盛は十五歳とあることから、義国はさらに幼かったであろう。合戦に参加して切り抜けるという行動がなし得たとは考え難く、やはり、上野和田氏の祖は六郎左衛門義信に比定できるのではないだろうか。いずれにしろ、上野和田氏の祖(義信か)は寛喜二年(1230)に赤坂駅へ移住したといわれる。
義信(あるいは義国)の子は正信は、寛元年間(1243〜46)、相模国の三浦三社を密かに赤坂明神の地へ勧請し、興禅寺を菩提寺、玉田寺を祈願寺にしたという。その子信高は鎌倉幕府の滅亡期にあたり、新田義貞に従ったという。この信高のとき、それまでの赤坂駅を改めて和田宿とした。応安三年(1368)新田義宗・脇屋義治が寺尾城で挙兵したとき、和田高重は子の重信とともに、尹良親王・宗良親王を寺尾館に迎えたという。これをそのまま信じるならば、和田氏は南北朝の内乱に際して、南朝方として行動し、それなりの勢力を有していたことになるが、どのようなものだろうか。
南北朝の内乱が終熄すると、関東は鎌倉府の勢力下におかれ、関東公方足利氏とそれを補佐する関東管領上杉氏が君臨した。しかし、鎌倉府は幕府に対抗的で、持氏は「永享の乱(1438)」をひき起こして滅亡、ついで「結城合戦(1440)」が起り、鎌倉府は断絶した。その後、成氏が赦されて鎌倉府が再興されたが、成氏は管領上杉氏と対立し「享徳の乱(1455)」が勃発、この乱が契機となって関東は一気に戦国時代へと突入することになる。以後、関東は公方方と管領方に分かれて合戦が繰り返された。
この関東争乱の時代に生きたのが和田義信で、関東管領上杉憲実に従い、正長元年(1428)に和田城を築いた。一方、『上毛伝説雑記』では義信の子信忠が応永二十五年(1418)に築城したと記している。いずれにしろ、和田城は十五世紀のはじめに和田氏が築いたことには間違いないようだ。信忠は永享の乱に際して上杉氏に従い、その先陣をつとめて足利持氏を攻めた。結城合戦にも上杉方として攻城軍に加わり軍功をあげているが、この合戦には上州一揆の一員として参加したことが知られる。
つづく享徳の乱で、鎌倉公方成氏に対抗した上杉房顕が死去したのち上杉氏を継いだ顕定は越後守護上杉房定の二男で、和田城から鎌倉へ入って関東管領に就任したのだという。このように、和田氏は一貫して上杉氏に属して着実に勢力範囲を拡大していったようだ。
後北条氏の勢力伸張
信忠のあと、信清─信種─勝業と続いたというが、このころの和田氏の系譜は必ずしも明確ではない。勝業は将軍義輝から右兵衛大夫に任ぜられ、信輝と称した。輝の字は義輝から偏諱を賜ったものであろうか。天文七年(1538)北条氏綱と上杉朝定が戦ったとき、朝定に従い河越で討死した。
このころ、小田原を拠点とする後北条氏の勢力が拡大し、関東地方の戦乱の様相も変化を見せ始めた。それを決定的にしたのが、天文十三年の「河越合戦」である。河越城は扇谷上杉氏の持城であったが、後北条氏に奪われ、北条綱成が城将として入り後北条氏の関東進攻の拠点となっていた。これに対して、山内上杉氏・扇谷上杉氏が連合し、それに古河公方足利晴氏も加担して、総勢八万騎という大軍をもって河越城攻撃の軍が起こされたのである。和田氏も上野の国人衆らとともに管領山内上杉氏に従って参加していた。
この情勢に北条氏康は八千騎を率いて河越城救援に向かったが、連合軍のあまりの軍勢の多さに一計を案じ、連合軍を油断させ乾坤一擲の夜戦を決行した。この氏康の必死の奇襲に数を誇って油断しきっていた連合軍は潰滅的な敗北を喫し、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政は平井城に逃亡、公方も古河城に逃げ帰った。この一戦によって、関東の政治地図は塗り替えられ、以後、後北条氏の勢力が関東を席巻するようになった。
河越合戦に敗れたのちも上杉憲政は後北条氏と対立し、『相州兵乱記』には「成田下総守、新田、長尾、由良、深谷、安中。山上、和田、倉賀野以下、長野信濃守を初めとして、大名数万騎あれば、度々の合戦に負しかども、国をばついに不破取」とあって、和田氏が憲政に属して反後北条の立場をとっていたことがわかる。長野信濃守は箕輪城主の長野業政のことで、上州一揆の盟主として、また上杉方の剛将として知られていた。業政には女子が多く、長尾氏、小幡氏、一族の厩橋長野氏、安中氏、倉賀野氏、そして和田氏に娘を配して舅となり一大勢力を築いていた。
上杉憲政は後北条氏に対して抵抗を続けながら、その一方で甲斐の武田晴信を攻めている。憲政の甲斐攻めには和田業繁も従い、信濃・上野の国境である碓氷峠で武田軍と戦ったが上杉勢は敗れ、逆に武田氏の上野進攻を許してしまった。以後、武田氏の西上野進攻がつづき、天文十八年(1549)には三尾寺で合戦が行われ、和田業繁は安中越前守や倉賀野三河守らとともに参加した。翌十九年には松井田城が攻められ、業繁は松井田城救援のため出兵している。この間、後北条氏の攻勢はやむことなく、天文二十年(1551)、北条氏康と神流川で戦い敗れた憲政は平井城を追われ、ついに越後の長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。
上杉・後北条・武田の攻防
弘治三年(1557)信玄が西上野に侵攻、長野業政を大将とする和田・倉賀野・小幡・安中・後閑ら西上野の諸将は瓶尻原に武田軍を迎え撃った。しかし、上州勢の敗北となり、武田軍は業政の居城箕輪城まで迫る勢いを示した。箕輪城はよく武田軍の攻撃を防ぎ、やがて長尾軍が越山したとの報を受けた武田勢は兵を引き揚げて行った。この箕輪攻防戦において、和田兵衛門尉は箕輪守将の一人として奮戦した。
他方、憲政を迎え入れた景虎はその要請を受けて、永禄三年(1560)、みずから兵を率いて関東に出陣した。そして、関東で越年した景虎は小田原城を攻め、憲政から上杉の家督・名字・重代の宝物を譲られて関東管領に就任した。のちの上杉謙信(以後、謙信に統一)の誕生である。これに対し、後北条氏は甲斐武田氏と結んで謙信と対立した。
以後、謙信の越山は連年のように繰り返され、関東を舞台に後北条氏と戦った。一方で、武田信玄も西上野に侵攻を繰り返し、西上野は上杉・後北条・武田三氏の争奪の場となった。
戦国時代の関東諸将(上杉方)の家紋を知る史料として『関東幕注文』が知られる。これは、謙信が永禄三年の関東出兵のとき配下の諸大名・武将の幕紋を書き留めたもので、和田氏はこのなかに「箕輪衆」の一員として把握され、「長野 ひ扇」と記され、以下、新五郎・南与太郎・小熊源六郎・長野左衞門らが同紋とあり、和田八郎「ひ扇」と続いている。和田氏は長野氏との姻戚関係から長野氏の紋である「檜扇紋」を贈られたのであろう。
ところで、謙信は永禄四年に関東管領職就任の儀式を鶴岡八幡宮で執り行った。このとき、成田下総守が非礼を働いたとのことで謙信から叱責を受け、本国に帰ってしまうという事件が起った。この事件によって、上野の諸将は謙信に反感をもったようで、和田業繁も上杉氏から離反した。そして、同年八月業繁は武田氏に内応して、箕輪城攻略を企てている。
甲斐武田氏に転向
永禄六年、長野業政が病死し業盛が箕輪城主となった。いままで、業政の存在によって西上野の攻略が思うにまかせなかった武田信玄は、好機到来とばかりに箕輪城攻撃の軍を進めた。箕輪勢は武田軍に抵抗したが、ついに城は落城、上野の諸将は武田氏に降り、武田氏の上州先方衆として組織されたのである。
永禄八年、上杉謙信は和田城を攻略しようとしたが、信玄が箕輪から石倉を攻めたことで落城をまぬがれた。以後、和田城は上杉・武田両軍の争奪戦にさらされることになる。九年七月、謙信は和田城に兵を進めた。総勢一万三千という大軍であった。これに対して、和田方は城将業繁をはじめ兵部信勝らを含め六百人、武田からの加勢横田康景らの兵を合わせても九百余人という寡勢であった。
和田城の合戦は激戦であったが、城兵はよく上杉軍の猛攻撃を防いだ。なかでも武田からの援将横田康景の活躍は目覚ましく、得意の鉄砲を駆使して上杉軍を悩ました。その後、越後に叛乱が起ったという報に接した謙信が兵を引いたことで、和田城は窮地を脱することができた。その後も、和田城は武田軍の上州における前線基地として重要な役割をになった。
元亀三年(1572)、上洛の軍を起こした武田信玄は遠州に進攻したが、翌年宿病が悪化して死去した。信玄のあとを継いだ勝頼も勇将であったが父信玄には及ばず、天正三年(1575)、織田・徳川連合軍と長篠で戦い潰滅的な敗戦を被り武田氏は衰退の色を濃くしていった。「長篠の合戦」に和田業繁は、小幡氏らとともに武田信実の手に属して参加した。信実は鳶ヶ巣山の守将となり、和田業繁は鳶ヶ巣山の北方にある君ケ臥床の砦の守将となった。
織田・徳川連合軍は決戦の前に、鳶ヶ巣山の武田軍を除く作戦を立て、酒井忠次を大将として折からの雨をついて夜襲を決行した。油断していた武田勢は、酒井勢を迎え撃ったが頽勢を立て直すことはできず、ついに鳶ヶ巣山は陥落した。君ケ臥床の和田業繁は鳶ヶ巣山の救援に向かったが、鉄砲玉にあたって負傷し和田勢は潰走した。業繁は虎口を脱したものの、このときの戦傷がもとで死去した。そのあとは、娘婿である信業が家督を相続した。
時代の変転
天正六年(1578)になると上杉謙信が死去し、その後の家督争いで上杉氏も大きく勢力を後退させた。一方で、武田騎馬軍団を長篠で屠った織田信長が着々と天下統一に向けて前進していた。そして、天正十年(1582)、織田軍の甲斐侵攻によって武田氏も滅亡、武田氏の旧領地は織田氏が治めるところとなった。上野は信長の部将滝川一益が与えられ、和田氏は管領として入部してきた一益に人質を差しその麾下に属した。
ところが同年六月、織田信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死してしまった。京に帰ることに決した滝川一益は、後北条氏と神流川で戦い敗れ、かろうじて上方に逃げ帰った。こうして上野は後北条氏が支配するところとなり、和田信業も北条氏直に降参して、以後、後北条氏に従うようになった。そして、天正十四年には、北条氏直に従って常陸谷田部城攻めに従軍している。
信長の死後、羽柴秀吉が頭角をあらわし、信長の天下統一事業を継承し天下人への道をひた走った。こうして時代は天下統一の速度を速め、ついに天正十八年(1590)の春、豊臣秀吉は小田原北条氏攻めの軍を京都から進発させた。この事態に際して和田信業は後北条氏に加担して小田原城に籠城、和田城は信業の子業勝を擁した柴田弥次郎らが守った。そして、和田城は前田利家を大将とする北国軍に攻撃され落城、業勝は城を落ちていった。
小田原城も七月に開城し、後北条氏は潰滅、和田信業は小田原城を脱出して和田城に向かったが、その途中で業勝らと出会った。そして、許されて高野山に上ることになった北条氏直に同行したが氏直は間もなく死去してしまったため、徳川氏麾下の小笠原忠政を頼ってその配下となり、大坂の陣に出陣して活躍したという。信業の子業勝は成人すると保科氏に仕え、子孫は保科から松平と改めた会津松平氏に仕えたと伝える。
会津松平氏の家臣の家系と家紋を記した『会津藩諸士系譜』に和田業甫・三百石とみえ、先祖は右兵衛大夫信業とし「三つ引両に檜扇」の家紋が記されている。和田氏は桓武平氏三浦氏から分かれたことは冒頭に記した通りで、三浦氏一族の代表紋は「三つ引両」であった。会津藩に仕えた和田氏の家紋は、遠祖三浦氏の「三つ引両紋」と長野氏から贈られた「檜扇紋」とを組み合わせたもので、先祖の名残りと家の歴史を明確に伝えたものであるといえよう。・2006年2月15日
【参考資料:高崎市史/三浦氏の後裔 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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