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内空閑氏
●五葉木瓜/矢車/鷹の羽
●藤原北家流/伊賀服部氏流
「矢車」は伊賀服部氏流の代表紋であり、「鷹の羽」を用いたのは、菊池氏から下賜されたものであろう。
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内空閑氏は、戦国時代に肥後国山本郡最大の豪族であった。内空閑は「うちのこが」と呼び、内古閑とも記される。
内空閑氏の出自については諸説があり、伝承によると伊賀国の出身だという。『肥後国誌』によれば、内空閑氏の祖は藤原氏で伊賀国服部荘の地頭であったという。すなわち、備前守基貞が明徳三年(1392)に肥後に下向、霜野に城を築き内空閑を家号とするようになった。そして、『下野雑記』を載せ、後嵯峨天皇のときに伊賀国上野城主服部備前守が、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、同郡に移住し、その地名をとって内空閑刑部大輔元鎮と号するようになったというのである。
一方、服部内空閑家に伝来する系譜によれば、伊賀国上野城主服部伊賀守藤原鎮基の長男備前守基貞が、永仁元年(1293)伏見天皇のとき、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、その年のうちに下向して来たとしている。さらに、『事蹟通考系図』には、明徳元年(1390)基貞のとき、伊賀を去り菊池武朝に属し、武朝より五百五十町歩の所領を得て、内空閑に下向し内空閑に改めたとしている。
以上のように、内空閑氏に関する伝承をみると、伊賀国服部荘の地頭で上野城主であった貞基が肥後に領地を得て下向した。そして、霜野城を築いて内空閑氏を称したということで、ほぼ共通している。しかし、下向の時期については、たとえば永仁元年説と明徳元年説を比較すると百年近くの差があり、不明としかいいようがない。
戦国時代への序章
内空閑氏の祖が伊賀国の住人であったかどうかは別にして、内空閑氏が肥後守護菊地氏の老臣として活躍していたことは紛れもない事実である。『菊池家老臣連署知行坪付』によれば、「内空閑備前守重載」が城上総介頼岑、隈部和泉守宗直、赤星弾正少弼重規など十名の人々と一緒に老臣としてその名を記されている。
また、内空閑氏の人物として、重載をはじめとして、鎮真(鑑貞)・鎮資・為載らが、『五条文書』『正観寺文書』『願行寺文書』『宝成寺文書』などの古文書のなかに名前をあらわしている。そして、為載は重載の父であり、文明十三年(1481)の菊池重朝の『万歌連歌』にも名を連ねている。
内空閑氏が仕えた菊池氏は、南北朝期に宮方として活躍し、室町時代を通じて肥後守護職の座にあった。しかし、十五世紀後半になると、次第に衰退の色を深くし、一族や重臣の反抗に悩まされるようになった。重朝のとき、叔父宇土為光が謀叛を起したが、重朝はこれを撃退している。ところが、為光を保護した相良為続との間で抗争となり、重朝は連敗を喫して、為光の宇土城復帰を黙認する有様となった。
重朝のあとを若年の武運(能運)が継承すると、重臣隈部氏が謀叛を起こし、これに相良為続も同調した。一旦敗れた武運は、明応七年(1498)、有馬氏、筑後・豊後の援軍を受けて挙兵、隈部氏らの叛乱を退けた。
文亀元年(1501)、伯耆為光を擁する隈部忠直が謀叛を起こし、能運は有馬氏を頼って肥後から退去した。文亀三年、能運は重臣城越前守、隈部兵部少輔らに擁立され、有馬氏、相良長毎らの応援を得て、八代城を攻撃、為光を討ち取った。しかし、翌永正元年(1504)、能運は前年に受けた戦傷が癒えず死去してしまった。
守護菊池氏の衰退
この能運の死をもって、肥後国は本格的な戦国時代を迎えることになるのである。能運の死後、一族から政隆が家督に迎えられたが、重臣らはこれを歓迎しなかった。
菊池氏の動揺をみた阿蘇大宮司惟長は、肥後守護職を望み、大友義長の支援を得て菊池氏の重臣に種々の働きかけをした。その結果、菊池氏の重臣八十四名は政隆を追放し、惟長を迎えて守護に推戴した。肥後守護となった惟長は大宮司職を弟の惟豊に譲り、隈府城に入ると菊池武経と称した。一方、山鹿に逃れた政隆は、山本郡の内空閑重載の援助を乞うた。
重載は一族の内空閑朝誠・同運直・同朝貞らとともに政隆を追放した八十四名の内に加わっていたが、心からの惟長支持派ではなかったようだ。その後、政隆は山鹿、山本、玉名と転々とした末に、大友軍と戦って敗れ自害した。一方、菊池氏を継いで肥後守護となった武経も、菊池氏重臣の反抗によって、永正八年、阿蘇へと帰っていった。内空閑重載、隈部親氏ら菊池氏重臣は、菊池一族の詫磨氏から武包を迎えて守護とした。
永正十五年(1518)、大友氏を継いだ義鑑は、菊池氏重臣に迫って武包を追放させると、同十七年、弟の重治を菊池に入れ肥後守護としてしまった。重治は隈府城に入ったが、やがて鹿子木親員、田島一族の支持を得て隈本城に落ち着いた。これは、菊池家中における実力者である隈部・赤星・城氏らを、重治が嫌った結果でもあった。かくして、肥後守護となった重治であったが、次第に大友宗家か自立する動きを見せはじめた。
結局、重治はその高慢な姿勢が災いして重臣らの支持も失い、相良氏を頼って隈本城から退去した。義鑑は内空閑長載ら、菊池氏重臣らに重治への協力をせぬように書状を送り、天文十二年(1543)、みずからが肥後守護となった。ここに至って、肥後守護菊池氏の命運は極まったといえよう。
乱世を生きる
天文十九年、大友義鑑は「二階崩れの変」で家臣によって殺害された。これをみた義武(重治改め)は、田島氏、鹿子木氏らと結んで隈本城に復活した。一方、義鑑のあとを継いだ義鎮は家中の混乱を治めると、城氏、小代氏らの支持を得て、肥後に進攻すると翌年には肥後の中北部を征圧し、義武を殺害した。
義鑑は隈府城に赤星氏、隈本城に城氏を入れ、守護代として志賀親守を配し、大津山城には小原鑑元を城督として入れて筑後方面に備えた。かくして、肥後は大友義鎮の支配下、菊池氏老臣らが実質的な支配を行った。この結果、肥後一国には強力な戦国大名が生まれず、五十二人の国衆とよばれる土豪層の割拠状態となった。
ところで、長載の子親貞は天文二年(1533)五月、薩摩の島津氏が芦北津奈木を攻めたとき、城・赤星・田島・鹿子木氏らと菊池家を奉じて戦い、戦死したと伝えられている。つぎの鑑貞は大友義鑑から一字を賜り、義鑑の死後は義鎮に仕えたというが、その治績は伝わっていない。鑑貞の子が鎮資で、民部少輔・但馬守を名乗り、正観寺文書・宝成寺文書などによれば、『内空閑鎮資書状』などを残し、菊池氏の老臣の一人として活躍していたことが知られる。そして、肥後国が義鎮の支配下に入ったとき、霜野城にあって肥後国人の有力者のひとりであった。
鎮資は隈部親家の娘菊姫を室に迎えたが、二人の間に子ができなかったため、菊姫の弟源三郎(のち鎮房)を養子に迎えた。ところが、その後男子(のち鎮照)が出生したことで、内空閑家中は養子派と実子派とに分かれて対立が生じた。そして、永禄九年(1566)の盆踊りのとき、互いの放言から大騒ぎになったと伝えられている。
内空閑氏の対立はその後も続き、内訌をみた隈本城主城親賢が仲介に立った。親賢は着々と勢力を拡大する隈部氏を牽制するため、積極的に鎮照・鎮房の間をとりなしたのである。そして『霜野由来記』によれば、鎮房が霜野城を本拠に二百七十五町、鎮照が内村城を本拠に二百七十五町を領することで内紛は一件落着したとある。
戦国時代の終焉
天正六年、日向に進攻した大友氏が耳川合戦で島津氏に敗れると、城親賢は大友氏を見限り島津氏にくみするようになった。一方、隈部氏は天正五年ごろより肥前の龍造寺隆信に通じて肥後侵攻を促し、天正七年、龍造寺隆信は小代氏を攻略、同九年には赤星氏を隈府城に破り肥後を支配下においた。龍造寺の肥後侵攻を阻止するため、城氏は島津氏に支援をたのみ、援兵を隈本城に迎えている。
その間、内空閑氏は隈部氏とともに龍造寺氏に通じていたようで、島津勢の攻撃を受け、内村城は落城した。鎮照は霜野城に逃れて、鎮房とともに島津勢の攻撃を防戦した。その後も島津氏の侵略は続き、ついに天正十一年、内空閑氏は島津氏の軍門に降った。翌天正十二年、島津氏は有馬氏を支援して島原沖田畷で龍造寺隆信と戦い、隆信を敗死させた。ここに至って隈部親泰も降伏、天正十四年には阿蘇氏が追われ、肥後一国は事実上島津氏の勢力下におかれた。
肥後・肥前を征圧した島津氏は、大友氏の本拠である豊後への侵攻を開始した。島津氏の攻勢に万事窮した大友宗麟は、上洛して豊臣秀吉に島津氏征伐を依頼、天正十五年(1587)、秀吉は島津征伐の軍を発した。物量とも圧倒的に優勢な秀吉軍の攻勢に、島津義久は降伏して薩摩に逼塞した。その後の九州仕置において、秀吉に従った鎮西の国人衆は秀吉より所領を安堵され、内空閑氏も山本郡のうちで千五百町を安堵された。
秀吉は肥後一国を佐々成政に与え、三年間の検地禁止を命じた。ところが、領内把握を急いだ成政は検地を進め、これに反発した隈部親永らは国衆一揆を起した。成政は六千の兵を率いて隈部城を攻撃、親永は子親安が籠もる城村城に入って佐々勢を迎え撃った。内空閑鎮房も一揆方に味方して、成政の甥宗能を鹿子木で討ち取った。
内空閑氏の滅亡
この事態をみた秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正十六年五月、命令を守らず一揆を引き起こした罪をもって切腹を命じた。一揆軍に対しては九州諸大名に動員令を出し、黒田如水を上使として送り隈部親永は降伏した。その後、親永と親安は切腹を命じられて、それぞれ腹を切り隈部氏は滅亡した。
内空閑鎮房は霜野城を落ちのびて、柳川に陣する安国寺恵瓊のもとに走って弁明につとめた。しかし、柳川城主立花宗茂によって討ち取られた。一方、内空閑鎮照は小代氏を頼って玉名郡石尾村に逃れていたが、安国寺恵瓊は周辺の武士に命じて鎮照を襲撃した。鎮照は散々闘ったあと屋敷に火をかけ自害して果て、内空閑氏は滅亡した。
とはいえ、内空閑氏の子孫については『内空閑財満系図』によれば、鎮照戦死のとき一児が残され、長じて鎮員を名乗ったという。子孫は財満を称して存続したと伝えているが、往時の勢いに盛り返すことはかなわなかった。 ・2005年1月12日
【参考資料:熊本県大事典/植木町史/鹿央町史 など】
■参考略系図
・「内空閑氏記」所収系図を紹介。下記のものは鹿央町史より。
基貞─為載─重載─長載─載久─親貞─鑑貞─鎮資┬鎮房
└鎮照
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