多劫氏
三つ巴
(藤原氏流宇都宮氏族) |
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多劫(多功)氏は宇都宮氏の五代頼綱の四男宗朝が宝治二年(1248)に多劫駅に城を築き、多劫および児山・大領・成田等およそ1500町歩を領し、正嘉元年(1257)に石見守に任ぜられ多劫氏を称したことに始まる。初代宗朝は正元元年(1259)長子の家朝に家督を譲ったあとも、石見前司として鎌倉に出仕、多劫を長とする西上条の旗頭として宇都宮宗家の重鎮であった。
かれはまた、弘長二年(1262)宇都宮城内の応願寺を多劫に引き、雲光山蓮花院西念寺を創建、宗廟として祖父浄阿弥業綱、父直阿弥頼綱の霊を祀った。三男の朝定は、弘安五年(1282)に児山に城を築いて分家し、多劫の本城は二男で家朝の弟朝継が継承した。以降、多劫氏は多劫城に拠って、頼綱の二男頼業が築いた横田城とともに、宇都宮城の防衛に大きな役割を果たした。多劫氏は、代々武勇に長じたものが多く、宇都宮氏を援けて所々の合戦に活躍した。
朝継のあと、系図のうえでは朝経、景宗、宗秀と続いたが、それぞれの事蹟は必ずしも明確ではない。宗秀の子宗冬は、康暦二年(1380)正月、宇都宮基綱と小山義政が河内郡裳原において合戦となったとき、子の満朝とともに一族を率いて出陣、奮戦、父子ともに重傷を負いかろうじて多劫城に立ち戻った。
宗冬は剛将であったようで、「系図」には「鉄棒を振って人馬に限らず当たるを幸い、右往左往に投げ立ちける」と記されている。そして、裳原合戦のときは四十一歳という壮年であった。満朝の子は長朝(朝昌)と名乗ったが満朝とわずか二歳違いであり、おそらく弟にあたる人物で兄のあとを継いだものであろう。
『下野国誌』所収の系図によれば、長朝の子は房朝と記されている。しかし、房朝は天正十七年に死去していることから、長朝の子とするには一世紀以上の空白が生じることになる。長朝以降の歴代は『石崎本・多劫系図』にある長朝の子昌綱から建昌、建昌の子長朝とする方が世代的にも自然である。おそらく満朝の子長朝と建昌の子長朝とが混乱したものと考えられる。ちなみに建昌は天文二十年(1551)米寿の祝賀を催し、元亀三年(1572)に百十歳で死去した、現代でもまれな長命を保った人物であった。
多劫氏の奮戦
天文十八年(1549)、長朝と房朝父子は、宇都宮尚綱が那須氏と五月女坂で合戦したとき、宇都宮軍の先陣とあんって奮戦した。ついで、永禄元年(1558)五月には、上杉謙信が会津黒川城主の蘆名盛氏と連合して上野から下野に進出し、宇都宮氏の有力支城である多劫城・上三川城を攻撃してきた。このとき、長朝は、
今泉・真岡・児山・宇都宮氏らの援軍を得て上杉勢の先陣佐野小太郎をはじめ数多くの上杉勢の将士を討ちとった。長朝は敗走する越後勢を追撃して上州白井まで遠征したが、岩槻城主太田入道三楽の仲裁によって和睦している。この戦いを、のちに「多劫の合戦」と称される。
さらに、元亀三年(1572)、小田原の北条氏政の下知を受けた秩父新九郎、太田十郎、松田左馬介等の連合軍が大挙して下野に攻め込み、小山城を落し、多劫城へと迫ってきた。このとき、房朝は家臣の石崎・野沢・簗らを指揮して防戦につとめ、よく戦って後北条軍を撃退している。このように長朝・房朝父子は宇都宮宗家の軍事力の一翼を担い、よく南方からの敵勢力の侵攻を阻止した。また、房朝は闇礫軒と号して、戦国武将の一人として近隣の諸将とも交流を厚くし、天正十七年に八十七歳で死去した。
房朝の死後は秀朝が継いだが、石橋本多劫系図では綱賀とあんっているが誤記であろう。秀朝は病弱だったようで、子がなかったため弟の綱継が家督を継承した。綱継は石見守孫次郎と称し、天正十二年(1584)北条氏直が佐野表、鯉名の沼尻まで押し寄せたとき、宇都宮軍の先陣としていち早く出陣した。このとき、家臣の石崎周防守は常に先頭に立って騎馬を進め一番槍、一番首の功名を立てている。
翌天正十三年、北条氏直はふたたび大軍を率いて下野へ侵入、壬生・皆川を攻め落とし、壬生氏、皆川氏を先鋒として宇都宮城に迫った。これに対し、宇都宮氏は多記城へ横田出羽守を派遣し、南方の前線となる多劫城は多劫綱継が守った。北条勢は多劫城の多劫一族の強力な配備に軍を進めることができず、多劫城を避けて間道から宇都宮に迫り、城下に火を付けて逃げ去るにとどまった。
戦国時代の終焉
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原陣に際しては、宇都宮国綱の陣代として芳賀高武とともに綱継が小田原に出張り、秀吉に馬一頭・太刀一振りを献上している。小田原落城後、宇都宮宗家は本領十八万七千余石を安堵されたが、その陰の功労者は芳賀高武、多劫綱継らであった。
その後、文禄元年(1592)の朝鮮征伐に際しては、宇都宮勢の副将として出陣した。このように多劫氏は宇都宮氏の有力な一族として宇都宮氏に属し、その軍事力の一翼を担ってきた。ところが、慶長二年十月、宗家宇都宮氏が秀吉によって領地没収となり没落し、多劫氏もそれに殉じ一族四散して没落した。このときの当主は綱継の子綱朝であったyとうで、綱朝は綱賀とも秀朝ともいわれている。ここらへんの多劫氏の歴代は、系図によって相違をみせており明確ではないのである。
いずれにしろ、多劫氏は宗家宇都宮氏とともに没落した。多劫氏は宇都宮氏の有力一族、有力部将として鎌倉時代から戦国時代末期まで代を重ねてきた。その所領は『宇都宮国綱家臣帳』によれば高一万石とあり、ほかにも多劫一万石と記されている。しかし、その所領は多劫氏が独自の立場から築いたものではなく、宇都宮宗家の所領を分家として分与されたものであり、宇都宮氏が没落すれば、多劫氏の所領も没収さえるもので、多劫氏の没落は宇都宮宗家と同じ運命をたどっただけで、多劫氏自身に落度はなかった。その後の多劫氏としては、綱賀の弟綱秀は松平美作守定房に仕え伊予今治に移住、子孫は代々多劫孫左衛門を称して、今治藩士として続いた。
また、多劫氏嫡流が没落して多劫城が廃城になったとき、一族の多くはその後も多劫城本丸周辺に居住し、家老職を努めた家の子孫は現在も旧城内に住している。また、城跡近くの見性寺には多劫氏代々の墓が残っている。
【参考資料:上三川町史/下野国誌/栃木県歴史人物事典 ほか】
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