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大和秋山氏
●楓 葉
●宇陀神戸社の神主家
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中世の大和国宇陀郡に、「宇陀三将」といわれた秋山氏、芳野氏、沢氏らの国人領主がいた。三氏は『勢衆四家記』では、「和州宇陀三人衆」として伊勢国司北畠氏の与力、のちには被官になったと記されている。
秋山氏は国造が貢進したという伊勢神宮領大和国宇陀神戸の神戸社の神主家で、同神宮の被官であったと考えられる。神戸社が春日社の末社になると、秋山氏は春日神人の国民として興福寺被官になったものとみなされる。一説に、甲斐源氏の一族秋山光朝を祖にするというが、詳らかにはできない。秋山氏は、宇陀秋山城に拠って勢力を拡大していった土着の豪族の後裔であろう。
秋山氏の登場
南北朝時代、宇陀三将のうち秋山・沢両氏が南朝方であったことは『太平記』の「神南合戦」の条に「和田・楠・真木・佐和(沢)・秋山」とみえ、楠木氏らとともにその存在が知られる。そして、南北朝期に南朝方として活動したときに北畠氏との関わりができたようだ。
秋山氏ら宇陀三将の拠る宇陀郡は、伊勢・伊賀と国境を接し、宇陀郡に近い伊勢国一志郡多芸に本拠を構える伊勢国司北畠氏にとって、京都への交通路となり、宇陀郡を確保することは重要であった。とはいえ、宇陀郡には奈良興福寺や春日社の荘園が多くあり、大和守護ともいうべき興福寺の支配に属すべき地であった。
室町時代になった応永十二年(1405)八月、幕府は宇陀郡を興福寺大乗院に管領させた。大乗院は南北朝時代北朝・幕府方であったため、南朝方であった秋山・沢両氏は宇陀郡内の興福寺領荘園を押領して対抗した。ついで応永二十二年三月、伊勢国司北畠満雅が皇統継承が南北両朝合一時の約束に違うとして後南朝方に応じて挙兵すると、秋山・沢両氏はこれに参加した。
北畠氏の後南朝方としての反抗が鎮圧されたかに見えた永享元年(1429)、「大和永享の乱」が勃発した。沢氏は秋山氏とともに越智氏と結び、幕府方の筒井氏に対抗した。戦乱は長期化していったが、永享七年(1435)、多武峯の戦いで越智党は敗れて没落し、乱は終わりを告げた。
北畠氏に属す
やがて、「応仁の乱(1467)」をきっかけとして戦国時代になると、沢・秋山の両氏は北畠氏の麾下にあったことが『大乗院寺社雑事記』の記事からうかがわれる。文明十六年(1484)七月、秋山・沢両氏の間に諸木野をめぐって合戦が起こった。
この合戦に筒井・越智氏らの争いがからみ、北和の有力国人古市澄胤は秋山氏に協力して澄胤自から出陣してきた。伊勢国司北畠氏も出陣し、長享元年(1487)に和議が成立するまで諸勢力入り乱れて戦いが続いた。「東山内動乱」とよばれ、和議成立の直前に秋山氏が自害を命じられ、翌二年二月には沢源左衛門が北畠氏の前で切腹させられている。これは、秋山・沢両氏の合戦における国司出陣の決着とみなされるが、幕府管領細川政元の意向をうけたものであったともいう。
他方、文明十九年(1487)、越智氏が長谷越の道路を壷坂越に替えて新関を設けたのに対し、長谷寺は反対し、北畠氏も秋山・沢両氏の賛同を得て同関を破壊するという事件が起こった。こうしたなかで、秋山実家が亡くなっている。そして、古市澄胤の女婿秋山某が、実家の秋山氏惣領になった。このことは、越智氏の新関に対して北畠氏が反対する原因にもなったようである。つまり、越智氏は秋山氏とは血縁関係があり、古市澄胤の女婿某の家督継承に反対していた。これに対し北畠氏は秋山氏との関係を重視して、秋山某を支持したものと考えられるのである。
ところで、応仁・文明の乱を機に、北畠氏はめざましい軍事行動を展開した。北伊勢、伊勢神宮領への侵出をはかり、大和出兵、近江の六角氏攻めなど、大規模な出兵が続いた。それは、大名権力の強化をうながしたが、家臣団の反発をよびおこさずにはいなかった。
国人領主に成長
明応四年(1495)、家臣の不満が一気に噴き出した。『大乗院寺社雑事記』によれば、家臣十一人が一揆盟約し、起請文をもって北畠氏に申状をつきつけたとある。明応六年(1497)、具方に抵抗する家臣らは、具方の弟師茂をかつぎだし、これに北畠氏の有力一門木造氏が加担して、騒動は北畠氏の覇権争いにまで拡大した。そのようなかで、具方に味方する秋山某が自害した。この某は古市澄胤女婿の某と思われ、その跡を継いで国堅が秋山氏惣領となった。
北畠氏の内訌は紆余曲折の末に具方の勝利に帰し、弟の師茂は生害させられ、抵抗した家臣らはことごとく死罪となった。こうして、家臣、一族との対立、抗争を克服した北畠氏は戦国大名に転身していくのである。
沢氏や秋山氏らは北畠氏に属しながらも、それぞれ一揆を結んで、それぞれの所領支配を行っていた。天文元年(1532)、沢氏は秋山氏、芳野氏、小川氏と宇太水分神社の神前で一揆盟約を結んでいる。しかし、やがて沢氏と秋山氏の両派に分かれてくるようになり、天文年間(1532〜54)、秋山氏と芳野氏の対立が起こり、さらに、天文二十四年になると秋山・沢両氏の対立が激化した。
十六世紀になると、沢氏、秋山氏らは荘園を押領し、宇陀郡における領主層の最上位に位置するようになっていた。そして、かれらは、一揆の郡掟の下に国人領主としてそれぞれ個別の領中法度をもっていた。かれらは、戦国大名北畠氏に属しながら、自らも戦国小名ともよべる自立した勢力だったのである。
秋山氏や沢氏は一定の自立を保ちながら、北畠氏の軍事力の中核を担い各地を転戦した。とはいえ、秋山氏は沢氏に比べて独自性が強かったようで、天文五年(1536)ごろには、北畠氏と対立する木造氏と結んで、宇陀郡内における勢力拡大を図っている。
・秋山氏復元系図
時代の転変
その後、『勢州軍記』に「秋山謀叛事」がみえ「秋山入道宗丹之子藤次郎入道遠州(教家)が三好の婿として威を振るい、伊勢国司北畠具教の命にも背くので、永禄のはじめ頃(1558〜)神楽岡城を攻めた」と記されている。和睦が成立したが、宗丹は北畠氏への質となり大内山城で死去したという。ついで子息の藤次郎遠州も没し、弟の次郎が遠州の跡を継ぎ、右近将監として織田信長の家臣滝川一益の婿になった。
永禄二年(1559)松永久秀が大和に侵入し、翌年には宇陀郡へ支配を及ぼすようになった。松永軍によって沢・檜牧の両城は占拠され、沢城へは久秀の部将高山飛騨守図書が入った。永禄十年、沢城は房満が取り返し、沢氏は北畠氏との関係を強化して東方に進出するようになった。
一方、秋山氏は西方の大和国中に眼を向け、筒井氏と結んで十市郷内の興福寺寺門領をめぐって十市氏と争い、十市遠勝が永禄十一年(1568)に秋山氏を森屋城に攻めるということもあった。ついで遠勝が三好三人衆と結ぶと、秋山氏は松永久秀方に走り十市氏と対抗した。
その後、秋山氏は筒井氏の配下に入ったようで、天正十年(1582)の「山崎の合戦」に筒井順慶が八幡洞ケ峠に出陣したとき、秋山氏は筒井城に在番していたこと知られる。ついで、天正十二年蒲生氏郷が豊臣秀吉から南伊勢を与えられ松ケ嶋城に入ると、宇陀三人衆はその与力衆となって、氏郷のもとで織田信雄方の木造具康の木戸の城攻めに参加している。
翌年、筒井氏の伊賀移封があり、宇陀郡は秀吉の蔵入地として代官伊藤織部が秋山城に入部してきたことで、大和の領主支配も根本的に変わっていった。天正十八年、蒲生氏郷は奥州会津に転封となったが、宇陀三人衆はそれに従わなかったようだ。
秋山氏の終焉
その後の秋山氏について、『関ヶ原始末記』によると、慶長五年(1600)徳川家康が上杉景勝討伐の軍を進めたとき、秋山右近が家康の配下として従軍している。その功績が認められたのか、「慶長郷帳」に旗本秋山右近の名が見える。
その後については、慶長十九年の「大坂冬の陣」に際して秋山右近は、箸尾氏らとともに大坂城に入り大野主馬の配下に入って活躍したという。右近は直国と称したというが、大坂の役において戦死したようで、この右近の死を持って秋山氏は滅亡したものとみなされる。・2004年04月10日
【参考資料:奈良県史11ー大和武士/日本の歴史10-戦国の群像 など】
■室町時代の大和国
■参考略系図
・秋山氏の詳細系図をご存じの方ご教示ください。
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