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椿井氏
●裏菊/栄螺
●藤原姓  
・徳川旗本として残った椿井氏の紋「裏菊」に準じた。子孫の方からのメールにも、「裏菊」を用いているといただいた。  


【注意】本コンテンツ作成に用いた自治体史などには、最近、偽文書として知られるようになった『椿井文書』をあらわした 椿井政隆の手になるものも含まれている。本来ならば削除すべきであろうが、こういう歴史もあるとして 掲載を継続することにした。


 大和国の中世の貴重な記録である『大乗院寺社雑事記8興福寺大乗院門跡尋尊・政覚・経尋の日記の総称)』には、山城国人の椿井氏が度々登場する。椿井氏には山城椿井氏と大和椿井氏の二系統があったようだ。そして、椿井氏は平群谷に本拠をもっていたが、のちに山城に移っていったようである。
 『姓氏家系大事典』には、まず山城椿井氏があげられ「寛永系図に『鎌足の後裔某・武官に任じ、山城國相楽郡椿井の庄を賜ふ』と云ひ、寛政の呈譜には『頼経将軍の三男中納言氏房、大和國平群郡椿井に住し、椿井氏を稱す。其の四代左少将政賢、尊氏に仕へ、其の孫右京太夫政信・義政に仕ふ。後相楽郡薗部庄を賜ひ、其の地を椿井庄と改む』と云ふ。鶴見系図、盛俊の譜に『山城國和束杣郷に退き、椿井播磨守澄政の客となる』と」あり、ついで、大和椿井氏が「平群郡椿井より起る。文明年間、椿井越前入道道懐あり、筒井と争ひ、嶋左内に滅されしが如し。越系図引用官務録に『文明十八年十二月、筒井と椿井と争論云々、椿井方には、巨勢兵庫云々等戦死』と。麾下の将には木澤因幡守、立野伯耆守、郡山越中守、巨勢兵庫、大住民部、荒木遠江守等あり」と記されている。
 一方、『大和志料』の椿井城の項には、文明十八年丙午十二月筒井ト椿井ト争論、同二十六日島左門ト相戦フナリ。同二十八日椿井越前入道懐専討死アル、年九十二歳ナリ。同二十九日木澤因幡守、立野伯耆守、郡山越中守等ノ椿井ノ麾下ト島左門ト相戦ヒ、是ヲ討捕ル。椿井方ニハ巨勢兵庫、大住民部、荒木遠江守ノ一味衆三人戦死アルナリ」とみえている。
 文明十八年(1486)の暮れ、筒井氏と椿井氏が争い、椿井懐専が島左門と戦い十二月二十八日に戦死した。その翌日に椿井氏麾下の木澤因幡守らが島左門を討ち取ったか捕らえたということである。戦死した椿井越前入道懐専は山城椿井氏と思われ、室町時代中ごろには椿井氏は山城椿井郷へ移っていたものと推定される。

椿井氏の出自─考証

 さて、椿井氏は平群谷南東部にある椿井から発祥したようだが、平群谷における椿井氏の確実な記録は存在しないし、『平群町史』にも椿井氏の項は見られない。とはいえ、平群町椿井の春日神社には椿井氏の子孫の方が奉納された「平群氏春日神社沿革記」なる扁額が掛けられている。
 それによれば、椿井氏は鎌倉時代のはじめに発祥したことがうかがわれる。すなわち「時の将軍藤原頼経の三男中納言氏房が平群谷に移り住み椿井氏を称した」そして、「弘安五年(1282)には大納言に昇り、伊賀・大和・河内・阿波四ヶ国の太守に任ぜられ椿井城を築く。その後、政里の代に奈良探題職に任ぜられて奈良吉野町に移り、さらに政信の代には山城一円を賜って園部(薗部)に移り、郷名を椿井と改めて居城を構えた」と記されている。
 また、『椿井氏系図』が知られるが、同系図によると筒井氏と戦って討死した懐専は「越前守政里」で「補任奈良探題職吉野町住館改椿井 文明十七年十二月廿八日討死 九十二歳 勝壽院殿淨玄懐専大徳」と記載されており、『大和志料』の記事とは没年に一年の差がある。そして、同系図の記述は『姓氏家系大事典』の記述にほぼ合致しているようである。
 ちなみに椿井懐専の死を同時代の記録に探れば、『大乗院寺社雑事記』文明十七年十二月廿九日条に「伝聞、椿井加賀公懐専、於衛門佐方被切腹云々、今日事也、円城坊之舎兄也、今度山城之事故歟、今日円城坊俄ニ河内ヘ下向云々」とみえ、『政覚大僧正記』文明十七年十二月廿九日条には「於河州、椿井加賀懐専被生涯云々、昨日由申、子細何事ソヤ」とあり、椿井懐専は河内で討死したことが知られる。
●平群氏春日神社沿革記

乱世と椿井氏

 戦国時代にいたった十五世紀後半の文明年間(1469~86)以降、椿井氏は南山城椿井郷を本拠とし、興福寺大乗院方の衆徒のひとりとして乱世に対処していた。『椿井氏系図』によると、懐専政里の祖父越前守房政は「平群郡半円と添上郡七ヶ荘」を領し、元弘元年(1331)の笠置山合戦に出陣したと記され、当時の椿井氏は平群谷を本拠としていたことが知られる。そして、椿井氏が平群谷を去ったのは、永享九年(1437)年前後のことであろうと思われる。
 おそらく、筒井氏に仕える「志まの入道」の台頭によって、平群谷では椿井氏と島氏の勢力が逆転した。いわゆる下剋上の時代にあって、椿井氏は在地領主から成長してきた島氏の圧迫を受けるようになった。そこへ、興福寺一乗院と大乗院の確執が重なり、ついに椿井氏は平群谷から追い出されたのであろう。「志まの入道」は、筒井氏の重臣としてあらわれ、のちに石田三成に仕えて「関ヶ原の合戦」で奮戦、討死した島左近の祖にあたる人物である。
 山城に本拠を移した椿井氏は、同じく山城の国人領主である狛氏と対立するようになる。そして、応仁の乱(1467~87)では東軍に属した狛山城守に対して東軍に属したようだ。その後の畠山政長・義就の対抗の中で、椿井氏は義就に味方して政長に加担する狛氏と抗争した。文明十五年(1483)狛山城守は義就派の夜襲を受けて没落し、椿井氏の勢力は狛一帯に及ぶようになった。
 その後、南山城国人衆が中心となった国人一揆の時代、戦国の混乱期を経て織田信長の出現、豊臣秀吉・徳川家康へと続く歴史のなかで椿井氏は翻弄されるのである。

・竹薮の中で静かに風化しつつある椿井氏の墓所、仔細に見ていくと天正三年銘のものもあった。


『寛政重修諸家譜』にみえる椿井氏

 江戸幕府が編纂した系図集に『寛政重修諸家譜(以下、寛政譜)』があるが、そのなかに椿井氏が収録されている。寛政譜にみえる椿井氏は加賀守政勝を祖とし、鎌足の後裔某が城州相楽の郡椿井を賜り、椿井を称したとある。政勝は加賀守を称し、法名懐祐とある。椿井氏としては加賀入道が知られ、また懐専などの名も知られる。これらのことから、寛政譜の椿井氏は山城の国人椿井氏と連なる家と思われる。
 政勝の次の政吉は椿井を領して、狛の下司狛氏と争い、狛庄に討ち入り討死したと記されている。椿井氏と並んで山城の有力国人であった狛氏と抗争を続けていたことがうかがわれる。政吉の子の政長のとき、叔父政定とともに織田信長に属し、所々の戦場に出陣し信長から書を賜っている。
 信長死後、豊臣秀吉が勢力を拡大し、天正十二年(1584)、織田信雄と徳川家康の連合軍と豊臣秀吉とあ尾張の小牧・長久手で合戦となった。このとき、政長は山城にあり椿井城を守っていた。寛政譜によれば、政長は織田信雄に心を寄せていたが、椿井は秀吉勢力下にあり、如何ともしがたく、合戦が終わってのち椿井城を開き、代々の領地を去って隠居したという。
 政長の嫡子政次のとき秀忠に召されて徳川家旗本となり、のちに秀忠の二男秀長に付けられ、千二百石を知行した。ところが、秀忠の失脚によって禄を失い、義兄(妻の兄)内藤志摩守忠重の扶養を受け、世に出ることなく死去した。その後、正興が内藤志摩守の推挙を受けて旗本に返り咲き、累進を重ねて、二千二百に知行を得るまでになった。のちに、嫡流は内藤氏との縁から内藤を称している。・2004年07月20日

参考資料・山城町史/寛政重修諸家譜 など】


■参考略系図
・平群町椿井の春日神社に「椿井系図」あるというが実見していない。ここでは「寛政重修諸家譜」に収録された椿井氏の系図を掲載した。  


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