富樫氏
八 曜 (藤原氏利仁流) |
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冨樫氏は藤原鎌足の玄孫魚名六世の孫鎮守府将軍藤原利仁に始まるといわれる。利仁が鎮守府将軍に任じられた時、次男の叙用を土無加之(冨樫)の郷に遣わし、その名をとって冨樫氏と称したという。もっともこれには裏付けとなるものはなく、そう信じられてきたというにとどまる。おそらく冨樫氏の先祖は、加賀における在庁官人として、冨樫庄(石川県金沢市)を本拠とする豪族であったものと思われる。歴史上には平安末期に登場してくるが、同じく利仁を祖とし隣接する拝師郷を名字の地とする林氏に一歩先んじられる存在であった。
寿永二年(1183)に反平家連合を結ぶ加賀武士団の一員として冨樫太郎が登場するが、合戦の様子を叙述した『平家物語』の諸本によって、それぞれ太郎の実名が異なっている。このことは、のちに繁栄したのが冨樫次郎系であったため、太郎系が次郎系に取って代わられた結果であろうと考えられる。
加賀武士の名門林氏は「承久の乱」によって没落し、代わって冨樫氏が勢力を伸ばし加賀の有力武士として成長していった。鎌倉時代の末に至って、確実な史料に登場してくるのが泰家である。泰家は在京人としてみえ近江国大原庄を領し、子の家春も父同様に大原庄領有を許されている。家春は冨樫新介と称し在京人として活動、徳治三年(1308)、熊野を中心とした海賊が蜂起したときその追討に発向し活躍した。家春の子が泰明で伊勢国において地頭職を与えられたことが知られる。
泰家・家春・泰明の三代で注目されるのが、たとえば、白山神拝などの記事の中で「守護」と呼ばれていたことである。しかし、加賀守護は北条氏一門の時敦流であり、冨樫氏が守護であったとする史料はない。おそらく、冨樫氏は守護の意を受けて行動したものであり、そのことが冨樫氏の加賀における地位を守護並みに認識させたものといえよう。
歴史の表舞台へ
元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡した。鎌倉末期、冨樫高家は在京人として六波羅探題に属し、元弘の動乱期のはじめは他の在京人とともに反幕府勢力追討に活動していた。しかし、幕府滅亡のとき高家は六波羅探題と行動をともにすることなく、いちはやく足利尊氏の下に入りその統率に従った。尊氏に従ったことで、冨樫氏は歴史の表舞台に登場する契機をつかんだのである。
建武新政がなると、高家は討幕の働きを認められ、伊豆国多留郡の地頭職を安堵された。建武二年(1335)、「中先代の乱」が起こると、尊氏はただちに鎌倉に下って乱を征圧、そのまま鎌倉にとどまった。尊氏は後醍醐天皇の帰還命令を無視し、ついには後醍醐天皇に対して叛旗を翻した。このとき、高家は尊氏に味方して「加賀国守護職」と遠江国西郷庄を宛行われている。
翌年、新田義貞の追討軍を箱根に破った尊氏はその勢いをかって京に入ったが、北畠顕家軍に敗れて九州に逃れ、「多々良浜の戦」で菊池氏を破り太宰府に入った。その間、高家は尊氏に従って活躍したことが『冨樫系図』に記されている。
その後、勢力を回復した尊氏はふたたび京を目指し、楠木正成を摂津湊川に破り、新田義貞を追い落とし、ふたたび京都を征圧した。争乱のなかで後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝をひらき、尊氏は後醍醐天皇に対抗して光明天皇を擁立して北朝を立て幕府を開いた。ここに南北両朝が並び立ち、以後六十年間にわたる南北朝の争乱時代が展開されるとになる。
加賀守護、冨樫氏
『太平記』に「加賀国ノ守護ハ冨樫介、建武ノ始ヨリ今ニ至ルマデ一度モ変ズル事無シ」とあるように、高家が没したあとの加賀国守護職は子の氏春が継承した。氏春は尊氏と直義の兄弟が対立した「観応の擾乱」では、一貫して尊氏派であった。文和四年(1355)、直義党の桃井直常・斯波高経らが入京すると、尊氏は近江に退いたがその後京を奪回した。氏春は国内の地頭御家人を指揮して桃井直常の軍勢と戦い、尊氏から忠節を賞する旨を触れるよう命じられている。
氏春の没後、子の竹童が幼少であったため、佐々木道誉の画策で斯波氏頼が加賀守護にすえられようとしたが、細川清氏の支援を得て竹童が守護職に補され、竹童はのちに昌家を名乗った。
足利幕府の守護は在京が原則で、昌家も京都にあって将軍足利義満に近侍していた。そのため、領国支配は守護代英田次郎四郎に任せていた。やがて、細川頼之と足利(斯波)義将の争いに巻き込まれ、昌家は頼之派と目されていたようで、頼之が追放されたとき、昌家も追討されるという噂があった。しかし、昌家は義満に仕えて守護の地位を保った。
嘉慶元年(1387)、昌家が死去すると、加賀守護職は冨樫氏ではなく管領斯波義将の弟義種に与えられてしまった。ここに、冨樫氏の加賀守護職継承は中絶した。かくして、冨樫氏嫡流が失脚するなか、庶流の出である冨樫満成が将軍足利義持に近侍し、その寵を得ていた。
応永二十一年(1414)斯波義種が失脚したことで、冨樫満成が二十数年ぶりに守護に復帰した。しかし、満成に安堵されたのは北半国の守護であり、南半国の守護には嫡流の満春が任ぜられた。その後、満成が失脚したことで、冨樫満春が加賀一国守護に復活し、満春の没後は嫡子持春が加賀守護職を継承した。
冨樫氏の内訌
持春は若死したため弟の教家が家督を継いだが、嘉吉元年(1441)、教家は将軍義教の怒りにふれ、守護の座を逐われる事態となった。家督は教家の幼弟慶千代が細川持之を烏帽子親として元服し、泰高を名乗って継いだ。ところが、その直後「嘉吉の変」が起り将軍義教が赤松満祐に殺害された。幕府は人心の安定を図るため、義教に追放された人々の復帰という方策をとった。これをうけて教家は、畠山持国の加勢を得て守護職の返還を求めたが、それは入れられなかった。
嘉吉二年、持之が管領職を辞すると教家を庇護する畠山持国が管領となり、教家方が勢力を盛り返した。しかし、文安二年(1445)泰高を支援する細川勝元が管領になると、教家は越中へ追放された。とはいえ、泰高方の勝利というわけではなく、その後も教春方は入国を企てる動きを示した。
このように冨樫氏は幕府内の政治動向に左右され、家督をめぐって同族同士が相争った。両者の和睦が成ったのは文安四年(1447)のことであった。しかし、その内容は北加賀守護職を教家の子成春に、南加賀の守護職に泰高をという、南北の分割というものだった。こうして、加賀国は小康状態を迎えたが、長禄二年(1458)成春は北加賀守護職を解任され、半国守護職は赤松政則に与えられた。
寛正五年(1464)、成春の子政親が泰高の譲りを受けて南加賀の守護となった。泰高には実子があったが病弱であったことと、冨樫氏の一本化策が背景にあったものと推定される。
戦乱の勃発
応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発した。冨樫政親は北加賀の赤松政則ともに東軍に属したが、赤松氏の加賀支配に不満を持つ冨樫氏の勢力は政親の弟幸千代を擁して西軍に属し、越前の朝倉、能登・越中の畠山氏といった西軍勢力と手を結んで活動を始めた。その結果、加賀一国は幸千代派に掌握され、上洛していた政親は帰路を閉ざされてしまった。
その後、東軍の西軍切り崩し策によって越前の朝倉氏が東軍に転じ、朝倉氏の支援を得た政親は加賀に入ることができ、さらに本願寺門徒の援助も得て幸千代を破り、加賀半国の守護職を掌握することができた。このとき、政親を応援して本願寺門徒が出陣したことが一向一揆のはじめとされる。
政親は本願寺門徒との同盟によって頽勢を挽回したとはいえ、同盟は双方の利害が一致したために結ばれたものでありたちまち破綻をきたした。政親は本願寺門徒の弾圧に転じ、力で一揆を押さえ込んだが、一揆衆は勢いを増し、守護冨樫氏の権威は低下していった。政親は事態を好転させようとして上洛し、幕府に出仕した。幕府を後楯として、一国支配を強化しようとしたのである。
政親は守護代の本折・槻橋氏、加賀の国人で奉公衆の倉光・狩野・相河氏らとともに将軍義尚に近侍し、長享元年(1487)、近江の佐々木六角氏討伐に加わった。政親は加賀の有力武士が上洛していたことで楽観したものか、国元に対して兵糧米や人夫などを課した。百姓らは減免を望んだが、厳しい調達が行われたようで、一揆衆は冨樫氏への不満をつのらせ抵抗姿勢をあらわにしていった。
国元の事態を憂慮した政親は、一揆衆に対処するため義尚の許しを得て近江から急ぎ帰国した。ここに至って、冨樫政親と北陸の加賀門徒とは真っ向から武力衝突したのである。長享二年五月、一揆衆は政親の居城高尾城を包囲したが、その勢は二十万ともいわれるすさまじい人数であった。
冨樫氏の没落、そして滅亡
政親の危機を知った義尚は、ただちに越前守護朝倉貞景に政親の支援を命じたが、一揆勢は越前との国境を封鎖し朝倉軍の加賀入国を阻止した。そして六月、一揆軍の総攻撃によって、高尾城は陥落し政親は自害して果てた。
政親が戦死したあとの守護には、冨樫泰高が一揆によって擁立された。泰高は幕府に出仕し、守護としての活動を開始した。その一方で、一向一揆との協調をはかり、本拠地である冨樫本庄にある本願寺派の道場を保護し、一揆との関係を良好なものとするために心をくだいた。しかし、守護としての立場は次第に名目的なものとなっていった。
その後も冨樫氏は名目だけとはいいながらも加賀守護として続いたが、享禄四年(1531)に起った「大小一揆(享禄の錯乱)」において、守護と協調路線をとっていた三カ寺方に味方して敗れ、稙泰は牢人し長子泰俊もこれに従った。ここに、冨樫氏の守護としての地位は名実ともに失われた。その後、加賀では稙泰の二男晴貞が冨樫氏を代表し、守護家の立場で振る舞ったことが知られる。
戦国末期、天下統一をめざす織田信長の最大の障壁となったのが本願寺勢力であり、本願寺を枢軸に反信長連合が結成された。元亀元年(1570)信長は浅井・朝倉連合軍と対峙していた。この機をとらえた晴泰は一揆との協調路線を捨てて、信長に呼応すべく兵を挙げた。しかし、たちまち晴泰軍は一揆に包囲され晴泰は自害して果てた。また享禄の錯乱で越前に亡命していた泰俊も、天正二年(1574)の加賀一向一揆の越前侵入によって父子三人ともども討死した。ここに、平安後期以来、加賀国で連綿と続いてきた冨樫氏は名実ともに滅亡した。
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