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筑紫氏
●寄り掛目結
●藤原氏秀郷流少弐氏族


 筑紫氏は大宰少弐氏の一族というのが定説で、『続群諸類従』の武藤少弐系図によれば、経資の子但馬権守資法が祖となっている。とはいえ、諸本ある筑紫氏の系図をみると、それぞれ異同がはなはだしく、いずれを採るべきかの判断は難しい。
 筑紫系図の一本に、足利尊氏の庶子直冬を祖とするものがある。足利直冬は尊氏に疎まれて叔父直義の養子となり、南北朝時代のはじめ、九州を三分する勢力となった。この直冬を支援したのが少弐頼尚で、頼尚は直冬を婿とし直冬が失脚したのちは、生まれた子供を庇護して育てた。成人した子は教門と名乗り、筑紫氏の祖になったというのである。そのままに受け取ることはできないが、当時の状況からみて、まったくの伝説と否定しきれないものがある。
 筑紫の名字がはじめてあらわれるのは、応永七年(1400)、少弐貞頼が筑紫次郎に宛てた充行状である。ついで、嘉吉元年(1441)、少弐教頼が筑紫下野入道に宛てた安堵状がある。それには「筑前国御笠郡筑紫村地頭職云々」との記述がみえ、筑紫の名字が筑紫村にちなむものであったことが分かる。
 筑紫氏は少弐氏から所領充行や安堵を受けているが、家系的に筑紫氏が少弐氏と直接つながる史料は見い出せない。ただ、筑紫氏の家紋は、少弐氏と同じ「目結」紋であり、当時における名字と家紋の関係からみれば、少弐氏に近い存在であったことだけは疑いない。

少弐氏の流転

 少弐氏の本家(主家としたほうが適切であろう)の少弐氏は、鎌倉時代より鎮西の有力大名であった。やがて室町時代になると、幕府を後楯とする大内氏の勢力が北九州に伸びてくるようになり、応永十一年(1404)少弐貞頼は大内盛見と戦って討死にした。  貞頼のあとを継いだ満貞は、守護代宗氏の支援を得て、朝鮮貿易行い次第に富を蓄えていった。そして、応永三十年(1423)、筑紫教門に命じて九州探題渋川義俊を攻め、敗れた義俊は大内持世に援けを求めた、おりから朝鮮貿易で少弐氏が富裕になることを警戒していた持世は、ただちに大内盛見を大将として九州に兵を入れた。永享三年(1431)、少弐満貞は筑前萩原において大内盛見と戦ってこれを敗死させた。
 怒りに燃えた持世はみずから兵を率いて九州に入ると、満貞と資嗣の父子を討ち取り、北九州を支配下においた。満貞らが戦死したのち、嘉頼・教頼らは対馬の宗氏を頼って筑前から逃れ去った。その後、文安三年(1446)に至って、教頼は筑前守護に補任され太宰府に復帰できた。しかし、宝徳元年(1449)大内教弘の攻撃を受け、太宰府を逃れた教頼は龍造寺氏のもとに走った。
 応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると大内氏は西軍として活躍し、教頼は東軍に味方して失地回復を狙った。そして、宗盛直とともに対馬から兵を率いて筑前に入ったが、大内・大友連合軍に敗れ、翌年志摩郡において戦死した。
 その後、大内氏の主力は京都を中心に活動するようになり、文明元年(1469)、少弐方の勢力が動き出した。そのなかに、筑紫能登守の名があり、能登守は三笠郡に出動したという。そして、東軍の政治工作もあって、教頼の子政資が筑前回復に成功したのである。

筑紫氏の台頭

 やがて、応仁の乱が終結すると大内政弘は領国に帰還し、少弐氏に奪われた九州回復に乗り出した。文明十年八月、政弘は豊前に渡り、九月には豊前・筑前を平定した。さらに肥前東部にまで勢力を延ばし、少弐政資は各地を転々とし、ついには龍造寺氏の支援を受けるようになった。
 肥前において勢力を回復した政資は、綾部城の九州探題渋川万寿丸を攻めてこれを追放した。その後、万寿丸が家臣に殺されると、筑紫満門、馬場経周らに命じて渋川刀禰王丸を攻撃、筑後に追放した。このころ、少弐氏は宗氏と疎遠になっていて、その勢力の中核にあったのは筑紫満門、馬場経周らであった。
 明応元年(1492)、大内氏は重臣陶興房を筑前に入れ、少弐政資・高経父子と戦った。そして、明応六年になると、大内氏による本格的な少弐攻めが行われた。政資・高経父子は太宰府を失い、さらに岩門城、小城城、勢福寺城を落され、ついに多久において討ち取られてしまった。『北肥戦誌』には、このとき筑紫満門は東尚頼とともに大内氏に降伏したとある。また、『歴代鎮西志』には、筑紫満門と東尚頼が、大内軍とともに小城城を攻撃したと書かれている。
 その後の大内氏による戦後処理によって、肥前の守護代には千葉介興常が、東尚頼には肥前佐賀郡の内を宛て行われ、筑紫満門は三根・神埼両郡の郡代に任じられたという。筑紫氏はこれをきっかけとして、勢力を拡大するようになる。しかし、大内氏を背景として力を持つようになった満門に対する、少弐一党の姿勢は冷たかった。
 『歴代鎮西志』には、満門を憎む少弐資元が満元を謀殺したとする話が出ている。資元の重臣馬場頼周は満元の女婿でもあり、大内氏を後ろ楯とする満門を諌め翻意をうながした。しかし、満門はこれを入れず、逆に頼周に対して、これからの時代は大内氏が中心になるだろうと諭した。満門にしても頼周にしても、少弐氏の将来を考えていることでは同じであった。ついに大永四年(1524)、頼周は資元と謀って満門をだまし討ちにして殺害した。

乱世を生き抜く

 満門謀殺の真偽のほどは知れないが、それから二年後の大永六年には秀門(尚門とするものもある)が筑紫氏の当主となっていることから、満門は大永四年ごろに死んだようだ。満門は大宰府宝満山頂に上宮を建立し、ついで神埼郡櫛田宮を補修、神体を新造して三十五年ぶりの遷宮式を行うなど、敬神家として家中の信望は厚かった。満門は、筑紫氏発展の基礎を作った人物であったといえよう。
 満門が謀殺されたことで、筑紫氏は少弐氏と袂を分かった。このことは、のちの龍造寺一門の謀殺とならんで、少弐氏衰退の一因となった出来事である。
 享禄三年(1530)、大内義隆は少弐資元・冬尚父子の討伐を筑前守護代の杉興運に命じた。杉興運の進軍を見た筑紫尚門、横岳資貞、千葉胤勝らは杉軍に馳せ加わり、たちまち、東肥前の三郡は大内軍に制圧された。少弐氏は龍造寺氏をはじめ、小田・犬塚・馬場・江上・本告氏らを動員し、両軍は神埼郡の田手畷で激突した。結果は、鍋島清久の奇計に浮き足立った大内方の敗北となり、乱戦のなかで尚門は戦死をとげた。天文二年(1533)、大内義隆は陶尾張守を大将として北九州に兵を進めた。これに筑紫氏、龍造寺氏一族の胤久、そして、千葉喜胤らが加わったが、戦いはふたたび少弐方の勝利となった。
 不死鳥のように再起を繰り返す少弐氏であったが、衰退の色は深まる一方であった。他方、天文十九年、大友義鑑が死去し、翌二十年には大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害された。義鑑のあとは義鎮が継ぎ、義鎮の弟義長が大内氏の跡継ぎに迎えられた。
 やがて、毛利元就が陶晴賢と大内義長を討ち、北九州へ進出してきた。弘治三年(1557)、筑紫惟門は秋月文種とともに大友氏から離れて毛利方につき、大友軍と戦って敗戦、壊滅状態となった。惟門は五ヶ山城を逃れて、文種の遺児らとともに海を渡って毛利元就のもとに走った。元就は惟門らを手厚く庇護したが、一説に惟門父子は基養父のいずこかに潜んでいたとするものもある。
 やがて永禄二年(1559)、筑紫惟門は二千の兵をもって博多を襲撃し、大友氏の代官を殺害した。さらに、筑前侍島において大友軍を撃破している。しかし、大友氏の勢力は強大であり、惟門と種実は田尻親種を通じて降伏を申し入れ、大友氏もそれを許した。そして、高橋鑑種が筑前代官、太宰府宝満城督として着任してきた。

乱世を生き抜く

 筑前に入部した鑑種は、筑紫氏、秋月氏らと接近して親密の度を深めていった。一方、筑前・豊前を舞台に大友氏と毛利氏の戦いは繰り返され、永禄四年の戦いでは毛利軍が大勝した。その後の永禄七年、将軍足利義輝の扱いで毛利・大友氏の間に和睦が成立した。
 大友氏は少弐氏を支援することで北九州の支配を行おうとしていたが、永禄二年、少弐氏が龍造寺隆信に滅ぼされたことでその思惑が崩れた。しかも、隆信は毛利氏と結んで大友氏への対抗姿勢を明確にした。そのような永禄八年、大友一族で筑前立花城主の立花鑑載が毛利氏に通じて反旗を翻し、翌年には宝満城督の高橋鑑種がこれに加わった。筑紫惟門と秋月種実らは鑑種に味方して、それぞれの城に立て籠った。
 筑紫惟門は五ヶ山城に拠って大友氏の攻撃を防いだが、永禄十年七月、筑紫方は大友軍の和議を申し入れた。筑紫氏系図によれば、惟門は永禄十年に死去したとあり、その死因は「不慮の自害」となっている。惟門は広門らの助命を条件に詰め腹を切った、もしくは戦傷が重くなって自害したのかは不明だが、惟門の死をもって筑紫氏は大友氏に降った。
 その後も高橋鑑種、秋月種実らは毛利氏をたのんで抗戦を続けたが、永禄十二年の大友方の後方撹乱策によって、毛利氏は九州から撤退、ついに秋月種実が降り、高橋鑑種も降伏した。こうして、北九州の動乱は一段落し、時代は大友・龍造寺・島津の三氏鼎立へと動いていくのである。
 天正五年(1577)、島津氏に敗れた日向の伊東義祐が豊後に逃れ、大友宗麟に日向回復を願った。これをいれた宗麟は、翌年、大軍を率いて日向に出陣した。ところが、高城、耳川において大敗北を喫し、大友氏の威信は大きく失墜した。
 これをみた筑紫広門は、秋月種実と結んで大友氏に反旗を翻し、高橋紹運が守る岩屋城を攻撃したが落すことはできなかった。天正十二年、龍造寺隆信が島津氏と戦って討死すると、大友氏と島津氏とは真っ向から対立する情勢になった。天正十三年、高橋紹運が筑後に遠征すると、広門はその隙をついて宝満城を攻撃、攻略に成功した。ところが翌十四年、広門は紹運の次男統増に娘を嫁がせ、秋月氏と袂を分かって大友氏に転じた。
 島津氏の攻勢にさらされた大友宗麟は、上洛して豊臣秀吉に救援を求めた。秀吉は宗麟の申し出を好機として、九州征伐を決心したのである。秀吉の九州征伐のことを知った広門は、島津と秀吉を秤にかけて秀吉に与する道を選んだのであろう。

筑紫氏、近世へ

 天正十四年、島津氏は岩屋城に攻め寄せた。このとき、広門は岩屋城の前衛を務め、みずからは本城にあって、嫡男の晴門を出城にいれて、島津軍を挟撃しようとした。その策を見破った島津軍は、晴門の守る出城を攻略し、ついで広門の守る本城に迫った。晴門は戦死し、広門は五日間にわたって島津軍の攻撃を防いだが、ついに、島津軍に降伏した。ついで、島津氏は岩屋城の攻撃を開始した。広門と違って紹運は死を覚悟した籠城であり、十四日間の攻防の末に、紹運をはじめ岩屋勢はことごとく戦死した。
 広門は筑後三瀦の大善寺に幽閉されていたが、秀吉軍の九州上陸を知ると大善寺から脱出し、旧臣を集めると五ヶ山城を回復した。そして、高良山で秀吉に拝謁し、島津攻めの軍に加えられ、肥後・薩摩へと転戦した。戦後、それらの功によって、筑後上妻郡に一万八千石の領地を安堵され、豊臣大名として生き残ることができた。文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮攻めには、小早川隆景に属して出陣した。
 秀吉が死去したのちの慶長五年(1600)に関ヶ原の合戦が起こると、立花宗茂とともに西軍に味方して大津城攻めに功があった。しかし、戦いは徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、戦後の仕置で筑紫広門は改易の悲運となった。その後、広門は加藤清正のもとに流寓し、剃髪して夢菴と改めたという。ついで細川家の扶助を受け、元和九年(1623)、六十八歳で没したと伝えられている。
 広門の子主水正(広門、従門とするものもある)は、細川忠興の口添えで謝罪、大坂の陣に出陣した。その功によって、寛永四年(1627)、知行三千石を得て子孫は旗本家として続いた。・2005年3月7日
・旗本、筑紫氏の寄り掛目結紋。


■参考略系図
・筑紫氏の系図は「寛政重修諸家譜」をはじめ諸本あって、それぞれ異同が多い。ここでは、それらの中から四種類の筑紫氏の系図を選んで掲載した。■ 旧掲載系図


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