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知久氏
●御所車/桔梗/梶の葉
●清和源氏満快流/科野国造後裔  
・江戸時代の旗本知久氏は、桔梗紋を用いた。  


 知久氏は信濃国伊那郡の小豪族で、『寛政重修諸家譜』では清和源氏満快流を称している。それによれば、清和源氏の祖源経基の子満快の子孫為公が信濃守となり伊那馬を称し、子の為衡は中津を称し中津氏の祖となった。以後、為貞・頼継と続き頼継の子信貞が信濃国知久に拠って知久氏を称したのがそもそもの始まりとしている。しかし、知久氏の出自は諏訪社の大祝家と先祖を同じくする他田直に発するというのが正しいようだ。すなわち、金刺舎人直金弓の子他田目古の後裔とするものである。目古の孫老が従六位下伊那郡擬少領に補されたことが、伊那との関係の初めとされる。以後、子孫は伊那郡を中心に拡がっていくことになった。
 十一世紀の他田太郎重常は、源義家に従って「後三年の役(1083)」に出陣し勲功をあげたことが知られる。重常の孫好行は依田為実の猶子となり、子の他田右馬允信行は依田三郎とも称している。また信行は中津乗小太郎為貞の娘を娶って信忠が生まれ、信忠は中津頼継の猶子となった。のちの知久氏はこれによって、源氏を称するようになったものであろう。そして、信忠の孫が知久氏の祖となる信貞である。

知久氏の登場と発展

 清和源氏説、古代氏族他田氏説など知久氏の出自に関しては諸説がなされているが、そもそも知久の名字は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに際して、源氏勝利の瑞祥を顕したことで有名な諏訪大祝敦光(篤光)の子敦俊が知久十郎左衛門尉を称したことに始まる。初代の知久敦俊は上伊那郡箕輪庄(箕輪庄は見えないことから蕗原庄のどこかであろう)に居館を構え、先の信貞を養子に迎えた。
 承久の乱(1221)後、知久氏は上伊那の小河内から知久平に移って、伴野庄の地頭となったという。しかし、『守矢文書』などによれば、十四世紀のはじめ伴野庄の地頭として伊具氏、波多野氏らの名がみえることから、鎌倉時代、知久氏の勢力は伴野庄にまでは及ばず、知久郷以南であったと推測される。
 知久氏の家督を継承した信貞は知久右衛門尉を称し、武芸に長じ、なかでも射術に妙を得ていた。『吾妻鏡』にも鎌倉将軍宗尊親王の選に応じて射芸を度々行ったことがみえている。すなわち信貞は、正嘉二年(1257)、弘長元年(1261)、同四年の正月の「幕府的始」における晴れの射手に選ばれている。その後、文永寺の弘安六年(1283)の紀年銘をもつ石造五輪塔に神敦幸の名が刻されており、敦幸は知久氏系図にみえる信貞の子であろうとされている。
 南北朝期は南朝方に属し、知久敦貞は一族の小林右馬助頼行らとともに、信濃宮宗良親王の子尹良親王を助けて活躍した。尹良親王は南朝の勢力回復に努めたものの、結局、業なかばにして土民の蜂起に遭って自害を遂げた非運の人物である。
 尹良親王は自害に際して知久氏に使いを送り、車の紋の御旗錦の母衣を賜り、年来の知久氏の軍労を賞されたという。これによって知久氏は、それまでの「梶の葉紋」から「御所車」の紋に改めたと伝えている。他方、『寛永系図伝』によれば、室町将軍家の公達之義より母衣ならびに将軍家の御内書を賜り、旗紋が車輪であったことから家紋と為したと記されている。

戦乱と知久氏

 室町時代の知久氏の動向としては、応永七年(1400)の「大塔合戦」に際して敦貞の子頼昭は守護小笠原長秀に属して出陣し、国人連合軍に敗れた長秀とともに塩崎城に立て籠って戦死をまぬがれている。ついで永享十二年(1440)の「結城合戦」には、小笠原政康に属して出陣したことが「結城御陣番帳」から知られる。
 嘉吉二年(1442)に小笠原政康が死去したことで、守護小笠原氏は家督をめぐる「嘉吉の内訌」が勃発し、府中と松尾の両家に分裂した。さらに松尾小笠原氏は松尾と鈴岡の二家に分かれ、一族が分裂して戦いが繰り広げられた。明応二年(1493)、守護職および小笠原氏の惣領職にある鈴岡の左京大夫政秀と松尾の弾正少弼定基とが戦いになり、知久氏は先に政秀に侵略されていた伴野荘の地を回復するため定基に加担した。戦いは、定基の勝利に終わり、知久氏は伴野の地を回復している。その後、府中小笠原長棟と定基との間で合戦となり、敗れた定基は松尾から逐電し松尾には長棟の二男信定が入った。かくして、知久氏は府中小笠原氏の攻撃を受けることになり、以後、諏訪氏の支援を恃んで小笠原氏と対峙した。
 知久氏の居城は神之峰城として知られ、信貞が築いたといわれているが、信貞の時代は知久平に城があったと考えられる。神之峰城が文献上にあらわれるのは天文二年(1533)のことであり、山城国醍醐寺の厳助僧正が伊那郡文永寺に下ったときの紀行文『天文二年信州下向記』がそれである。厳助一行は半年にわたって文永寺に逗留した。その間、神之峰城を幾度か訪問し、城主知久氏から接待を受けたことが記され、厳助は輿に乗って「神峰」へ登ったとある。このことから、神之峰城は単なる砦というようなものではなく立派な山城であったとみられ、神之峰城が築かれたのは戦国時代初期の頼季・頼尚のころであろうと思われる。
 十五世紀から十六世紀にかけての知久氏の当主は頼為(易先)で、永正年中(1504〜20)に飯田城主坂西伊予守と領地を争ったことが戦記物語などに記されている。しかし、知久氏と坂西伊予守の合戦のことは、頼為の子頼元の時代であったとみられる。知久氏はこの頼元の代に勢力を拡大し、近隣の諸領主を切りしたがえていった。頼元の勢力拡大とともに、飯田城主坂西伊予守と対立するようになり、ついに天文十五年両者は領地をめぐって合戦となり、知久頼元は坂西氏を飯田城に追い詰めた。窮した坂西氏は松尾小笠原氏、吉岡下条氏に支援を頼み、両氏の仲介によって和睦が成立。坂西氏は知久氏に黒田村、南条村、座光寺の上野原、飯沼の四ケ所を割譲し、加えて頼元の女を嫡子の式部少輔の室としたのである。
 『御符礼之古書』によれば、これより以前の文明三年(1471)にも知久氏は坂西氏と縁組みをしており、重ねての縁を結ぶことになった。このころ上野の領主座光寺氏も知久氏に属するようになり、頼元の代に知久氏は勢力を大きく伸張させたのである。

武田氏の伊那侵攻に抵抗

 やがて、甲斐の戦国大名武田晴信(信玄)が信濃への侵攻を開始し、天文十一年(1542)、信濃四大将の一人と称される諏訪頼重が滅ぼされた。ついで武田軍は伊那地方に進撃、伊那郡の諸領主は次々と武田氏の軍門に降り知久頼元も武田氏に帰服した。
 かくして天文十六年、晴信は上伊那・下伊那の動向を監視するため秋山信友を高遠城に配した。秋山氏に対して、上伊那の知久氏、下伊那の座光寺・下条氏らは事を構える姿勢は示さなかったが、心から武田氏に服したものでもなかった。とはいえ、伊那の諸将は晴信の北信攻略に際して、戸石城の戦い、平瀬城の攻略戦などに参加している。
 そのような知久氏、座光寺氏らの伊那勢が武田氏に対して態度を硬化させたのは、天文二十二年(1553)であった。この年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の請いを入れた越後の長尾景虎が信州川中島に兵を進めたのである。そして、武田軍と長尾軍との間で、第一回目の川中島の戦いが行われた。
 このとき秋山信友も晴信に従って越軍と戦い、翌年の四月に高遠城へ帰陣した。その信友に対して知久・座光寺氏らは神之峰城周辺に兵を集め、武田氏に叛旗を翻したのである。信友は知久氏らに対して兵を収めるように申し送ったが、使者は斬られ叛乱は明白となった。信友からの急報に接した晴信はただちに三千騎の兵を率いて伊那に出陣、先鋒は秋山信友が務めた。
 武田軍の進攻に対して頼元は、小渋川より伊久間川まで人数を配して武田軍を迎え撃った。知久勢は猛烈な武田軍の攻撃をよく防いだが、頼元の嫡子頼康をはじめ知久勢は多くの武士が討たれ、次第に劣勢に追い込まれていった。知久勢は強勢の武田軍によって神之峰城に追いつめられ、ついに、知久頼元父子、座光寺貞信ら主だった武将は生け捕りとなった。
 神之峰城の戦いと落城の様子については軍記物語など諸説があるが、『妙法寺記』によれば、晴信は頼元らを甲斐に護送し、御坂峠を越えて河口湖に浮かぶ鵜之島に幽閉した。そして、翌弘治元年五月、河口湖東岸の船津浜において全員を処刑した。ここに鎌倉以来、神之峰城を本拠として勢力を保ってきた知久氏は没落の運命となった。

その後の知久氏

 神之峰城の落城後、一族の遠包・遠重らは武田氏の家臣となり、頼氏・頼純らは浪々して醍醐寺に逃れ、のち織田氏、徳川氏に出仕した。そして天正十年(1582)、織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻したとき、頼氏は家康から命じられて伊那郡の諸将とともに諏訪および甲斐に出陣し、知久平六千貫の本領を安堵された。
 「本能寺の変」のとき、頼氏は家康に供奉して上方にあったが、家康とともに無事三河に帰ることができた。家康はただちに甲斐・信濃攻略を企図して頼氏を伊那に帰し、本領の回復を図らせた。このとき、諏訪頼忠・小笠原信嶺・保科正直らも本領を安堵され、若神子で北条氏直と対陣した。知久氏は酒井忠次とともに御嶽の警備に従い、ついで佐久郡前山城を攻める依田信蕃の軍に参加した。この間、頼氏は旧領の経営にも意を用い、領内の社寺に対して寺領や諸役免除の安堵状を出している。
 天正十三年、家康の上田攻めに際して頼氏は諏訪・保科・屋代・下条・依田氏らとともに参陣したが、戦いは真田昌幸の巧みな駆け引きにより徳川軍の散々な敗北に終わった。その後、頼氏は居城に帰ったが、間もなく浜松において不慮の生害を遂げてしまった。そのあとは嫡子の万亀が継ぎ、のちに則直と名乗り、関ヶ原の戦いの後、旗本信濃衆として三千石を与えられた。
 慶長十九年(1614)の「大坂冬の陣」には、千村、宮崎氏らと波(浪)合関を守備した。翌元和元年(1615)の「夏の陣」には、小笠原長臣・座光寺為時らともに「伊那衆」として出陣している。江戸時代は下伊那郡喬木村阿島に陣屋を構え、交代寄合衆として代々封を継ぎ明治維新を迎えている。  江戸時代の知久氏のこととして語り伝えられている話に、「知久の殿様川流れ」というものがある。これは、文政十二年((1829)五月に、知久頼衍が江戸からの帰途、天竜川の竜ノ口の渡し場を渡ろうとした。ところが、折からの雨で天竜川が増水していたため、頼衍の駕籠とお供の人々や道具類を満載した船が転覆し、頼衍自身は百姓に辛うじて助けられたというものである。・2006年2月13日
・右家紋:旗本知久氏の桔梗紋

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■参考略系図
・「寛政重修諸家譜」「古代氏族系譜集成」に収録された知久氏系図から作成。
 


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