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丹波上原氏
抱き柊に丸に対い鶴*
(神氏流)
*見聞諸家紋に神氏上原として
 右の家紋が記されている。


 応仁の乱が終わって間もないころ、急に現われて丹波国で権力をほしいままに振るったのは、何鹿郡物部を本拠とした上原氏であった。しかし、上原氏については、これまで明かにされていない。『何鹿郡誌』によると、源頼朝より丹波国何鹿郡内の地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久四年(1193)信濃国上原より丹波国何鹿郡物部に来住下と記され、『綾部市史』じは「承久以後に何鹿郡に入ったのではなかろうか」と記している。
 丹波国には、古く物部氏がいて天暦六年(952)に船井郡大領物部惟範、治承二年(1178)には丹波大目となった物部正清などが知られる。しかし、上原氏は信濃から物部に来住して物部を称したので、さきの物部氏らとは系譜は異なる。
 『諏訪史料叢書』の「神氏系図」によると上原九郎成政が建久四年丹波国物部郷ならびに西保地頭職を拝領とある。これが上原氏来住の資料として最も真実に近いのではないだろうか。『吾妻鏡』によると、文治二年(1186)三月、北条時政が源義経らを追討するため上洛し、三十五人の武士を留めたが、その中に「うえはらの九郎」が記されている。
 上原氏で、神太とか神六とかの仮名を持つ者がいる。これは上原氏が神氏より出ていることを現わしている。神氏は信濃国諏訪大社の神官の家系で、それから分かれて同国上原に住して上原を苗字とした。いまも、綾部市物部城跡の麓に信濃より勧請したという諏訪神社が祀られている。以上のことから、上原氏は信濃諏訪湖のほとりから来た者であることは間違いない。

●上原氏の丹波への登場

 丹波の上原氏が史上に現われるのは南北朝期からで、建武三年(1336)一月の船井郡和智荘地頭・片山高親の軍忠状によると、物部孫神太が丹波守護仁木頼章に属して京都西山峰の堂および大枝山の戦に参加している。孫神太は上原とも称し、暦応二年(1339)足利直義が波々伯部保領有についての争いを裁決した文書の中には上原孫神太秀基と記されており、この秀基の名は神氏系図にも出ている。さらに明徳三年(1392)八月の『相国寺供養記』には、丹波守護で管領の細川頼元の随兵として物部九郎成基がいる。
 一方、播磨の赤松系図の一部には宇野の家系に上原和泉守・同肥前守が見える。これは上原を赤松一族に付会したものであろうが、赤松氏の被官としては、応永六年(1373)幕府の御的初に上原対馬守神六が出場しており、続いて『明徳記』『相国寺供養記』『嘉吉物語』などに見え、『蔭涼軒目録』には「赤松雑掌上原対馬守」とあり、『親元日記』にも同様で赤松の代官役を務めている。また、延徳三年(1491)八月、将軍足利義材の近江征伐の際は上原対馬守が赤松代として、その子神六・神十郎とともに出陣している。
 この対馬守と同時代に上原豊前守賢家がいて、神四郎・神六・神五郎の三人の子がいた。丹波と播磨の上原氏は別家であはるけれども同族で、播磨上原氏が弓道家であり、弾左衛門神貞祐が神を称しているのに対し、丹波上原氏も諏訪明神の祭日には京都紫野でたびたび笠懸を催している。しかも、一方は赤松氏の雑掌として、丹波の方は細川氏の内衆として、ともに京都に在住していた。
 文明の後年より、上原賢家・同元秀の名が現われてくる。賢秀は前記の豊前守であり、元秀は神六紀伊守を称し、両者は父子であった。文明十六年(1484)には、丹波守護代物部賢家とみえ、それ以前の十四年に元秀が内藤元貞に替って守護代となり、父の賢家は元秀の後見をしていたともいわれる。
 元秀は、管領細川政元の重臣として近侍し、文明十八年七月に政元が管領として初出仕したときには、摂津守護代薬師寺元長、讃岐守護代安富元家とともに従い、翌、長亨元年の将軍足利義尚の六角征伐には、細川軍の先鋒として父子で従い、同年九月政元が近江坂本で将軍義尚に謁したときには、伴衆六人のうち父子そろって将軍にまみえた。このように、上原父子は丹波で数ある国人武士のなかで急速に生長して首位の座についたのである。

●得意絶頂から没落へ

 上原氏の生長の背景には、政元を経済的に支えたことに最大の理由があった。延徳二年の政元邸での観世能の開催の費用、同三年政元が富士一見のために東国へ出発した費用、また同年の和歌会のとりもちなど、上原氏が金銭的な負担した。このような上原父子の経済力は、おそらく荘園の侵略によるものと想像される。
 上原元秀が最も功名を現わしたのは明応二年(1493)四月、政元が将軍義材を廃して義澄を擁立したときであろう。義材は畠山氏の内紛に、畠山政長を援けて、同基家を討伐するために河内へ親征した。将軍義材の留守の間に政元はクーデターを起こしたのである。政元は義澄が叙位されると、義澄を奉じて同閏四月出陣し、元秀はその先鋒として河内へ出発した。同月二十五日に、前将軍義材は元秀の陣に降参してきた。こうして、元秀は政元の将軍廃立の最大功労者となった。
 その後、功を誇る元秀は驕慢な振る舞いが目立ち、その被官人も主人の威を笠にきて他の細川被官人たちともしばしば京都で喧嘩し、常に死傷者が出た。明応二年十月には長塩弥六と争って、これを殺したが元秀も負傷した。そして、その傷がもとで重体となり、ついには父賢家に先だって死去した。
 元秀が死んだ翌々明応四年(1495)七月、政元の馬廻り今井某と賢家の被官人が喧嘩して両人とも死亡した。この今井某は政元の臣、赤沢宗益の寄子であったため、宗益は政元に強く賢家の成敗を訴えた。政元の成敗をおそれた賢家は急いで丹波へ落ち、ついで近江へ逃れた。そして、同年の大晦日に死去した。
 賢家の死後、家督は元秀の兄で左京亮神四郎秀家が継いだようだが、あまり振るわなかったようである。上原賢家・元秀に代表される丹波上原氏は、急に現われ、ぱっと輝いたと思うと消えていった。所詮、その輝きは主家細川政元の笠の下で虎の威を借りたにすぎず、自立したものではなかった。以後、上原氏は歴史の表舞台に現われることはなかった。

参考資料:京都府史/綾部市史 など】


■参考略系図
 
  

・旧版の系図


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