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籾井氏
丸に十字*
(清和源氏/宇多源氏とも)
・丸に十字紋は「籾井日記」の表紙に記されたもの。一説に「桐」ともいわれる。


 古来、丹波は京都と密接な関係を有し、平安時代より山陰道が京の七口の一つである丹波口を起点に桑田郡、船井郡から多紀郡、そして氷上郡を経て但馬国へと通じていた。その後、山陰道は亀岡から園部、三和 、福知山、夜久野を経て但馬国へとつながる道筋となったため、篠山を通っていたかつての山陰道は篠山道と呼ばれるようになった。そして多紀郡から氷上郡には、福住、篠山、追入、柏原、佐治などの宿がおかれた。明治維新ののち、丹波国は桑田・船井・何鹿・天田の四郡が京都府、多紀と氷上の二郡が兵庫県となり、それぞれ京都丹波、兵庫丹波と呼ばれる。
 京都丹波と兵庫丹波を結ぶ篠山道は国道372号線となり、京街道・デカンショ街道とも呼ばれている。境目の天引峠はかつて交通の難所であったが、トンネルが完成した現在ではあっけなく京と兵庫が結ばれた。その天引峠の兵庫側の宿場町福住の白尾山に城を築き拠点としたのが籾井氏で、白尾山に築かれた城は籾井(安田・福住とも)城と呼ばれた。福住は「デカンショ街道」国道372号線と、摂津池田から丹波綾部に通じる国道173号線が交差する交通の要所で、それは中世においても同様であった。
 『応仁武鑑』によれば「仁木兵部太夫成長、丹波福住一万五百石」とあり、室町時代、福住は仁木氏が領するところであった。この仁木氏は、南北朝時代に丹波守護に任じられた仁木氏の一族で、仁木氏は福住中央部の南にある桂山に仁木城を築いていた。それに対する北方の白尾山に城を築いて仁木氏と拮抗する勢力を築いたのが籾井氏であった。その後、仁木氏は四国へ移住したようで、籾井氏が福住一円を領有することになったのである。

籾井氏の活躍

 戦国時代の丹波国は高城(八上)城主の波多野氏を旗頭として、多くの武将がそれぞれの領地に城を築いて割拠していた。そのなかで、黒井城主の赤井直正と籾井城主の籾井越中守教業(史料上では綱利)が双璧で、赤井を赤鬼と呼ぶのに対して籾井は青鬼と呼ばれた。
 籾井氏は『丹波国多紀之郡籾井之庄』『福泉家系図』などによれば、宇多源氏佐々木氏の流れで、代々足利氏に仕えて福住周辺十五ヶ村を支配したと伝えられている。また『籾井日記』では、清和源氏の流れで赤井氏、須知氏らと同族となっているが、実際のところは不詳というしかない。余談ながら、近世大名の西尾氏は清和源氏といい、祖の光秀は丹波の出身で籾井を名乗っていたと伝えている。おそらく、籾井氏の一党は室町時代以前より、丹波に存在していたとみていいのではなかろうか。
 籾井氏が籾井城を築いたのは、戦国時代はじめの永正ごろ(1504〜21)、籾井河内守照綱によってであった。照綱の事績は詳らかではないが、新興の波多野氏に属して多紀郡東方の守りに任じ、三好氏の侵攻などには波多野方として行動したものと思われる。照綱のあとを継いだ綱重は波多野秀治の妹を娶って多紀郡に重きをなし、元亀年間、さらに京都寄りの地安口(はだかす)に支城を築いた。そして、籾井城を嫡男の綱利に継がせると、次男の綱正をともなって安口城に住したのである。
 戦国時代末期の天正三年(1575)、織田信長は部将の明智光秀に命じて丹波経略を開始した。そもそも丹波の国衆たちは、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、旗頭の波多野氏をはじめとして信長の軍門に降ったのでる。ところが、その後信長と将軍義昭とが対立するようになると、丹波国衆は義昭に味方したのであった。丹波国衆の姿勢に怒った信長は、明智光秀に丹波経略を命じたのであった。
 籾井氏の拠る籾井城・安口城は京都から篠山への入り口に当たるところで、天正四年十一月、明智軍との間で激戦が行われた。丹波国衆の抵抗は強烈で、明智光秀は攻めあぐねたが、翌五年十月綱重・綱正父子が守る安口城は明智軍の攻撃を受けて落城、綱重は城から逃れ去った。安口城を落とした明智軍は籾井城の攻略に取りかかった。城を守る綱利はこのとき二十五歳、綱利は非戦闘員や傷病兵を城から落としたあと、明智軍を迎かえ撃ち、本明谷川に討って出て敗れ切腹した。
 ここに籾井氏は没落したが、先に安口城を逃れた綱重は孫の孝高を伴って原山に隠れ、その後、京都に上ったことが知られている。孝高の子孫は福泉と称し代々藤堂家に仕えたといわれる。孝高の子福泉小右衛門は謙信流兵法や書道に優れ、その養子福泉久兵衛利重は日光輪王寺一品天真法親王に仕え、親王のお供で京都御所へもしばしば出入りし奏者役にまで出世したと伝えられている。福住は古くは「福泉(ふくずみ)」と呼ばれたことから、籾井氏の子孫は福泉を称したものと思われる。

 
●籾井城址
波多野氏に与して明智光秀軍と戦って滅亡した籾井氏が拠った籾井城は、文字通り、明智軍に対する最前線を担っていた。

【左】籾井城遺構という禅昌寺山門に残る「桐」紋。住職曰く、籾井氏の紋だという。最近、残念にも 新築されて紋を見ることはできなくなった。
【右】国道側から見た籾井城祉、右手の建物が禅昌寺。


籾井城の周辺を歩くと、細川氏との縁りを伝える禅昌寺、籾井氏の菩提寺であったという本休禅寺などが散在している。 右端は安口(はだかす)城址、左後方に籾井城址が見える。

→ 籾井城址に登る


籾井越中守教業のこと

 ところで、『籾井家日記』によれば、籾井氏の先祖を「清和源氏摂津守頼光の後胤にて、矢田判官代源義清の末孫にて候」とあり、義清の三男頼清が位田六郎造酒允晴高という者の婿となって、丹波に居住したのが始めと記されている。そして、六郎景澄のとき源義朝に仕え、義朝の子悪源太義平に属してその身代わりとなって戦死した。景澄には景俊と景次の二人の男子があり、景俊の嫡子小次郎は須知景元の家を継ぎ、次男六郎二郎は赤井を称し黒井に住した。一方、景次の子黒源太は波多々伯部氏が後見して、籾井の郷に住まわせたことから籾井を名乗るようになった。そして、代々籾井を領して戦国時代に至ったというのである。
 この『籾井家日記』の記述は歴史的事実の誤伝、あるいはそのままには受け取れない記述が多く、史実として受け取れないが、籾井氏に関する戦記物語としては面白く読めるものである。
 種々の記録によれば、籾井城主として明智軍を迎かえ撃ったのは下野守綱利であった。ところが、戦記物語などでは、先にも記したように籾井越中守教業が最後の籾井城主として、明智軍を迎かえ撃ったことになっている。越中守教業のことは『籾井家日記』に詳しく述べられているが、もとより『籾井家日記』の記述はそのままに受け止めることができないものである。
 滅亡、あるいは没落した武家に多くみられるように、籾井氏にしても城が落ちたときに伝来の文書を失ったとみて間違いないだろう。さらに、信長に抵抗したことで一族は名を変え、身分を隠して世を忍んだことと思われる。その結果、近世に至って改めて籾井氏の記録が叙述され、いまに伝わった。そして、それは断片的な記録や、古老の記憶などをもって編まれたものであったろう。それが、結果として籾井氏の歴史を分かりにくいものとした要因になったと思われる。


籾井氏ゆかりの寺、桂峯山如来寺を訪ねる

桂峯山如来寺は籾井氏の祈願所で、境内には籾井照綱の供養塔が最近立てられた。また、背後にある墓地には 籾井氏のものも散在し、それぞれの墓に据えられた家紋が異なっていたのが印象的であった。いずれが、 戦国期籾井氏の家紋を伝えているのだろうか?

参考資料:多紀郡中城跡記/福住村誌/籾井系図書/丹波志/多紀郷土史考 など】


■参考略系図
・『籾井系図書』『福泉家系図』が伝わっているというが、まだ実見していません。御存知の方、御教示ください。

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