籾井氏
丸に十字*
(清和源氏/宇多源氏とも)
・丸に十字紋は「籾井日記」の表紙に
記されたもの。一説に「桐」ともい
われる。
|
|
京都からの丹波の入り口は「口丹波」と称され、古くは山陰道として、江戸期は京街道と呼ばれた交通の要地であった。その口丹波に位置する福住の白尾山に城を築き拠点としたのが籾井氏で、白尾山に築かれた城は籾井城と呼ばれた。
そもそも福住は『応仁武鑑』によれば、「仁木兵部太夫成長、丹波福住一万五百石」とあり、この仁木氏は丹波守護であった仁木氏の一族と思われる。そして、仁木氏は福住中央部の南にある桂山に仁木城を築いていた。それに対する北方の白尾山に城を築いて仁木氏に括抗したのが籾井氏であった。その後、仁木氏は四国へ移住したため、籾井氏が福住を領有することになったのである。
戦国時代の丹波国は高城(八上)城主の波多野氏を旗頭として、多くの武将がそれぞれの城を築いて割拠していた。そのなかで、黒井城主の赤井直正と籾井城主の籾井越中守教業が双璧で、赤井を赤鬼と呼ぶのに対して籾井は青鬼と呼ばれた。
●籾井氏の活躍
籾井氏は『丹波国多紀之郡籾井之庄』『福泉家系図』などによれば、宇多源氏佐々木氏の流れで、代々足利氏に仕えて福住周辺十五ヶ村を支配したと伝えられている。籾井氏が拠った籾井城は、京都から篠山につながる京街道福住にあり、戦国時代の永正ごろ(1504〜21)に、籾井河内守照綱が築いたといわれている。河内守照綱のあとを継いだ綱重は籾井城を本城として、さらに京都寄りの地安口(はだかす)に支城を築いた。そして、籾井城を嫡男の綱利に継がせると、次男の綱正をともなって安口城に隠居したのである。
戦国時代末期の天正三年(1575)、織田信長は部将の明智光秀に命じて丹波経略を開始した。そもそも丹波の国衆たちは、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、旗頭の波多野氏をはじめとして信長の軍門に降ったのでる。ところが、その後信長と将軍義昭とが対立するようになると、丹波国衆は義昭に味方したのであった。丹波国衆の姿勢に怒った信長は、明智光秀に丹波経略を命じたのであった。
籾井氏の拠る籾井城・安口城は京都から篠山への入り口に当たるところで、天正四年十一月、明智軍との間で激戦が行われた。丹波国衆の抵抗は強烈で、明智光秀は攻めあぐねたが、翌五年十月綱重・綱正父子が守る安口城は明智軍の攻撃を受けて落城、綱重は城から逃れ去った。安口城を落とした明智軍は籾井城の攻略に取りかかった。城を守る綱利はこのとき二十五歳、綱利は非戦闘員や傷病兵を城から落としたあと、明智軍を迎かえ撃ち、本明谷川に討って出て敗れ切腹した。
ここに籾井氏は没落したが、先に安口城を逃れた綱重は孫の孝高を伴って原山に隠れ、その後、京都に上ったことが知られている。孝高の子孫は福泉と称し代々藤堂家に仕えたといわれる。孝高の子福泉小右衛門は謙信流兵法や書道に優れ、その養子福泉久兵衛利重は日光輪王寺一品天真法親王に仕え、親王のお供で京都御所へもしばしば出入りし奏者役にまで出世したと伝えられている。福住は古くは「福泉(ふくずみ)」と呼ばれたことから、籾井氏の子孫は福泉を称したものと思われる。
|
|