竹中氏
九枚笹
(清和源氏土岐氏流) |
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竹中氏は清和源氏土岐氏の支流を称している。また、美濃国の名門・長江氏(桓武平氏)から興った岩手氏の分流ともいわれる。岩手氏は室町時代当初より、不破郡岩手の漆原を中心に六千貫を領していた。岩手信忠の弟重氏がはじめて竹中氏を名乗った。重氏は、半兵衛重治の祖父にあたる人物である。
重氏の子が重元で、「斎藤道三に属し、美濃国不破郡岩手の城主岩手某と戦ひ、終に其の城を攻落しこれに住し、また同国菩提山に城を築き、六十貫文の地を領す。永禄三年二月に死す」と古書にある。
重元は斎藤道三から大野郡公卿を与えられ、大御堂城を構えた。同所を鎌倉御家人であった竹中氏が代々支配していたとする説もあり、その名跡を重元が継いだ可能性もある。弘治二年(1556)斎藤道三が息子の義龍によって殺されたとき、重元は道三に属していた。重元は、永禄元年(1558)兵を率いて不破郡の漆原城を攻め、岩手信冬を追放した。以後、岩手氏の旧領を支配し、遠江守を名乗っている。そして、居城を菩提山に移して守りを固め、二年後に六十二歳で没した。
竹中氏の名前を有名にしたのは、重元の嫡子重治である。半兵衛の名で知られる。半兵衛は家督を継ぐと、家臣山田助左衛門を関ヶ原に派遣、領主の九門太郎を討って版図を拡大、その勢力は不破郡一帯に及んだ。江戸時代の石高になおせば、同郡は約三万石だった。
その後、近江国の六角氏から要請されて、坂田郡に兵を出すこともあった。浅井氏に対する押さえの援軍で、竹中遠江守の名で感状を受けている。半兵衛は生涯官名を用いていないが、官名私称乱用の時代であったから、父遠江守の後をうけていると思われたものだろう。
戦国の智将、竹中半兵衛
重治の名を高からしめたのは、主家斎藤氏の居城・稲葉山城乗っ取りクーデターであろう。事件は永禄七年二月六日に起こった。斎藤氏は義龍がすでに没し、その子の龍興が当主をつとめていた。原因はさまざまに流布されているが、暗愚な主君の目を覚まさせようとして事を起こしたといわれるが、どうだろうか。いずれにしても、重治は人質として城内で生活をしている弟久作と連絡をとり、仮病をつかわせた。そして、屈強の家臣を中間・小者に化けさせると、看病のためと偽って、白昼堂々と登城した。看病のための道具を入れたとする長持の名かには、実は、刀と武具がつまっていた。
そして、城内にはいると、城番斎藤飛騨守を倒し、久作と従者らがいっせいに打って出た。騒ぎに驚いた斎藤龍興は、
近臣のすすめで城の裏門から脱出、遠く揖斐郡まで逃げたという。
成功を確認した半兵衛は合図の鐘を打たせ、城外に控えていた安藤・竹中軍が城内になだれこみ、城下を制圧した。
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稲葉山城は積年尾張の織田信長が攻めてついに落せなかった城である。重治のクーデター成功を知った信長は、美濃半国を与えるから、城を明け渡すよう求めてきた。しかし、半兵衛は自分の欲でやったことではないと、それを断わり、斎藤龍興に城を返して飄然と国外へ去った。行く先は近江国小谷城主浅井久政のもとで、そこで、東浅井郡草野三千貫を給されたと、竹中家の記録に残っている。一年後、禄を辞して岩手に帰ったというが、半兵衛に対する処遇は伝わっていない。
永禄十年、信長が美濃に侵攻してきたとき、斎藤龍興を見限って信長に属した。元亀元年(1570)越前国朝倉氏討伐に従軍。浅井長政の離反によって帰国。関ヶ原の南西、松尾山に築かれた浅井氏の出城・長亭軒山城を調略した、この功績により、信長から黄金五十枚、甲胄と鞍と太刀を拝領している。同年、姉川の合戦では、弟の久作が信長の近習として高名。半兵衛は安藤守就と行動をともにした。
その後、信長の命で秀吉とともに敵地の横山城に残り、長期戦にそなえる。以後、秀吉の寄騎となって、智将の名をほしいままにした。天正元年(1573)信長の小谷城総攻撃がはじまると、秀吉に献策して内室たちを救わせた。小谷落城後、浅井氏の旧領十二万石を得た秀吉から、千五十三石を給され、新城長浜の町づくりにも貢献したという。
秀吉の播磨侵攻
天正五年、秀吉の本格的な播磨国出兵が始まり、竹中勢は上月城の支城福原城を落した。この播磨攻めのとき、黒田官兵衛と知り合い、以後、半兵衛と官兵衛の二人は秀吉の両輪となって活躍する。同六年、別所長治が反旗を翻したため、秀吉軍は三木城を包囲し戦は長期戦となった。また、摂津の荒木村重も謀叛をおこし有岡城に籠城した。このとき、黒田官兵衛が説得のために荒木村重のもとを訪ねるが、逆に囚われの身となってしまった。
半兵衛ゆかりの地点描
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美嚢川越しに三木城址を見る ・竹中半兵衛の墓所 ・墓所に刻まれた九枚笹紋(2010-07/09)
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相次ぐ裏切りに逆上した信長は、疑心暗鬼となり、官兵衛から出されていた人質松寿丸を殺せ、と秀吉に命じた。官兵衛を信じる半兵衛は、松寿丸を長浜城から岩手へ移し、かくまった。このころ、肺病を患って、洛北で養生をしていたが、その間も松寿丸のことを心配していたことが残された手紙などで知られる。病は快方に向かわず、死期を悟った半兵衛は陣中で没することを望んで、秀吉の本陣・平井村の山中で天正七年六月十三日に他界した。三十六歳の若さであった。
その子が重門で、父の死後、秀吉に仕え、天正十七年には美濃国不破郡において、五千石の所領が与えられ、のちに加増されている。関ヶ原の戦いのとき、重門は、はじめ西軍に属し、犬山城守備軍として同城に入っている。のちに東軍に内応し、関ヶ原当日は東軍として戦った。
■参考略系図
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