ヘッダイメージ



高野瀬氏
●二つ引両/三つ柏
●佐々木氏流/藤原秀郷流
高野瀬氏の墓碑に「二つ引両」の家紋が刻まれていた。一方、系図の頼隆の注に「五宮より柊紋を賜う、初めは三つ柏」とあり、三つ柏が本来の紋であった可能性もある。
 


 高野瀬氏は近江国愛智郡にあった高野瀬村から起った中世武家で、『愛智郡志』所収の「正応本佐々木氏系図」によれば近江源氏佐々木氏の分かれという。すなわち、愛智四郎家長の嫡男左近将監家広が高野瀬村に住して高野瀬を称したことに始まると記されている。そして、建武三年(1336)の『園城寺文書』に高野瀬信景、享禄二年(1529)の『近畿内兵乱記』に家澄、『多賀神社文書』に高野瀬備前入道・高野瀬七郎右衛門尉、『今堀神社文書』に高野瀬家恒など、高野瀬氏の名が散見する。
 一方、肥田町にある高野瀬氏の菩提寺崇徳寺に伝えられた過去帳には、藤原秀郷から九代目にあたるという行隆をはじめとして、戦国時代に至るまでの高野瀬氏代々の戒名と簡単な事歴が記されている。そこには、先に紹介した佐々木氏系高野瀬氏の名前は見えない。即断はできないが、高野瀬氏は佐々木氏流と藤原秀郷流の二つの流れがあったのではなかろうか。
 崇徳寺の過去帳から秀郷系高野瀬氏の歴史をたどってみると、行隆五代の隆重が源頼朝に仕え、治承八年(1180)近江に来住して高野瀬城を築いて土着したという。元弘の変に遭遇した頼隆は、後醍醐天皇の皇子五宮に従い、鎌倉落ちをする六波羅探題北条仲時を番場宿で討ち取る功をあげた。そして、この頼隆がはじめて高野瀬を名乗ったとある。

■ 佐々木氏流愛智氏系高野瀬系図


動乱のはじまり

 近江守護職は鎌倉時代より佐々木六角氏が任じられたが、南北朝の動乱をきっかけに佐々木京極氏が台頭、愛知川を境として北を京極氏が、南を六角氏がそれぞれ支配下においた。
 高野瀬氏のように鎌倉時代より愛智郡に領地を持つ小領主にとって、守護職の存在は必ずしも歓迎できなかった。足利幕府の任じた守護職は鎌倉期の守護と違ってその裁量権が大きく、守護みずからも分国内の小領主を被官化することでその勢力の安泰を図った。それもあって、南北朝期から室町時代はじめにおける高野瀬氏のような小領主らは、必ずしも守護職に従順な存在ではなかった。しかし、高野瀬氏も次第に守護佐々木氏の下風に立つようになっていった。  十五世紀、室町幕府体制が確立されたが、関東永享の乱、大和永享の乱、将軍義教が暗殺された嘉吉の変など、社会を揺るがす事件が続発した。結果、室町幕府の権威にも翳りがみえるようになり、将軍権力の衰退、守護大名の権威の低下を招き、時代は乱世の様相を濃くしていった。そして、応仁元年(1467)、将軍家の継嗣問題を引き金として応仁の乱が起った。近江守護職である江南の六角氏は西軍に、江北の京極氏は東軍に属して対立した。高野瀬は両勢力の「境い目」に位置することから、高野瀬氏は時代の荒波をもろに被ることになった。
 六角氏と京極氏の抗争は応仁の乱が終結したのちも止むことなく、文亀三年(1503)、高野瀬隆重は六角氏の命で肥田に城を築いた。宇曽川中流の湿地帯に築かれた肥田城は典型的な平城だが、宇曽川と愛知川を天然の濠としたなかなかの要害であった。また、肥田の地は宇曽川の舟運と農耕に恵まれたところで、中山道と浜街道の中間地点に位置する要地でもあった。高野瀬氏はここに菩提寺を築き、城下町を営み、京極氏に対する六角氏の最前線の任を担ったのである。

近江の戦国時代

 やがて、戦国時代を迎えると、江北の京極氏は内部抗争が続き、次第に勢力を失墜していった。その結果、上坂氏、浅井氏、浅見氏ら京極氏麾下の国人ら領主が勢力を増し、そのなかから一頭抽んでたのが浅井亮政で、ついには京極氏を凌ぐ勢力を築き上げるのである。 

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肥田から高野瀬へ、往時を偲ぶ



高野瀬氏が割拠した肥田城は宇曽川沿いの田園地帯に築かれた平城であった。界隈を歩くと公民館の片隅に城址の碑があり、その隣に高野瀬氏の菩提寺であった崇徳寺がひっそりと佇んでいる。境内の一角に高野瀬一族の墓碑が遺され、その台座をみると「二つ引両」の家紋が刻まれている。崇徳寺には「高野瀬氏の資料館」が併設され、家系図、城主の肖像(いずれも複製)などが見られる。界隈を歩くと、本丸があったと思われる地には祠が祀られ、城址の外縁にあたる所には土塁の跡が残っている。また、城址北方角の宇曽川堤防の下には、六角氏水攻めの碑が立っている。


肥田城址をあとに宇曽川の堤防をぶらぶらと高野瀬方面に歩くと、高野瀬氏の崇敬が篤かった「天稚子神社」がある。境内の案内板によれば、勝運の強い神様として崇められ、この地を通るほとんどの武将は神饌を捧げて勝運を祈ったいう。ちょうど祭礼の宵日にあたっていたようで境内は地元の人が飾り付けに忙しく、フッと祭礼提灯を見ると「鶏」が神紋として描かれていた。改めて境内を見回すと、神馬、橋の欄干などに「鶏」紋が刻まれている。その由来は分からなかったものの、非常に珍しい紋に出会えた興奮が残った。天稚子神社から東北方面に少し歩くと、高野瀬氏が最初に城を築いたという地に「高野瀬城址」の碑がポツンと立っていた。


 浅井亮政の勢力が拡大するとともに、肥田城主高野瀬氏は苦しい立場に置かれるようになる。浅井氏の勢力拡大を危惧する六角氏は再三にわたって江北に兵を進めたが、浅井亮政の息の根を止めることはできなかった。しかし、亮政が死去したのち家督を継いだ久政は六角氏に属するようになり、久政の嫡男新九郎は六角氏当主の義賢から「賢」の一字を与えられて賢政と名乗った。さらに、六角家の重臣平井定武の娘を室に迎えるなど、浅井氏は六角氏の下風に立つに至った。
 ところが永禄二年(1559)、反六角派の家臣の応援をえた賢政は父久政を隠居させると浅井氏の実権を掌握した。そして、平井氏の娘を六角家に送り返すと、名も賢政から長政と改め六角氏への対立姿勢を明らかにした。さらに長政は、六角氏との境に位置する諸勢力に調略の手をのばし、六角氏からの離反を働きかけた。
 長政の調略の手は肥田城主の高野瀬秀隆にものばされた。おりから、六角氏の処遇に不満を抱いていた秀隆は浅井方に転じた。秀隆は父頼定が六角氏に従軍して戦死したにも関わらず、恩賞がないことに不満を抱いていたのである。秀隆が浅井方に寝返ったことを知った義賢は激怒し、ただちに肥田城攻めの陣を起した。肥田城を囲んだ六角勢は、城の周囲に堤防を築くと、愛知川と宇曽川の水を引き込んだ。この水攻めによって高野瀬方は大きな損害を出したが、おりからの大雨で堤防が決壊、水浸しとなった六角勢は兵を引き上げていった。
 水攻めに失敗した義賢は、肥田城の南方に位置する野良田郷に布陣、そこで高野瀬氏の救援に出陣してきた浅井長政と一大決戦を行った。六角方は蒲生定秀・永原重興らを先陣として総勢二万五千の兵を擁し、一方浅井勢は一万一千という兵力であった。戦いは数に優る六角方の有利に展開したが、緒戦の勝利に油断した六角勢の隙を突いた六角勢の奮戦で結果は浅井勢の勝利となった。いわゆる「野良田表の合戦」と呼ばれる戦いで、この勝利によって、浅井長政は江北の戦国大名としての地歩を固めたのである。
 以後、浅井氏と六角氏の抗争が繰り返され、高野瀬氏も時代の波に翻弄さればがら、小領主なりに乱世を生き抜いていった。

高野瀬氏の最期

 やがて、尾張・美濃を支配下においた織田信長の台頭によって、時代は大きく動くことになる。永禄十一年(1568)、六角氏は足利義昭を奉じ上洛の軍をおこした信長を迎撃したが敗戦、再起をはかるが没落の運命となった。一方、信長の妹を妻として信長と同名を結んでいた浅井長政も、朝倉氏と結んで信長に対立、滅亡した。その時代の激変のなかで、高野瀬氏は浅井氏、ついで織田氏に従って命脈を保った。
 天正二年(1574)、信長の部将柴田勝家が越前の一向一揆鎮圧のために出陣すると、高野瀬秀隆・隆景父子もその陣に従った。そして、越前安居における戦いで、父子ともに討死した。ここに、高野瀬氏嫡流は断絶となり、鎌倉以来の歴史に幕を降ろした。かくして、高野瀬氏は没落の運命となり、いまはわずかに残る肥田城跡が往時を偲ばせるばかりである。・2007年04月24日→2008年02月07日

■ 崇徳寺に伝えられた高野瀬父子の肖像画



参考資料:愛智郡志/肥田町史/稲枝の歴史 ほか】


■参考略系図
・『肥田町史』に記載された高野瀬氏系図をもとに作成。崇徳寺に所蔵される高野瀬氏の過去帳から再現されたもので、現在、高野瀬氏の系図としてはもっともまとまったものという。  


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