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田総氏
●一文字三つ星
●大江姓長井氏流
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平安期に登場した武士のなかから源氏・平氏が台頭し、それぞれ京の公家と結んで勢力を拡大した。やがて、「保元・平治の乱」を経て源氏は没落し、平氏は公家政治を抑えて政権を握るまでに至った。平治の乱に敗れた源頼朝は伊豆に流されていたが、治承四年(1180)、平氏打倒の兵を挙げた。以後、源平の争乱が続き、文治元年(1185)、平家は壇の浦の戦いに敗れて滅亡した。
平氏討伐に活躍したのは頼朝の弟義経であったが、後白河法皇の暗躍もあって頼朝と義経は対立するようになった。文治元年、義経追補の勅許を得た頼朝は全国に「守護」「地頭」を配した。義経は奥州の藤原氏のもとに逃れたが、文治五年、藤原泰衡に討たれた。その後、頼朝は義経を匿ったことを理由に奥州藤原氏を攻め、これを討ち滅ぼした。
後顧の憂いをなくした頼朝は、建久元年(1190)、上洛し一時的な措置であった「守護」「地頭」の制度を恒常的なものとして確立した。そして、その二年後の建久三年、頼朝は鎌倉幕府を開いたのである。公家政治に代わる武家政治の発足であり、中世の幕開けでもあった。
このようにして生まれた「守護」「地頭」は、当初、鎌倉幕府の創設につくした御家人が任命された。なかでも頼朝の旗揚げに最初から馳せ参じて活躍した佐々木氏一族は、最多の守護国を得たことはよく知られているところである。佐々木氏と並んで活躍した土肥実平は、備前・備中・備後三ヶ国の守護に補された。しかし、守護国に入部した実平は、庄内での押領を繰り返し、ついに守護を解任されてしまった。そして、実平のあとの備後守護に補任されたのが、鎌倉幕府別当大江広元の次男時広であった。
備後守護、大江長井氏
時広は出羽国置賜郡長井郷の地頭であったことから長井を称し、幕府内では関東評定衆の一員として重用されていた。時広のあと備後守護職は、次男の泰重、その子頼重、そして貞重と受け継がれた。泰重以来、代々京都に出て六波羅評定衆をつとめ、泰重の弟泰茂、頼重の弟茂重 貞重の弟貞頼らも六波羅評定衆になっている。その結果、備後の守護所のことは子弟・郎従に委ねることになったようだ。その結果、長井一族が備後に土着するようになり、のちに田総・長和氏らが登場してくるのである。
ちなみに、『尊卑分脈』の大江氏系図をみると、泰重の弟泰経に長和五郎、頼重の弟重広に称田総とあることから、この両人は惣領に代わって備後に下向したものと思われる。そして、重広は甲奴郡田総庄・小童保などの地頭に補された。
南北朝時代になると、重継は足利尊氏に属したようで、貞和元年(1345)所領を安堵され、さらに長和庄東方、石成庄下村の地頭職を与えられている。重継のあと、照重─直干─能里─元勝─広里─時里とつづき、十五世紀の信濃守時里のとき田総を名乗るようになったのだという。時里は備後守護山名持豊に従い、享徳三年(1454)播磨の平井要害で戦死した。その子豊里も山名氏に属して、文明十六年(1484)山名氏が浦上基宗を福岡城に攻めたとき討死している。
やがて、備後守護山名氏は衰退し、代わって大内氏の勢力が及んでくると大内氏に属するようになった。その大内氏も天文二十年(1551)義隆の代に重臣陶氏の謀叛で滅亡、さらに陶氏も弘治元年(1555)に毛利氏によって討たれると、田総氏は毛利氏に属した。
慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」に西軍の総帥となった毛利氏は、戦後、周防・長門の二国に減封処分となった。関が原のとき、田総氏の当主元里は安国寺恵慧の讒訴を受け、浪人中だったと伝えられている。その後、元里、その子元勝が相次いで死去したため、あとを継いだ元忠は毛利氏を頼って長州萩に赴いた。元忠の姉妹は毛利家中の歴々に嫁いでおり、田総氏と毛利氏とは元を正せば同じ一族という関係でもあった。そして、寛永年間にいたって、元忠はめでたく毛利家に仕官することが出来たのである。
元忠の子就里は村上氏を継いで、一時田総氏の名は消えたが、のちに復姓し子孫は毛利氏に仕えて続いた。・2005年3月17日
【参考資料:総領町史/姓氏家系大辞典 など】
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