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当麻高田氏
●菊一文字
●用明天皇後裔当麻氏系
 


 当麻氏は、用明天皇と葛城直磐村の娘広子との間に生まれた麻呂子皇子が当麻公と称したことに始まるという。当麻公と称したのは、母広子の出里当麻の地名をとったものと推測され、同地は大和国葛下郡にある。一方、『古事記』では、用明天皇が、当麻倉首比呂の女、飯女を娶して生みませる御子が、当麻王となっている。いずれにしろ、遥か古代のことであり、そのような伝承があるというしかない。
 当麻公氏が歴史にあらわれるのは当麻公広嶋がはじめで、天武元年(672)六月、吉備国守であった広嶋は大友皇子方の手によって殺害された。この事件は、壬申の乱が勃発する直前のことであり、当麻氏が大海人皇子(のちの天武天皇)方にあったことを示している。天武十三年八色の姓が制定され、十三氏が真人の姓を受けたが、そのうちに当麻公国見が真人となっている。さらに、『天武十四年紀』には、当麻真人広麻呂が壬申の功により直大壱位を贈られたことが記されている。
 以後、当麻氏の名は、奈良時代、平安時代の史料にもみえ、中級官人として朝廷に出仕していことがうかがえる。『貞観実録』に卒伝の載っている当麻真人清雄は、貞観元年(859)、当麻社への使となって当麻に下向しているが、これは当麻との関係によるものと思われる。時代が下って、『東大寺文書』の永久六年(1118)の「在地平田郷庄司等加署判之」には、平田庄の庄司のひとりとして当麻恒包の署名がある。ついで、保延六年(1135)の『東大寺百合文書』に、葛下郡廿三条三里のなかに当麻為連の家地があったことがみえている。
 このように、当麻氏は中級官人として朝廷に一定の地位をえた当麻氏と、葛下郡の地方役人や庄司などになって当麻に小さからぬ勢力を有した当麻氏とがあった。そして、当麻に拠った当麻氏の勢力は、平田庄荘官として葛下・広瀬両郡に広がっていたものとみられる。

当麻氏の登場

 大和国は他国のように武家(御家人)が守護に任じられず、興福寺が守護職として一国の検断権を行使した。また興福寺は、大和国最大の荘園領主であり、在地の名主らを庄司に登用して、荘園の経営にあたらせた。そして、在地の名主・庄司らは衆徒・国民として興福寺の権力基盤を担うようになり、やがて武士団に成長していくのである。
 鎌倉時代、幕府は平家没官領や、承久の乱において収公した土地などに、地頭を任じて政治体制を磐石にしていった。しかし、大和国は興福寺の権力が絶大で、他国の武士が地頭が任じられることもなかった。それもあって、鎌倉時代における大和武士の動向は、興福寺のカゲに隠れて明確でないところが多い。
 とはいえ、高田天神社に残された鎌倉時代中ごろの棟札(貞応元年=1222)に、当麻為清・為信・為祐らの名が見え、当麻一族が在地の豪族として天神社の祭祀に関わっていたことが分かる。為清・為信の名は当麻氏系図にも見えているが、祭祀に関わっていたこと以外は不明である。
 十三世紀末の元冦をきっかけとして鎌倉幕府の政治体制は揺らぎをみせるようになり、十四世紀はじめ、後醍醐天皇が起した討幕運動によって動乱の時代となった。元弘三年(1333)、鎌倉幕府は崩壊、天皇親政による建武の新政が始まった。ところが、足利尊氏の謀叛によって新政も挫折、世の中は南北朝の内乱時代へと推移した。
 南北朝初期の延元三年(1338)、吉野金峰山寺楼門の仁王像体内銘に「高田兵庫守入道宗貞」の名が施主として記されている。入道宗貞は当麻氏とみて間違いないが、俗名は不明であり、当麻氏系図上の人物に比定することもできない。とはいえ、当麻氏が在地名高田郷をとって高田氏を称したことを示すものであり、当時の武士の名乗りのあり方からしてもうなづけるものだ。宗貞が仁王像を寄進した金峰山寺のある吉野は後醍醐天皇が朝廷を置いた地であり、仁王像の体内銘には南朝年号が記されており、当麻高田氏が南朝方にあったことを示している。
 ちなみに『大乗院寺社雑事記』には当麻氏の名はみえず、高田氏の名がみられることから、南北朝時代はじめには当麻氏は高田を名乗っていたのであろう。
 

大和永享の乱

 南北朝の内乱期、興福寺は大乗院門跡と一乗院門跡が南北に分かれて対立、さらに北和の筒井氏と南和の越智氏がそれぞれ党派を率いて抗争を繰り返した。興福寺両門跡の対立、抗争は興福寺の支配力を低下させ、衆徒・国民は領主化への道を歩むようになった。当麻高田氏は先の宗貞が南朝方として行動したことが知られるばかりで、南北朝期における動向は明確ではない。当麻高田氏も他氏と同様に、乱世のなかでみずからの勢力拡大につとめたことであろう。
 明徳二年(1393)、南北朝の合一がなり、大和にも一時の平穏がおとずれた。しかし、幕府が合一時の約束を守らなかったことから、後南朝の蜂起が起った。大和における後南朝の中心となったのは越智氏であり、それに対したのは幕府を後楯とした筒井氏であった。以後、大和は越智党と筒井党とによる南北合戦が続くのである。
 高田氏の動きは不明ながらも、応永十四年(1407)の「平田庄荘官請文」に高田為益がみえている。ついで同二十一年の『興福寺日次記』に「高田状」があり、「為清」の名がみえる。この文書は多武峯寺と宇陀郡の沢氏の合戦に関して興福寺に制止させようとしたところ、それに応じて高田氏が出動したことを記したものである。高田氏は「為」の字を通字としていることから、為清は高田氏であることは間違いない。高田氏も乱世とは無縁ではいられなかったのである。また、室町時代の高田氏には、当麻高田氏、布施高田氏の両高田氏と曽我高田氏もいたことが知られている。
 大和の争乱に対して仲裁に乗り出した幕府は、応永二十一年(1414)、国人衆を上洛させると私闘をしない旨の誓約をさせた。そのときの和州国民交名のうちに、越智・十市・箸尾・布施・万歳氏らとともに高田氏もみえている。しかし、その後も争乱はおさまることはなく、正長二年(永享元年=1429)、豊田中坊と井戸某との間に争いが起った。興福寺と幕府は停戦を勧告したが戦いは一向におさらまず、豊田中坊には越智氏が、井戸某には筒井氏がそれぞれ味方して、抗争は大和全体に広がっていった。
 かくして、大和は永享の乱とよばれる抗争時代を迎えたのである。この動乱の大和において、高田氏がどのように行動したのかはよく知られないが、筒井氏に与して行動していたようだ。大和擾乱に対して幕府は討伐軍を送り、各地で戦いが展開された。そして、十一年にいたって越智維通が討たれたことで、十年におよんだ擾乱は終結した。しかし、大和はさらなる動乱の時代を迎えることになる。
●写真:若宮おん祭「お渡り式」に登場する、戦国時代の大和武士を彷佛させる甲冑武者。

大乱前夜

 大和永享の乱が終わって間もなくの嘉吉元年(1441)、専制政治を布いた将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に殺害されるという事件が起った。いわゆる嘉吉の変で、幕政は大きく動揺した。翌二年、筒井順弘と大乗院門跡経覚が持っていた摂津の河上五箇関務代官職を順弘の弟成身院光宣が奪ったことで、筒井氏に内訌が起った。翌年、幕府と結んだ経覚が代官職を奪還、筒井順弘と結ぶ大乗院門跡経覚と古市胤仙らに、光宣は弟の順永とともに対抗した。大和国衆は二派に分かれて抗争、経覚は鬼薗山(きおんざん)城を築き、同城をめぐる争乱となった。
 経覚方には越智・豊田、布施氏らが味方し、高田氏は光宣方に味方した。文安四年(1447) 高田城は布施氏に攻撃され、五重の木戸のうち四重まで落されたが、何とか撃退している。ときの高田氏の惣領は為秀であったようだが、曽我高田氏、布施高田氏らの存在も知られる。
 この大和争乱に、さらに新たな火種が加わった。それは、嘉吉の乱後、大和に勢力を伸ばしてきた幕府管領をつとめる河内守護畠山氏の内訌であった。すなわち、幕府管領畠山持国(徳本)の実子義就と養子弥三郎(病死後は弟の政長が継承)の対立が、家臣団を二分する抗争事件へと発展したのである。享徳四年(1455)、持国が死去したことで、内紛はさらに激化していった。この畠山氏の内訌に際して筒井氏は弥三郎派に、越智氏は義就派に与して、ふたたび大和は内乱状態となった。
 この畠山氏の内訌に、幕府将軍の後継問題が絡んだことで、事態はさらに渾沌としていった。かくして、応仁元年(1467)、政長が管領細川勝元を頼んで京都御霊神社に陣取ると、一方の義就は山名宗全を後楯として政長を攻撃した。この一戦を引き金に、応仁の乱が勃発したのである。大和では政長=細川勝元=東軍に筒井党、義就=山名宗全=西軍に越智党が味方して、抗争は泥沼のが一途をたどった。  
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当麻高田氏の故地を歩く





中世、平田荘荘官であった当麻高田為貞が築いた高田城は、子供たちの歓声が響く小学校のそばにあった。高田城址のすぐ隣には、高田為長が建立した常光寺があり、為長の五輪塔が遺されている。そもそも、高田氏は有井に城館を構え本拠としていたが、高田城を長男の為秀が継承、有井城は三男の為隆が受け継いだという。為隆の子の為綱は蓮如に帰依して城館を本願寺に寄進し正行寺とし、いまも正行寺は当麻高田氏の菩提寺として続き、境内の墓地には当麻氏一族の墓が林立している。また、有井は環濠集落としても知られ、正行寺を中心とした集落の周囲にはいまも環濠が取巻いている。

 応仁の乱中の文明三年(1471)、大和国内で国人衆の合戦がおこなわれた。その一環として布施播磨守が河内から軍を進めて万歳某を攻めたが、この合戦で布施方に「高田」、万歳方には「高田」が参加していた。つまり、高田氏は二派に分かれて敵対関係にあり、当麻高田氏の惣領は先の為秀であった。
 打ち続く抗争は、大和守護職たる興福寺の支配力を確実に低下させ、国人衆は越智方、筒井方の二派に分かれて抗争を繰り返しつつ、みずからの領主制形成を進めていった。そのようなかで、高田氏も自己の勢力拡大につとめたが、時に越智方、時に筒井方というようにその去就は一定しなかった。これは、その時々の惣領が二流のうちの当麻か布施かによって変わったことによるもので、当麻高田氏は越智方、布施高田氏は筒井方であったようだ。

止まるところのない争乱

 応仁の乱後の文明十一年(1479)、布施高田氏の当主が死去、当麻高田氏の惣領為長のもとに両高田氏は一体化したようだ。かくして、高田氏は越智党の有力者として活躍したが、その一方で、曽我高田氏が筒井方として行動している。応仁の乱は終熄したものの、両畠山氏の抗争は止むことなく、大和国衆を巻き込んで泥沼化していた。
 延徳二年(1491)、義就が死去すると子の義豊(基家)がそのあとを継いで政長方と対峙した。対する政長は、明応二年(1493)、将軍足利義稙を奉じて河内に出兵、義豊の拠る河内高屋城を攻撃した。ところが、政長と義稙が京を留守にした間隙を突いて細川政元がクーデターを敢行、義稙は捕えられ、敗れた政長は河内正覚寺で自刃、嫡男の尚順は紀州に逃走した。この明応の政変に際して、細川政元の謀略に一枚加わっていた越智家栄は、ただちに上洛すると幕政に参画した。ここに越智氏は全盛を迎え、高田為長は越智党の中心的存在として活躍した。しかし、明応九年に家栄が死去すると、筒井党が次第に勢力を回復していった。
 一方、打ち続く戦乱に疲れた国衆の間に和議の気運が高まり、ついに永正二年(1505)、筒井・越智・箸尾・十市・布施の五氏が春日社前において起請文を交し、和睦の誓いが固められた。つづいて「一両一疋衆」とよばれる国衆も連判したことで、大和国人一揆体制がなった。
 翌年、大和国衆は焼け落ちた安位寺再建の勧進に応じているが、そのなかに高田当次郎清房が署名している。当麻高田氏の代々は名乗りに「為」の字を用いていることから、当次郎清房は布施高田氏と考えられる。為長は文亀三年(1503)に死去したようで、高田氏では惣領の座をめぐる対立があり、布施高田清房が惣領になったと考えられる。おそらく、越智家栄の死をきっかけに高田氏は筒井党に姿勢を変え、為長の死をきっかけに筒井氏寄りであった布施高田氏の清房が惣領になったものであろう。

繰り返される他国衆の侵攻

 ともあれ大和国では国衆の一揆体制がなり、国衆は他国からの圧迫に協力して対応した。永正三年、畠山尚順を討とうとする細川政元が家臣の赤沢宗益を大和から河内に進攻させようと協力を求めたが、国衆はこれを断ったため宗益が侵攻してきた。ついで、翌四年には政元のあとを継いだ細川澄元が家臣の赤沢長経を大和に入部させてきた。大和国衆はこれにも団結して対抗したが敗れ、筒井・十市氏らは高田・万歳両城で体制を調えようとしたがならず宇智郡に逃走した。筒井氏が高田氏をたのみ、高田氏もそれに応えていることがうかがわれる。
 その後、細川氏と畠山氏の抗争のなかで大和は他国衆の侵攻が続き、享禄元年(1528)より三年まで柳本賢治が侵攻、天文元年(1532)には一向一揆、ついで天文五年には畠山氏の被官であった木沢長政が信貴山・二上山に城を築いて大和経略を開始した。幕府管領である細川晴元を後楯とした長政は、大和守護としてふるまい、大和国衆にとって大きな脅威となった。天文十一年、長政が河内において戦死すると、筒井順昭が次第に勢力を拡大、越智党との間で戦いが繰り返されるようになり、大和国衆一揆は瓦解した。
 天文十四年、越智家頼が死去すると、翌十五年、筒井順昭は越智氏の居城貝吹山城を攻撃した。この陣に高田氏も従軍、筒井党の一員として活躍している。こうして筒井順昭の威勢は大和一国を覆うようになった。天文十九年、高田氏が万歳氏と争うと、順昭は高田氏を応援して出陣すると万歳郷を焼き払った。このころの高田氏の惣領は「三界万霊塔」を建立したとされる為成で、当麻高田氏の出自であった。
 幕府重臣である畠山氏、細川氏らが内訌で勢力を失うなかで、細川氏の被官であった三好長慶が権力を掌握、永禄二年(1559)、松永久秀を大和に入部させた。以後、大和は久秀の侵攻に翻弄されることになる。筒井氏全盛を築き上げた順昭はすでに死去し若年の順慶が、叔父順政の補佐を受けて筒井氏の家督にあった。久秀は筒井氏を攻め、続いて万歳・沢城を攻略した。四年には多聞山城を築き、着々と大和支配体制を確立していった。そのような永禄七年、堺に逃れていた筒井順政が死去、翌八年、久秀の攻撃を受けた順慶は筒井城より布施城に出奔した。
 かくして、十市・箸尾・岡氏らが久秀方に走り、高田氏も筒井氏との関係をたって久秀の配下に入った。その後、長慶が死去すると三好氏は久秀と三人衆とに分かれて、内紛状態となった。三人衆は筒井順慶と結び、久秀は畠山氏と結んで、両者は河内・和泉・大和において戦いを繰り返した。永禄十年、大仏殿に立て籠った三人衆を攻めた久秀は、大仏殿を焼き払うという暴挙を行った。その後、劣勢に追い込まれた久秀は、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に通じ、信長を後楯として大和の経略を再開した。

乱世の終焉

 この間、高田氏は筒井氏に与する布施氏と抗争を続け、永禄十一年当時、高田氏は布施氏に城を攻囲されていた。高田城は布施氏によって二重の堀をめぐらされ、蟻のはい出る隙もない形で四年にわたって封鎖攻めを受けていたのである。その包囲陣を解いてくれたのは信長の支援をえた松永勢であり、為成は礼のため多聞山城に赴いている。
 その後も、高田氏は布施氏と抗争を続け、元亀二年(1571)、高田出城が布施氏に攻められた。ところが、同年、松永久秀は武田信玄に通じて信長に謀叛を起そうとしたが、天正元年(1573)にはふたたび信長の配下にもどり大和支配を任されている。筒井順慶ら大和国衆は久秀との抗争を続ける一方で、信長への接近を図っていた。やがて高田氏は久秀のもとを離れて筒井氏に接近、天正二年、高田氏は筒井順慶とともに上洛、織田信長に面会した。しかし、高田氏は岡・箸尾両氏とともに信長が要求する人質を出さないまま帰っている。
 その後、順慶は次第に久秀を圧倒し、天正四年には織田信長から大和の支配を任されるに至った。翌年、ふたたび信長に謀叛を起した久秀は、十月、信長軍に攻められ信貴山城において爆死した。以来、順慶の大和一円支配が進められ、天正八年、信長は国衆の城砦の破却と所領高の指し出しを命じた。ここに至って、大和一国は信長の支配下に入り、大和の中世は終焉を迎えたといえよう。ちなみに、『多聞院日記』によれば、ときの高田氏の知行高は三千石であったことがわかる。つづいて、信長は戒重・岡・大仏供・高田氏に生害を命じ、高田藤七郎は奈良の中坊において自害した。高田氏の在所には筒井順慶が赴き、所領没収などの始末を行った。ここに高田氏は没落し、残った一族は離散の運命となった。
 それから二年後の天正十年、本能寺の変が起り、信長は明智光秀の謀叛によって死去した。翌年、高田三河守が春日社に石灯籠を寄進していることから、高田氏が旧領に還り住んでいたことが知られる。この高田氏は不明であるが、おそらく当麻高田氏の為業と推測されている。同年、筒井順慶から招かれた為業は、謀計であろうとみて熊野に落ちのびて時期を待とうとした。しかし、熊野衆から受け容れられず、却って攻められ、一戦を交えて終わったと伝える。
 天正十三年、為業の子とされる為政が郡山城主となった羽柴秀長に召され、森・堀江・山本の三人を供として城下に参着したところ「お手討」と伝えられたので自害して果てた。供の三人は高田に帰ったというが不詳。一説に、自害したのは為政の子為成とするものもある。いずれにしろ、こうして当麻高田氏の嫡流は断絶、大和武士としての歴史に幕を降ろした。・2007年11月06日


●当麻氏の家紋、考察

 当麻高田氏の家紋は「菊一文字」、替紋として「丸に卍」を用いたという。『北葛城郡史』の当麻氏の項に拠れば、壬申の乱において当麻氏は大海人皇子(天武天皇)に味方して活躍、乱後、菊紋を賜った。その後、天皇家が菊花を紋章としたことから、畏れおおしとして一文字を加えたのだという。さらに、「丸に卍」も用いるようになったと記述されている。そもそも「菊花」は平安時代の初めに中国から伝来した植物であり、壬申の乱当時の日本には生じていなかった。さらに、皇室が「菊」を紋章として用いるようになったのは、鎌倉時代はじめの後鳥羽上皇が菊花を愛したことによる。これらのことから当麻氏の家紋伝承は、そのままには受け取れないものである。おそらく、「勝つ」「一番」に通じて武士が尊んだ「一文字」を家紋として用い、のちに当麻氏のだれかが菊花を併せて「菊一文字」紋へと変化していったものであろう。さらに、呪術性の強い「卍」も家の標として用いるようになったのではないだろうか。
 当麻高田氏が用いた家紋「菊一文字」の意匠は、高田為長が建立した常光寺の瓦、為綱が起した有井の正行寺の墓地にある「当麻廟」に刻まれた紋から知られる。ところが、正行寺の墓地に数多建立されている当麻氏の家紋をみると、そのほとんどが「片喰」紋であった。いつのころに、「菊一文字」から変化したのであろう。



■左から、丸に卍・菊に一文字・剣片喰

参考資料:大和高田市史/当麻町史/奈良県史・大和武士 ほか】

■参考略系図
用明天皇を祖とする系図を掲載したが、初期における代々の諱が当時における名前のありかたとして不審なものであり、祖を皇室に仮冒した結果であろう。  


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