菖蒲佐々木氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流) |
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佐々木氏は宇多天皇の後裔で、源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれる。佐々木秀義は平治の乱に源義朝に属したが、義朝が敗れたことで秀義は世を隠れて関東の地に雌伏した。その後、源頼朝の旗揚げに際して息子たちとともに馳せ参じ、佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府成立後、各地の守護職に補されて一大勢力を築きあげたのである。
かくして佐々木氏は日本全国に繁衍し、宗家は近江を本拠として六角氏と京極氏に分かれた。戦国時代、古河公方の奉公衆の一人で武蔵国菖蒲城に拠った佐々木氏がいた。
菖蒲佐々木氏の発祥
伝えられ伝説によれば、応永二年の末(139ごろ)、佐々木六角氏頼の四人の息子たちが武者修行のために関東に下り、武功をもって運を開いたものを主人として他の兄弟はその家臣となることを約束しあった。この四人の兄弟とは満高・満経・宣綱・昭綱で、それぞれ、金田・大塚・千代・坂巻に住んで、その土地の名を名字にした。そして、金田満高の家系が主家となって、満高の子友綱は応永二十六年(1419)に太田荘須賀郷へ移り、さらにのち除堀村波寄に住んだ。友綱の子則綱は康正二年(1456)菖蒲新堀に城を築き、付近の十二郷を支配するようになった。この友綱が、のちに古河公方に仕えて活躍する菖蒲佐々木氏の祖となった。
しかし、この話はそのままに信じることはできない。乱世とはいえ近江の守護大名である六角氏頼の子息が、四人揃って武者修行に関東に下向し、そのまま土着して領主になったということは考えられない。佐々木氏系図を見ると六角氏頼には数人の男子があり、満高は氏頼の嫡子として六角氏の家督を継いおり、満経・宣綱・昭綱の名は系図上には記されていない。加えて、四人の兄弟の約束の件も、のちに後北条氏の祖となった伊勢新九郎の出世譚と同様の類型的なものである。いずれにしろ、菖蒲佐々木氏のはじめについては不詳というしかない。
南北朝期の武士の動向を見てみると南朝・北朝に分かれた家も多く、足利氏に仕えた武士においては京都の幕府と関東の鎌倉府とに一族が分かれて属している例が多い。このことから、おそらく佐々木氏も、一族から鎌倉府に出仕した者がいたと思われる。伝説のいう武者修行のことは、鎌倉府奉公衆佐々木氏が太田荘へ下向したときのことを伝えたものであろう。
関東の戦乱は鎌倉府の公方足利氏と管領上杉氏の対立から始まり、戦乱のなかで鎌倉は廃墟と化し、公方は下総古河に移り古河公方と称されるようになった。菖蒲佐々木氏もはじめから菖蒲に住んでいたのではなく、はじめは別の所(おそらく鎌倉付近)に本拠を置いていたと考えられる。そして、佐々木氏の太田荘入部は鎌倉府の御料所支配の一環として入部したものと考えられ、公方と管領の抗争が繰り返されるようになると、菖蒲城を築いて上杉方に対する公方方の最前線の任を担うようになったのであろう。
佐々木氏と戦国時代
菖蒲佐々木氏の戦国期の当主は、定綱・頼綱・秀綱の三代で、定綱は古河公方足利高基に仕えていた。そして、高基のもとでかなり重要な地位にあったようだ。高基、定綱の時代は小田原の北条氏綱が武蔵に進出し、大永五年(1525)、氏綱が越後の長尾為景に送った書状には「金田拘え候菖蒲要害へ、御連枝四郎殿御取り懸り候」という一文がみえる。ここに金田と呼ばれているのは、菖蒲城主佐々木定綱のことであり、このころ、足利高基と山内上杉氏は対立中であり、そのため高基の家臣である佐々木定綱の居城が、上杉憲広(四郎殿)に攻撃されたのである。
この戦いにおいて定綱は渋江三郎に救援を求め、三郎はさっそく氏綱へ援軍派遣要請をしたため、弓隊二百人が菖蒲城の救援に向った。古河公方高基は後北条氏との協調路線にあり、定綱も少なからぬ後北条氏からの影響を受けていたようだ。
他方、高基の後北条協調路線に対して弟の義明・基頼らは反後北条氏の立場をとり、ついに天文六年(1537)房総の里見氏に擁立されて下総小弓に移り小弓御所と称されるようになった。このとき、佐々木定綱は常陸の鹿島氏らとともに義明に従った。定綱は次第に強まる公方家に対する後北条氏の圧迫に危機感をつのらせ、ついには高基と袂を分かったようだ。
そして翌七年十月、下総国府台で足利義明・里見義堯らの連合軍と北条氏綱・氏康父子の軍勢とが激突した。戦いは後北条氏の勝利に終わり、義明・基頼の兄弟は戦死した。この戦いに定綱は義明に従ったが、敗戦とともに菖蒲城に逃げ帰った。そして、高基のもとに帰参し、家督を頼綱に譲って一線から身をひいたようだ。そして、頼綱の代になると定綱が高基のもとで果たしたような重要な役割はまわってくることはなかった。かくして、菖蒲佐々木氏は古河公方家中における政治的地位を後退させたのである。
後北条氏に属す
天文二十一年(1552)、足利義氏が北条氏康に擁立されて古河公方となると、佐々木頼綱は一貫して義氏に従った。永禄三年(1560)、関東に出陣してきた長尾景虎(上杉謙信)が古河公方に足利藤氏をかつぎ出したが、頼綱が藤氏・謙信に属した形跡はまったくない。そのことは謙信が作成した『関東幕注文』に、菖蒲佐々木氏の幕紋が記されていないことからもうかがわれる。逆に、頼綱は後北条氏の麾下として永禄七年には、武州笠羽田五百貫の地を拝領している。
このように、菖蒲佐々木氏は公方義氏を通じて後北条氏の家臣に準じるような立場に置かれていった。その結果、菖蒲城は上杉謙信の攻撃にさらされることになった。天正二年(1574)、謙信が関宿合戦(第三次)に際して後北条方の武蔵の諸城に攻撃を加えたとき、菖蒲城は騎西城・岩付城などとともに徹底的に放火されている。このときの菖蒲城主は頼綱の嫡子秀綱であったようだ。この天正二年の関東出兵を最後に、謙信が関東に出陣してくることはなかった。
天正六年正月、秀綱は公方義氏に恒例の年頭の挨拶に行っている。このように秀綱は、後北条氏との関係を深めながらも、古河公方の家臣としての立場を守り、義氏との関係を維持していたのであった。しかし、天正十年、公方義氏が死去したことで古河公方家は実質的に断絶した。ここに至って佐々木氏も後北条氏の家臣に位置付けられることになり、天正十八年の小田原の役の結果、後北条氏とともに没落の運命となった。・2007年04月24日
【参考資料:鷺宮市史/菖蒲町の歴史と文化財 ほか】
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