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鷲見氏
●丸に剣菱
●藤原北家魚名流
・郡上郡高鷲村村史に鷲見氏の家紋は「丸に剣菱」とある。姓氏苗字事典鷲見氏の項には桔梗とみえる。
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美濃国郡上郡の地頭といて活躍したのが鷲見氏である。鷲見氏は藤原北家の祖である藤原房前の子魚名の家系から出た頼保に始まる。伝えによれば、美濃の山間に大鷲の住むことが天聴に達し、頼保は命を奉じて郡上郡雲ケ嶽において大鷲二羽を退治した。これにより朝廷から賞として鷲見姓を許され、美濃国芥見荘鷲見郷を永代下賜されたという。
頼保の子郡上太郎重保は父の所領を相伝したが、建仁二年(1202)父に先だって没し、その子家保が継いで郡上三郎と称した。
承久三年(1221)承久の乱が起こり、同乱は幕府方・朝廷方双方の勢力が、ほぼ美濃・尾張を境とし、それより西は主として朝廷方にしたがい、東は幕府軍に属した。美濃国内でも西濃は朝廷、東濃は遠山氏が幕府へ味方するなど、複雑な動きをみせたが、大局的には西軍が多かったようだ。こうした形勢のなかで、郡上鷲見三郎家保は幕府方に従軍した。その論功により家保は地頭職を安堵された。
勢力を拡張する
以後、鷲見氏は家保から忠保に至るまで、高鷲村向鷲見を根拠地とし、大鷲を中心として西南は白鳥の前谷まで、東は阿多岐・中西あたりまでをその支配領域としていた。
鎌倉幕府が滅び、南北朝時代になると、鷲見氏はおおむね美濃の土岐氏とともに、足利方となって南朝方と戦った。当時の鷲見氏の所領は、鷲見郷八ケ村に東前谷、越前穴馬の一部、牛道郷の一部に及び、その威勢は近隣に響いていた。南北朝時代が鷲見氏の最も活躍した時期で、それは忠保・保憲兄弟のときであった。忠保の子干保は禅峰・加賀丸論人とも称した。
観応三年(1352)三月二十六日、禅峰は尾張大山寺合戦に功を立て、同月二十九日、熱田宮口の合戦にも奮闘した。六月、吉良治部大夫、石塔・原・蜂屋・宇都宮・参河三郎らが押し寄せてきたので、長森に出撃し敵を郡戸に追い落した。文和元年(1352)伊勢国に従軍し、阿波坂・同中村口の合戦で戦功を立てた。
美濃国守護土岐頼康の死後、世継問題で一族の間に争いが起こった。幕府は頼康の養子康行をしりぞけて、同族の頼益に守護職を継がせたが、康行はこれを不服として兵を挙げたので、幕府は禅峰に康行を討たせた。禅峰は頼益とともに池田郡小島で激戦し、康行を降参させた。応永二十二年(1415)管領細川満元は禅峰に対し、北畠満雅退治には守護に属して近く発向するように命じている。
以上のように、勇武にすぐれた鷲見禅峰の活躍ぶりは、幕府からも期待を寄せられていた。まさに禅峰は鷲見氏代々のなかで、特に傑出した武将であった。禅峰一代の間は鷲見氏の全盛時代であったが、禅峰の死後、鷲見氏は漸次衰えを見せ始める。
美濃の乱世
天文十年(1541)篠脇城主東常慶は、阿千葉城の鷲見貞保を攻め滅ぼそうと軍勢を集めた。鷲見方も兵を集め、両軍激戦となったが、鷲見氏はついに敗れ貞保は幼子千代丸を老臣餌取広綱に託して落ちさせ、自殺した。
成人した千代丸は兵助と名乗り、永禄二年(1559)のころ、家臣広綱とともに織田信長に家の再興を願い出た。信長は時の郡上八幡城主遠藤盛数に使者をやってこれを保護させた。盛数は兵助と広綱を郡上へ招き、大嶋村を所領させて、大島村地頭鷲見兵助藤原正保と名乗らせた。これが大島村鷲見氏の祖であるという。
鷲見氏は美濃北辺の雄として鷲見郷八ケ村および近辺を領有し、長良川下流流域方面にも活躍した。鷲見禅峰の孫行保の二男保重(直重)は、文明のころ美濃守護土岐成頼の部将として、弟新左衛門とともに各地に転戦し、山県軍北野その他において領地を得、北野城を居城とした。保重は永正七年(1510)斎藤利良と不和になり、斎藤氏は北野城に攻めよせ、保重は寡兵よく戦ったが、敗れて自刃して果てた。このとき、殉死者十三人に及んだという。
土岐政房は、保重の子美作守保定を北野城主とした。斎藤利良は、永正十四年(1517)土岐政房・頼芸を除こうとして、土岐政頼を擁して兵を挙げ合戦に及んだ。保定は政房方として出陣し、山県郡赤尾で討死した。翌年八月土岐政房は、斎藤利良・政頼軍に大勝し、政房は保重の二男直保を北野城主とした。
以後、直保は三十年にわたり政房、ついで頼芸に仕えた。天文十六年(1547)十一月、斎藤道三が大挙して大桑城に頼芸を攻めたとき、直保は一族を引き連れて大桑城に入り、頼芸のために奮戦したがついに討死した。
鷲見氏の最期
天文二十年(1551)三月、直保の従弟鷲見新藤治忠直が鷲見家を継ぎ、北野城に入った。忠直は一時山県郡木田に住んだが、斎藤道三に迎えられて北野城に還ったのであった。斎藤道三とその子の義竜が戦った「弘治の乱」の時、道三は一時北野城に籠ったが、のちに城を出て長良川辺で戦い討死した。このとき忠直もまた討死した。鷲見直保の弟保光はこの戦に際しては義竜に従って稲葉山城に在った。
義竜の死後は竜興に仕えて美作守を称したが、永禄十年(1567)八月、稲葉山城は信長に落され、斎藤竜興は長島に退去し、保光および一族は、郡上に帰っていった。こうして、中世領主としての鷲見氏の歴史は幕を閉じたのである。・2005年03月22日
【参考資料:高鷲村史/白鳥町史 など】
■参考略系図
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