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渋川氏
●二つ引両
●清和源氏足利氏流
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渋川氏は清和源氏足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まるという。元弘から建武の内乱期において、渋川一族は足利尊氏に従って活躍した。
建武二年(1335)、信濃に匿われていた北条高時の遺児北条時行がに挙兵、時行軍は信濃守護小笠原貞宗の軍を撃破、破竹の勢いで関東へ進攻した。上野国に入った時行軍を岩松経家が阻止したが敗れ、鎌倉より派遣された渋川義季とともに女影原(おなかげはら)で迎え撃ったがふたたび敗れ、渋川義季は岩松経家とともに自害した。ときに二十二歳の若武者であった。
これが「中先代の乱」で、京都にいた尊氏は後醍醐天皇の許しを得ないまま関東に下り、時行軍を破ると鎌倉に居坐り、ついには後醍醐天皇に叛旗を翻すに至った。その後、義李の娘の幸子は二代将軍足利義詮の公室に迎えられ、渋川一族は室町幕府の中で重用された。
渋川義李の孫である義行は、正平二十年(1365)、斯波氏経の後任として九州探題に抜擢された。このとき、義行は十八歳の若武者であった。義行の抜擢には伯母で二代将軍の公室である幸子、高師直の女であった母の存在が大きかったようだ。 幕府も備中・備後の守護職などを与えるなど、義行の九州探題任命に際して一応の支援を行っている。
このころの九州では、征西宮懐良親王を菊池武光が支え、南朝方の勢力が幕府方を圧倒していた。 備後国に下向した義行は、九州への下向に備えたが、ついに九州には足を一歩もを踏み入れることはできなかった。五年後には九州探題を解任され、むなしく京都に帰ると出家し、二十八歳の若さで没したといわれる。幕府は義行の後任の九州探題に今川貞世(了俊)を任命した。
九州探題、渋川氏
九州探題となった今川了俊は、当時の京都における著名な文人であった。同時に政略を備えた武人であり、一族・被官と連携して、九州に下向すると征西宮懐良親王と菊池氏を太宰府から追放した。九州三人衆と称された島津・大友・少弐氏のうち島津氏久と大友親世は了俊に協力的であったが、少弐冬資は非協力であった。そのため、了俊は水島の陣において謀略をもって冬資を殺害してしまった。このとき、冬資の水島参陣に骨を折った島津氏久は、了俊に不信感を抱き袂を分かった。
島津氏の離反はあったものの、了俊の卓抜した政治手腕と武略によって、九州の南朝勢力は衰退していった。了俊は九州南朝方の平定に尽力しながら倭寇の取り締まりも行い、朝鮮の信頼を得て交易を開拓した。かくして、今川了俊は、約二十五年間にわたり九州で活動、幕府の威光を示しながら独自の権勢を築いていった。
やがて、将軍義満が了俊の存在に警戒心を抱くようになり、応永二年(1395)、了俊は九州探題職を解任されると京都に召還された。了俊の後任の九州探題には、渋川義行の子の満頼が任じられた。
ところで、九州探題の存在と活動は、少弐・大友・島津氏ら九州の諸勢力にとって決して喜ばしいものではなかった。とくに、鎌倉時代より筑前に勢力を維持し、太宰府とも深い関係にあった少弐氏と九州探題との利害はぶつからざるを得なかった。さらに、冬資が謀殺されたのちの少弐氏は了俊を不具載天の敵として対立、新探題として九州に下ってきた渋川氏にも敵対したのであった。九州探題渋川氏のその後の衰退は、この少弐氏との宿命的ともいえる抗争が要因となったのである。
■九州探題歴代表
氏 名 |
号・続柄 |
就職年 |
一色 範氏 | 道猷 | 建武三年(1336) |
一色 直氏 | 範氏の子 | 貞和三年(1347) |
足利 直冬 | 尊氏の子・直義の養子 | 観応二年(1351) |
斯波 氏経 | - | 正平十六年(1361) |
渋川 義行 | - | 正平二十年(1365) |
今川 貞世 | 了俊 | 応安四年(1371) |
渋川 満頼 | 道鎮、肥前守護 | 応永三年(1396) |
渋川 義俊 | 満頼の甥、肥前守護 | 応安二十五年(1418) |
渋川 満直 | 満直の子、肥前守護、綾部在城 | 正長元年(1428) |
渋川 教直 | 肥前守護 | 永享六年(1434) |
渋川 政教 | - | 延徳二年(1490) |
渋川 尹繁 | 肥前守護、園部在城 | 明応九年(1500) |
渋川 義長 | - | 永正元年(1504) |
・九州戦国史/守護・戦国大名事典から作成。
渋川満頼は凡庸な人物だったようで、満頼の活動をかげから支えたのは中国地方の有力大名大内氏であった。とはいえ、九州に赴任した満頼は、筑前御牧郡の幕府御料所の一部を探題領としたほか、筑前・肥前地域を抑えた。そして、承天寺や宗像大社との関係を深め、博多商人の経済力を基にして朝鮮との交易を頻繁に行った。一方で、満頼は大内氏と連合して、豊前猪岳、同赤池興国寺、筑前八田、恵通寺、宗像などで少弐氏との抗争を繰り返した。
渋川氏の苦闘
満頼は応永二十二年(1415)ごろ肥前守護も兼帯するようになり、満頼は子の氏重や被官の吉見氏、戸賀崎氏らをもって少弐・千葉氏への対策を講じた。やがて、応永二十五年(1418)、探題職を嫡子の義俊に譲ったようだ。翌二十六年、李氏朝鮮の正規軍が倭寇基地を掃討することを名目に対馬に攻めてきた「応永の外寇」が起こり、このとき対馬守護は少弐満貞であった。翌年、戦後交渉が行われたとき、満頼・義俊父子は博多にやってきた李氏の使節と会ったことが朝鮮側の資料に残っている。渋川氏と違って、少弐満貞は李氏に対して強硬姿勢をとっていた。
応永三十年、義俊は博多において少弐満貞と戦ったが、敗れて博多を追い出されてしまった。これに対して幕府は筑前を直轄領とし、大内氏をその代官に命じた。ここに大内氏は晴れて九州介入の名目をえ、少弐氏は大友氏と結んでそれに抵抗した。博多を追われ肥前国に逃れたた義俊は、大内氏をたのんで再起を企てた。
義俊は肥前守護に任じられたものの、実態は東肥前の一勢力に過ぎなかった。正長元年(1428)、義俊は従兄弟の満直に九州探題職を譲り、満直は肥前守護に任じられた。しかし、満直は大内氏の傀儡に過ぎず、実権はなかった。そして、大内氏の支援を頼りに少弐氏と対立を続けたが、永享六年(1434)、横岳頼房に攻撃され肥前国神埼郡で戦死した。
かくして、九州探題渋川氏の権威はまったく失墜し、渋川氏は東肥地方の一領主として大内氏の麾下になりさがった。とはいえ、名目的ながらも九州探題職を世襲し、断続敵ながら肥前守護職に任じられた。満直のあと教直が継ぎ、享徳三年(1454)、教直は少弐教頼と肥前巨勢庄で戦い交えている。教直のあとは、政実・万寿丸・尹繁と継承されていった。
乱世に呑みこまれる
応仁元年(1467)に起った「応仁の乱」を経て世の中が戦国時代になると、渋川一族は大内方の勢力として、みずからの所領を守るばかりとなった。教直の子の万寿丸は少弐政資に綾部城を攻められ、筑前亀尾城に逃れた。そして、長享元年(1484)、家臣によって暗殺されてしまった。万寿丸のあとは刀禰王丸(尹繁)が継いだが、少弐政資は筑紫満門・馬場経周らに命じてこれを攻撃、刀禰王丸は筑後に出奔した。
少弐政資は肥前守護に任じられ勢力を回復したが、大内義興の攻勢に敗れ明応六年(1497)に自刃し、以後少弐氏の勢力も急速に衰えていった。尹繁は明応五年に肥前守護職に任じられたようだが、もとより名目的存在に過ぎず、義興は千葉興常を肥前守護代に任じて肥前の実質支配を行った。
政資が死んだとき、その子資元は九歳の少年であったが、一族や譜代の家臣に守られて成長すると、大友氏の支援も得て勢力を回復した。資元は大内氏に与する勝尾城の尹繁と園部城の義長父子を攻め、敗れた尹繁・義長父子は筑前に逃れた。以後、大内氏と少弐氏との戦いが繰り返されたが、少弐氏麾下の龍造寺家兼の活躍で少弐氏が優勢であった。
天文二年(1533)、少弐資元は大友勢と結んで太宰府に乱入した。これを聞いた大内義隆は陶興房を大将とする大軍を送り、興房は杉興運と合流して、少弐・大友連合軍を破ると太宰府から追い落した。さらに、筑前の諸城を攻略し、原田・秋月・宗像らの諸氏は大内勢に馳せ参じた。同年末には、最後まで抵抗していた少弐一族の筑紫惟門も大内勢に降った。この間、尹繁と義長の父子は少弐資元に与したため、翌年正月、大内勢に綾部、朝日山城を攻められ尹繁と義長はそれぞれ戦死した。
ここに、九州探題として約百四十年にわたって存続した渋川氏は滅亡した。その存在は大内氏の北九州進出の野心に利用され、少弐氏との宿命の戦いに翻弄された。なによりも、優れた当主に恵まれなかったことが、渋川氏滅亡の最大の原因であったろう。
余談ながら
渋川氏の没落によって、肥前国は本格的な戦国時代となり、龍造寺氏や鍋島氏らの戦国武将が続々と登場してくることになる。九州探題渋川氏の子孫は、近世大名鍋島氏・大村氏の家臣として仕えたことが知られている。なかでも氏重の子孫は加々良氏を称して後藤氏に属し、戦国末期に後藤純明の子兼明を養子に迎えている。
他方、備後に残った渋川氏の流れは備後の有力者宮氏との関係を深め、戦国時代になると、尼子氏に従って出陣したこともあった。また、関東にも渋川氏一族は存在し、蕨城によって戦国時代に至り、永禄十年(1567)上総国三舟山の合戦で渋川某が戦死したことが知られる。・2005年3月15日
【参考資料:九州戦国史/守護・戦国大名事典/戦国九州軍記 など】
■参考略系図
・尊卑分脈、群書類従系図部集、北方町史などから作成。
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