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佐々氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
隅立四つ目の他に棕櫚十三葉があり、
そちらを主に使用していたとの情報
を神保越中守からいただきました。


 佐々氏の出自については二説がある。ひとつは佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したというもの。これによれば源姓で、同じ佐々木末流とするものでも、佐々木信綱の三男泰綱の子頼起がはじめて佐々氏を称したという説もあり、いずれも確定的とは言い難い。
 もうひとつの説は、菅原姓であり、近江国余呉庄を出身地とするもので、成政の父盛政のときに三河こ挙母城主だったというものである。しかし、一般的には前説、すなわち、上総国佐々庄を出身地とする佐々氏が尾張に移り住んで、織田氏の家臣になったものと考えられている。

佐々成政の転変

 佐々氏は成政の代になって、史上に名をとどめることになった。したがってそれ以前の系譜がはっきりしないことは無理のないところである。成政のころには、佐々氏は尾張国春日井郡比良村の在地領主であった。
 成政は信長に仕え、越前朝倉氏征伐、越前一向一揆討伐に功をあらわし、越前府中を与えられている。その後、天正九年(1581)越中一国を与えられて富山城に拠った。柴田勝家の与力として活動していたことから、天正十一年、勝家と秀吉が戦った賤ケ岳の合戦では、勝家側として戦い、敗れて秀吉に降っている。
 しかし、翌年、小牧の戦いでは織田信雄に味方しようとして、当時、浜松城にあった徳川家康に合流するために富山城を出発した。富山から浜松への道は、加賀を通り、越前・美濃へと抜けるか、越後に出て信濃を迂回するかのどちらかげある。だが、越後は秀吉に味方している上杉景勝の領地であり、加賀も前田利家の領地で、そうたやすく通れるものではなかった。残されたルートはただ一つ、立山連峰を越えて浜松を目指すことであった。
 ここに、史上有名な佐々成政のさらさら峠越えが始まるのである。しかし、その雪中行軍もまったくの徒労であった。すでに、信雄は秀吉と講和していたのである。成政は翌十三年(1585)、秀吉に攻められて降伏し、かろうじて越中の新川郡一郡を与えられた。
 天正十五年(1587)の秀吉の九州征伐に従い戦功をあげ、球磨・天草両郡を除く肥後一国が与えられた。しかし、入国早々厳しい検地を行ったことから、在地土豪ら国人の反抗を招き、隈府城の隈部親永をはじめとする国人の反抗を受け、一揆の蜂起となった。一揆は諸将の応援によって鎮圧できたが、その失政の責任を問われ、所領没収、翌十六年(1588)切腹を命じられた。子として信治・成治の子があったという。



■参考略系図
 


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