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周防内藤氏
●下り藤に内の字
●藤原氏北家道長流


 内藤氏の発祥に関しては藤原秀郷の子千時の四世の孫である頼俊の子行俊が、内舎人であったことから内藤検校と呼ばれ、その後内藤を称するようになったとおいう秀郷流内藤氏がある。一方、藤原道長の子頼高を祖とする、道長流の内藤氏がある。道長流の場合、頼高の曾孫盛遠が鳥羽上皇から内藤氏を賜ったというが、その理由や、当時の時代背景などからみて腑に落ちないものである。行俊が内舎人に任じられて、内舎人の藤原から内藤となったする秀郷流のほうが、起源説としては受け入れやすい。
 さて、内舎人行俊の曾孫盛家は源頼朝に仕えたといい、鳥羽院から内藤姓を賜ったという盛遠の孫盛家は鎌倉幕府の御家人となり、周防国遠石荘の地頭となっている。いずれも、盛家のときに鎌倉幕府に仕えたといい、それぞれの伝承には共通性が感じられる。おそらく、両系に出てくる盛家は同一人物であろう。
 『吾妻鏡』の文治三年(1187)の条に、北条時政が京都の治安維持のために御家人のうちの強者を残して警固にあたらせたことが記されている。そのなかに内藤四郎がおり、家人には右馬允知親、九郎盛国、権頭親家、左衛門尉盛家、七郎左衛門尉盛継、肥後六郎時景、豊後前司盛義らがいたとある。また、建久二年(1191)の条に、盛家が石清水八幡宮別当領であった同荘の神税を押領、神人と刃傷に及び、このため社家から訴えられたことが出ている。盛家の子盛時は内藤判官と称し、若年から鎌倉に出仕し、使節として上洛することが数度であったという。
 ここに出た盛家・盛継・盛時らは、秀郷流内藤氏、道長流内藤氏双方の系図に見える名乗りであり、これも両系内藤氏が一体であったことを想像させるのである。

大内氏の重臣に列す

 さて、周防国遠石荘の地頭となった盛家のあとは系図によれば、嫡男盛俊は承久の乱で戦死しており、弟の有盛の流れが周防の諸職を受け継いだようだ。
 そして、南北朝時代の観応・文和年間(1350〜55)ごろ、藤時は足利尊氏に従って、足利直冬方の大内弘世と戦った。そののち、藤時のあとは不明となり、別系である盛信の系が台頭してくる。そして、肥後守盛貞のとき、はじめて大内氏に属した。盛貞は大内盛見、持世に属して活躍、大内氏の勢力拡大に尽力し、長門国守護代に任じられた。以後、内藤氏は陶・杉氏に次ぐ大内氏三家老の地位を確立していった。
 永享三年(1431)、大内盛見は少弐氏と結んで筑前に進出を企てる大友氏を討つため出陣、この陣に盛貞の嫡男盛賀も加わった。盛見は大友氏の拠点である立花城を攻略し、終始優勢に戦いを展開し、さらに筑前の西部に進攻した。ところが、筑前深江において少弐氏の反撃を受け、まさかの敗死をとげてしまった。盛見の戦死は幕府にも衝撃を与え、その死は「名将犬死」と惜しまれた。このとき、盛賀も盛見とともに戦死をとげたのである。
 盛見の死後、大内氏では家督をめぐって持世と持盛の兄弟の争いが起こった。肥後入道盛貞は、盛見の意志として持世を家督にと願う上申書を幕府に提出し、幕府もこれを認めて持世に惣領職が認められた。一方の持盛には長門国ほかが安堵された。しかし、これに不満を抱いた持盛は従兄弟の満世と共謀し、さらに豊後の大友氏と結んで持世に反抗した。
 持盛らの攻勢に対して、持世はいったん石見に逃れ、国人らの支持を取り付けると周防に戻り持盛らを没落させた。さらに九州を平定して、大友・少弐氏らを追討した。かくして、持世は周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵され、大内氏の動揺も治まった。この間、内藤盛貞と次男の有定は終始持世に味方して、その体制確立に協力を惜しまなかった。
 室町幕府の守護は在京が原則であったため、持世も在京することが多かった。そのような嘉吉元年(1441)、将軍足利義教が播磨の守護赤松満祐に暗殺されるという「嘉吉の乱」が起こった。このとき、持世は義教に供奉して赤松邸にあって、重傷を負い、ほどなく死去してしまった。

相次ぐ戦乱

 持世の横死後、大内氏は教弘が継ぎ、文安四年(1447)、教弘は鷲頭弘忠に代えて内藤有貞を長門守護代とした。鷲頭弘忠は守護代としてよくつとめ、長門におけるその勢力と人望は高かった。教弘にすれば警戒すべきことであり、腹心の有貞を守護代に登用したものであろう。しかし、弘忠にすれば快いはずがなく両者の対立が深まり、翌年、教弘は弘忠を攻めてこれを討ちとった。以後、長門守護代は内藤氏の代々が世襲するところとなった。
 武盛のとき応仁の乱が勃発し、大内政弘は山名持豊に味方して上京、西軍の中心勢力として重きをなした。武盛の弟弘矩は政弘にしたがって在京、諸所の合戦に活躍した。政弘が京都に滞陣していた文明二年(1470)、政弘の伯父大内教幸(道頓)が東軍に通じて挙兵し、これに内藤武盛、仁保盛安、吉見・周布氏らが加担した。この乱に、京都滞陣中の諸将の間に動揺が走ったが、留守を守る陶弘護の活躍で乱は鎮圧され、翌年、教幸は滅亡した。乱ののちに帰国した弘矩は、陶弘護とともに政弘の留守をまもった。
 文明九年、十一年間にわたって続いた応仁の乱も終息し、山口に帰ってきた政弘は領国経営に専念するようになった。政弘は在京の間、公卿・禅僧・学者らと交わって教養を深め、戦乱をさけて山口に逃れてきた文人らを保護し、山口に大内文化を発展させたのである。
 文明十四年、大内政弘は山口を訪ねてきた津和野の城主吉見信頼を山口館で宴をもうけてもてなした。ところが、酒宴の席で陶弘護と吉見信頼が争い、弘護が信頼によって刺し殺されるという事件が起こった。信頼は道頓の乱において弘護と対立し、加えて累年にわたる陶・吉見の領地争いが最悪の結果となったものだが、その場に居合わせた弘矩は即座に信頼を討ちとり面目を立てている。
 明応三年(1494)、大内政弘の病が篤くなり、家督を義興に譲った。翌年、政弘が死去すると、弘矩は政弘の子高弘の擁立を画策したと陶武護から讒言され、嫡子弘和とともに誅伐されてしまった。ここに、内藤氏は一時挫折の憂き目をみることになったが、その後、弘春が豊前・筑前における軍功により内藤家を興し、長門国守護代に返り咲いた。

大内氏重鎮、興盛

 弘春のあとは興盛が継ぎ、文亀三年(1503)、長門守護代となり櫛崎城に入った。興盛は義興の嫡男義隆とは従兄弟の関係にあり、さらに孫娘は大内氏の重鎮陶興房の嫡男隆房の妻になっており、主家大内氏、陶氏とは強い結び付きをもっていた。
 永正四年、大内義興が前将軍足利義稙を奉じて上洛の陣を起こすと、興盛もこれに従い、同八年の船岡山合戦で戦功をたてた。その後、大永四年(1524)には安芸に出陣するなど、軍事面で活躍した。享禄元年(1528)、大内義興が死去し義隆が家督となると、軍評定衆をつとめた。天文九年(1540)安芸に出陣し、尼子軍の毛利氏の郡山城攻撃に際して、陶隆房とともに尼子軍を撃退した。同十一年には義隆の出雲遠征に従軍、翌十二年には尼子氏の拠る月山城、菅谷口に戦ったが敗北を喫している。
 このように興盛は義隆に従って各地に転戦したが、その一方で、義隆、陶氏らとの深い関係から、重臣たちの不満や要望を、興盛が代表して義隆に取り次ぐということもあったようだ。出雲の敗戦以後、義隆は文弱に走るようになり、大内家中は陶隆房を中心とする武断派と相良武任らの文治派とに分かれて対立が生じた。そのとき、興盛は義隆に御曹司(義尊)に家督を譲り隠居を勧めている。しかし、義隆はそれを拒否した。
 天文二十年(1551)、兵を挙げた隆房が山口に乱入したとき、義隆は自分の隠居を条件に和解の仲介を興盛に頼んだが、今度は興盛がこれを拒否している。江戸時代にはみることのできない、戦国時代ならではの主従関係がううかがえる挿話である。結局、義隆は自刃して滅亡したが、興盛は隆房に進んで加担することもなく中立を保った。一方、孫の隆世は陶隆房に従ったため家中は分裂してしまった。
 ところで、興盛の娘は毛利元就の嫡子隆元に嫁したが、隆元は興盛の思慮深さに敬愛の思いを寄せ、興盛も隆元の仁厚く礼節正しい人柄に好感を持ち、毛利氏に深い親しみを寄せたという。また、「源氏物語」を愛読し、家臣の勝間田盛治に「長門国守護代記」を編ませるなど、なかなか異色の武将であったようだ。

内藤氏のその後

 興盛は天文二十二年に死去したが、嫡男の隆時はすでに死去していたため、孫の隆世が家督を継ぎ長門守護代の地位にあった。隆世は陶隆房に加担して、主君義隆を殺害した陶体制の一翼を担った。隆房は豊後の大友義鎮の弟晴英を大内氏の家督に迎え、隆房はその一字を賜って晴賢と改めた。その後、晴英は将軍足利義輝から一字をもらって義長と改め実質的に大内氏を相続したが、陶晴賢が実権を握っていたことはいうまでもない。
 弘治元年(1555)、陶晴賢が厳島で毛利元就と戦って討たれると、防長両国は混乱をきわめた。飯田興房・二保隆慰らは隆世に毛利氏との和議を勧めたが従わず、あくまで義長を奉じて毛利氏への対抗姿勢を崩さなかった。しかし、次第に追い詰められ、ついに弘治三年義長に従って豊浦郡に逃れ、且山城で義長に殉じた。享年二十二歳の若武者であった。
 隆世の死で内藤氏の嫡流は滅亡したが、興盛の子で隆世の叔父にあたる隆春は、隆房が謀叛を起こすと毛利氏に通じて隆世とは袂を分かった。毛利氏にしても内藤氏の勢力を削ぐために、隆春に内藤氏の家督を継がし長門守護代に任じた。永禄元年(1558)には、元就・隆元父子から起請文を賜るなどの厚遇を受けた。ところが、元就死後の元亀三年(1572)、隆春を讒言するものがあり、輝元の誤解を解くために毛利氏への忠誠を誓う起請文を提出している。その背景には、毛利氏の外様に対する締め付けがあったものと思われる。
 天正末年(1591)の検地では、隆春は二千六百石の知行を得ていた。隆春は晩年周竹と号して大坂にあり、秀吉死後の中央情勢を国元に伝えるスパイ役をつとめた。家督は婿に迎えた宍戸元秀の次男元盛に譲り、慶長五年(1600)七月に死去した。慶長十九年、大坂の陣が起こると、元盛は毛利輝元の内命を受け、佐野道可と名乗って大坂城に入った。大坂落城のとき、徳川方に捉えられたが、一身を犠牲として全責任をとり自害した。その子元珍および一族は京都に召し出されて尋問を受けたが、答弁よろしきを得て帰国を許された。
 ところが、毛利氏は元珍らを幽閉し、因果を含めて切腹させ、所領の一万石は没収した。まことに酷い処置であったが、保身を図ろうとする毛利氏にすれば元珍をなきものにするしかなかったともいえよう。許された元珍の長男元宣は母方の志道姓を称して、その孫の代に内藤姓に復し、船木村・末益村八千三百七十石を与えられた。以後、子孫は毛利氏に仕えて明治維新に至った。・2005年4月6日

参考資料:厚狭郡史/名族大内氏の盛衰/毛利元就のすべて など】



■参考略系図


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