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信濃市河氏
●三つ巴
●滋野氏族/藤原姓?
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中世、奥信濃を領した国人領主に市河氏がいた。その本貫地は甲斐国市川屋敷とされ、建仁二年(1202)正月、源頼朝の御家人として市河五郎が中野四郎とともに弓始めの射手をつとめたことが『吾妻鏡』に記され、鎌倉初期には幕府の御家人として活躍していたことが知られる。ついで、寛元二年(1244)市河高光は妻が落合蔵人と密通したと訴えて敗訴し、信濃の船山郷のうち青沼を失い、名字の地である甲斐の市河屋敷も失った。そして、その後に本拠を船山郷に移したとみられている。
市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。
鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。
かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。
南北朝の争乱
鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。
建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。
その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。
助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。
やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。
大塔合戦
応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。
その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。
至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。
世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。
高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。
ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。
関東の戦乱
室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。
幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。
しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。
この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。
とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。
諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。
一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。
越後の争乱と市河氏
市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。
越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。
弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。
越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。
こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。
武田氏の信濃侵攻
ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。
天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。
武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。
天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。
ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。
武田氏に属す
このころ、市河氏はどうしていたのだろう。
市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。
武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。
一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。
景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。
その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。
時代の転換
元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。
一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。
さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。
本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。
戦国時代の終焉
織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。
本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。
徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。
明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日
【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】
■参考略系図
・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。
ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)〜建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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