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小山田氏
●立ち沢瀉
●桓武平氏秩父氏族
・『戦国大名370家出自総覧(新人物往来社刊)』の小山田氏の項には、「丸に対い沢瀉」とある。
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小山田氏は桓武平氏良文流秩父氏の一族で、坂東八平氏の筆頭とされる村岡次郎忠頼の後裔と伝えられる。すなわち、秩父庄司重弘の次男、小山田別当有重の子五郎行重に始まるとされている。元久二年(1205)六月の畠山氏滅亡事件に連座して没落、その後の消息は、「承久の乱(1221)」を記した『承久記』に小山田太郎の名が見えるばかりでほとんど知られなくなる。このため、武蔵から発祥した小山田氏が甲斐(郡内)小山田氏へどのようにつながっていくのかは明らかではない。
いずれにしても、源頼朝が幕府を開いたころには、すでに郡内に根をおろしていたことは間違いないようだ。そして、戦国時代になると、甲州都留郡の南部一帯に独自の領域支配を展開し、武田家臣団のなかにおいても河内領の穴山氏とならぶ独立性の強い政治的位置を占めていた。
郡内小山田氏の登場
郡内小山田氏が確実な史料にあらわれるのは、応永元年(1394)、小山田信澄が所領を寄進したことが『妙法寺記』に見えている。同書には、小山田弥太郎、小山田大和守、小山田越中守などが出てくるがのちの信有・信茂との関係や実名などは伝わっていない。とはいえ、郡内小山田氏の人物であったとみて間違いないだろう。
ついで、室町時代の関東の戦乱を記述した『鎌倉大草紙』に小山田氏が登場する。応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」に際して、甲斐守護の武田信満は禅秀方に参陣して鎌倉公方持氏の軍と戦った。信満は小山田弥二郎の娘を娶って嫡子刑部少輔信重をもうけており、弥二郎は信満に味方して出陣した。乱は禅秀方の敗北に終わり、武田信満・小山田弥二郎らは甲斐に逃げ帰った。
持氏は禅秀残党を討伐するため各地に兵を発したが、甲斐には上杉憲宗を将とする討伐軍を送った。小山田弥二郎は信満を援け、都留郡猿橋の要害に拠って追討軍を迎え撃ったが、敗れた信満は甲州都留郡木賊山で自害して果てた。このとき、弥二郎ら小山田一族も信満とともに自刃して果てた。小山田氏は大きな犠牲を払ったが、当時、小山田氏が甲斐守護武田氏と姻戚関係を結ぶほどの勢力を築き上げていたことが知られる。
明応八年(1489)には小山田信長が山梨郡塩山の向嶽庵に対し、郡内田原郷のうちの同庵領を還付したことが知られる。これは、甲斐守護武田信昌・信縄父子の抗争が、両者の和睦により鎮静したためであった。しかし、戦国初期の甲斐国では武田氏の内訌が激化しており、永正五年(1508)の武田信虎と叔父油川信恵との家督をめぐった合戦に、小山田弥太郎は信恵側に味方して討死した。ついで、同十二年の信虎と大井信達の抗争において、信虎方に加わった小山田大和守が討死している。
当時、小山田氏は武田氏に完全に帰服をしていなかったにもかかわらず、武田一族の内乱に巻き込まれて、手痛い犠牲を払っていた。甲斐と関東の出入り口にあたる郡内を支配下におく小山田氏にすれば、甲斐武田氏の動向はみずからの興亡にも関わることであり、おのずと武田氏の動きに影響さ受けざるをえなかったのである。
他方、系図などによれば小山田弥太郎信長は葛山氏の女を娶り、その姉妹を娶った北条早雲の次男と義兄弟となっている。このことは、小山田氏が郡内の領主として駿河・相模の勢力と結ぶことで、勢力拡大を進めていたことを示している。永正十七年(1520)、越中守信有は猿橋をかけるなど領内の整備を行い、郡内の大豪族として国中の武田氏、河内の穴山氏と並んで甲斐を三分する勢力を有していた。
・写真:岩殿山かがり火祭りのスナップ、立ち沢瀉紋が見える
武田氏との連携
永正末年(1520)ころ、甲斐国内の反対勢力を鎮圧した武田信虎は、小山田氏と姻戚関係を結ぶなどして戦国大名化への途を歩みはじめた。すなわち、信虎は妹を越中守の嫡男出羽守信有に嫁し、これをきっかけに小山田氏は武田氏と従属的親交を次第に強めていくようになる。
大永七年(1527)、信有は郡内中津森に居館を新築、天文二年(1533)には水論を裁くなど、領域の支配強化と郡内領主としての政治的立場を誇示している。これらのことは、武田氏と結んだとはいえ、依然として小山田氏が郡内で独自の支配権を有していたことをうかがわせている。
越中守信有のあとは出羽守信有が継いだ。天文十年(1541)、武田信虎が嫡子晴信(のちの信玄)らによって駿河国に追放されるという事件が起こった。これによって、晴信が戦国大名武田氏の当主となり、信濃経略を通して領土拡大戦を進展してゆくことになる。それとともに信有は武田氏の重臣として、晴信の部将的役割を担う軍事行動が多くなる。
天文十一年九月、晴信は先に滅ぼした諏訪頼重の遺子を擁して諏訪一族の高遠頼継を攻め、これを陥して諏訪郡を平定した。この戦に信有も従軍し、抜群の戦功によって晴信から感状を与えられた。ついで同十四年、信有は伊那郡福与城の藤沢頼親の攻略に際し、晴信の命を受けて和議の調停をはかった。
同十六年の佐久郡志賀城の笠原清繁攻めに出陣した信有は、被官仁科清八の勲功を賞した感状を晴信から与えられている。この志賀城攻めでは、武田軍が捕虜となった婦女子を競売にかけたことが知られ、信有は城将清繁の夫人を買い受け都留郡へ連れ帰っている。翌十七年二月、武田晴信は信州小県郡上田原で村上義清と戦い、宿老板垣信形を失う惨敗を喫した。同年八月佐久郡に進攻した武田軍に参加した信有は、佐久郡の反武田勢力の中心田口良能の拠る田口城を攻撃した。武田軍は良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、九月、ついに佐久郡を征圧し上田原の敗戦を盛り返した。
このように、信有は連年のように繰り返される晴信の信濃侵攻に従って、その尖兵となって目覚ましい活躍を示した。
武田氏麾下の重臣
信有は武将としての活躍も目覚ましかったが、その活動は都留郡内の領域支配にもおよんでおり、小山田氏の領域支配の特色は、領内に居住する富士浅間神社の御使衆の統制・保護にあった。御使とは浅間神社の神職で、居宅を宿坊として富士講の道者(富士登山者)に提供し、登山期以外は諸国の講中の家々をまわり歩き祈祷や神札・供物を配布する人々であり、かれらは多くの旦那を抱え富裕な財力を誇っていた。
小山田氏の御使衆の被官化とかれらへの保護は、経済面はもとより軍事面における諜報機関としての有効性も持っていたのである。また、相州鎌倉江の島の下之坊に対し、都留道者の江の島参詣の宿坊となるように要請したり、上吉田浅間社に年中行事や新宮・新神楽所造営の様相を注進するように命じている。これらのことは、信有が社寺参詣とその統制を通して、権力基盤の形成を企図したものであった。さらに、交通・商業政策へも意を尽くしている。
このように信有は独自な領域支配を行ったが、かつてのような郡内を基盤とする独立した領主という立場ではなく、武田分国の枠内からはみでるものではなかった。それは天文十八年(1549)、信有が武田晴信と相談して郡内に対して過料銭を賦課したため、人々が大いに困惑したということからも知られる。これは、小山田氏の財政不足を補う目的をもったものであったが、その実施には武田氏の承認を必要としたのである。小山田氏は郡内を領していたが、戦国大名武田氏の大名権力のもとに統制されていたのである。
また、天文十九年三月に行われた山梨郡大善寺勧進興行に際しては、信有は晴信から勧進奉行に命じられている。この勧進は戦時下でもあり、その費用捻出に武田氏は苦労した。奉行となった信有は有料の慈善事業を三日間にわたって府中で公演し、その売り上げをあてることを進言した。晴信の承諾を得た信有は、上方から巡業に来ていた保性(宝生)太夫・大蔵太夫両座の芸人・舞い子を引き連れて府中へ乗り込んだ。この興業は大成功に終わり、信有は得た収益金をそっくり晴信に寄進したという。これだけの芸人を集めて府中へ連れてくるだけでも大変なことであり、小山田氏の富裕のほどを示した逸話である。
しかし、信有の進退は武田氏の部将として軍事行動における指揮官的役割を担う立場から逸脱するものではなく、小山田氏は戦国大名未満とでもいうべき存在であった。
弥三郎信有の時代
信有は天文二十一年(1552)に没し、嫡男弥三郎信有(三代続けての同名)が家督を継いだが、信有は年少であり病弱な体質であった。さらに、郡内において小山田氏被官と地下人層の確執が起こるなどして、信有の郡内統制の不徹底さが露呈された。信玄は信有に郡内での被官関係の混乱を指摘し、その取締強化を命じた。結果、かつて「郡内守護」を誇示した小山田氏であったが、武田信玄の分国一円支配の推進と在地勢力の台頭に押されて、郡内領主としての独立性を失っていったのである。
郡内は甲斐と関東との出入り口にあたり、後北条・武田氏の対立抗争とからんで苦難の時代もあった。ことに、郡内地方の東方は相模・武蔵と、南西方は駿河との国境に接し、武田氏と後北条・今川勢力の接触地帯である郡内を領する小山田氏の立場は微妙であった。しかし、向背常ならない戦国時代において、小山田氏は終始武田氏の立場を貫いた。そのため、後北条氏の甲斐侵攻に際しては、しばしば矢面に立たされ甚大な損害を被った。
話は前後するが、享禄三年(1530)武田信虎は扇谷上杉朝興に味方し、北条氏綱攻撃のため小山田越中守信有以下の甲斐国人を都留郡猿橋において陣立てさせたが、氏綱との合戦で信有は敗退した。ついで、天文四年(1535)、北条氏綱は駿河の今川氏輝と結んで甲斐に乱入した。御殿場口から攻め込んだ後北条勢を迎え撃った小山田氏ら武田軍は激戦を展開し、都留郡全体が戦火に巻き込まれた。なんとか後北条軍を撃退することができたが、小山田弾正ら数百人が戦死するという惨澹たる結果となった。
このように武田氏と後北条氏が戦うたびに、郡内小山田氏は窮地に陥り、郡内各地に放火されるなどしてその被害は凄惨をきわめた。それが、天文二十三年(1553)、甲斐・駿河・相模の三国同盟が締結されたことで、郡内は後北条氏からの攻撃を回避することができたのである。以後、三国同盟が破れるまで、小山田氏は後北条氏と協力して長尾景虎(のちの上杉謙信)の関東侵攻に対抗した。
永禄四年(1561)、信有は景虎の小田原包囲にあって苦戦を続ける北条氏康の救援のために出陣した。また、弥三郎信有の時代は、信濃経略を進めていた信玄が、越後の長尾景虎と対決する時期にもあたっていた。信有は武田軍の部将として合戦に参加する機会が多かったものの、生まれついた病弱な体質のためほとんど軍功をあげていない。やがて、信有は合戦を忌避するようになり信仰の道へと傾斜していった。そして、家督を弟の信茂に譲って隠居するとほどなく世を去った。
信茂の登場
小山田氏の新当主となった信茂は、郡内の動揺と小山田氏権力の失墜を回復することに努め、武田分国のなかでも独立性の強かったかつての位置を取り戻したのである。これには信茂の政治手腕があったとはいえ、天正元年(1573)四月に武田信玄が逝去したことと、それにともなう武田氏の大名統率力の後退という外的条件もあった。
武田氏麾下における信茂の軍事行動は、武田軍の参謀的役割を担いつつ、郡内領主としての面目を発揮するものであった。信茂の前半生は、信玄が信濃経略を完成し、転じて関東から伊豆・駿河への侵攻を開始、やがて西上作戦の途に上るという信玄全盛期にあたっていた。一方で後半生は、信玄死後の武田氏を継いだ勝頼が長篠合戦に敗れ、武田氏が滅亡へと転がり落ちた時代であった。小山田信茂の人生は、文字通り武田氏の盛衰と軌を同じくしていたといえよう。
信茂が初めて戦場に登場したのは、弘治元年(1555)の第二回川中島の合戦においてであり、信茂は二千の兵を率いて参戦した。このときの戦いは鉄砲を用いた武田軍が緒戦に勝利を収めたが、射程距離を避けて遠くから武田軍の出方を見守っていた越軍が奇襲に転じ両軍競り合った。このとき、信茂は越軍の先鋒と渡り合い、目覚ましい奮戦を見せた。戦後、信茂の鮮やかな働きに対して晴信から感状を与えられた。以後、弘治三年(1557)の信州善光寺裏山の葛山城攻略、第三回の川中島の戦いなどに参戦して活躍した。
・小山田氏の居城─岩殿城
信茂の活躍
信茂の面目を躍如とさせた合戦は、永禄十二年(1569)秋の信玄による関東侵攻であった。このときの信玄の軍事行動は、小田原城包囲・三増合戦の勝利など、『北条記』『関八州古戦録』などに喧伝されている。そして、信茂は信玄の別働隊として郡内から険しい小仏峠を越え、武州滝山城攻めに奮迅の働きを見せるなど、信茂の奮戦振りは目覚ましいものがあった。これらの戦功で、武田家臣団における信茂の軍事的立場が確立されたのである。
このように信茂は信玄に従って数々の戦場で功を立て、信玄から絶対的な信頼を得た。そして、若輩ながらも馬場美濃守・山県昌景・高坂弾正・原美濃守らの重臣と肩を並べ、「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられて軍議に列した。
信茂は武将としての力量にも恵まれていたが、学識も豊かな人物であった。特に文才に関しては信玄も一目置く存在で、「文のいるところは信茂を召して七書五経をいはせて聞き給ふ」と『甲陽軍鑑』にもみえている。また、七人衆の一人である山県昌景も「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評している。まさに信茂は周囲も認める文武両道を兼ね備えた武将であった。
元亀元年(1570)、信玄は伊豆に侵入し、後北条氏方の田方郡韮山城を包囲した。後北条家臣の山角康定が上杉輝虎に援軍を求めた書状には、武田軍の主将が勝頼・山県昌景・小山田信茂であると報じている。元亀三年、信玄の上洛作戦が開始され、信茂も武田軍の一翼を担い参陣した。武田軍は破竹の進撃をもって駿河・遠江を席巻し、十二月、遠州三方が原で織田・徳川連合軍と戦い、これを壊滅させた。
ところが病を悪化させた信玄は、翌天正元年(1573)四月、ついに上洛をあきらめて兵を甲斐に返すことに決した。そして、その途中の信州駒場において帰らぬ人とあんり、武田氏の家督は勝頼が継いだ。ところが、勝頼は信玄の「三年間喪を秘し、内政を固めるべし」との遺言を守らず外征を繰り返した。そして、天正三年五月、織田・徳川連合軍と三河国長篠で戦い、信玄以来の老臣のほとんどを失う大敗を喫した。この敗戦により、武田氏は滅亡への道をたどることになる。
武田氏の滅亡と小山田氏の終焉
長篠の敗戦後、武田勝頼は越後の上杉景勝に接近するなど勢力挽回に努めた。そして、上杉氏との「甲越同盟」の締結に奔走したのが信茂であった。しかし、この同盟は天正十年(1582)の織田軍の信濃・甲斐侵攻に際してなんら寄与するところはなく、武田軍は瓦解した。
織田軍の甲斐侵攻を前にして、真田昌幸は上野岩櫃城において時節を待つことを進言し、小山田信茂は岩殿城で織田軍を迎え撃つことを提言した。勝頼は岩櫃城で再起を期すことに決したが、その後、岩殿城に撤退して織田の大軍を迎えることに思い返した。勝頼にしてみれば、新参の真田より姻戚関係もある小山田氏の方を信頼したのであろう。
かくして、勝頼はわずかな手兵を従え、郡内の岩殿城を目指して落ちていった。ところが勝頼を迎えるはずの小山田氏の姿はなく、人質として勝頼の許にとどまっていた信茂の母も姿を消した。信茂は土壇場において勝頼を裏切ったのである。郡内入部を断念した勝頼は天目山へと逃れ、その地で一族とともに自刃、戦国大名武田氏は滅亡した。
勝頼を裏切った信茂の最期も哀れをとどめた。勝頼死後、信茂・妻・老母・男子・女子は信長に捕えられ甲府善光寺で斬殺され、小山田氏も武田氏を追って滅亡したのである。
郡内小山田氏に対する後世の評価は、「利欲心に義利を替えた、きたなき者」というものである。同時に小山田氏の事歴の伝承の抹殺がはかられ、長年にわたって培われてきた小山田氏の伝統は、信地元郡内の人々からさえも語り継ぐことをはばかられたのである。その結果、甲斐を三分する勢力を誇った小山田氏の歴史は、散逸しついに忘れ去られていったのである。
たしかに封建的道徳観念からすれば、信茂の裏切り行為は「奸臣不道」の行為であった。とはいえ、武田氏の有力一族である穴山氏などは、すでに信長に通じて身の保全を図っていた。穴山氏と並んで独立性の強い郡内領主である小山田信茂にとって、風前の灯に近い武田氏と運命をともにするより、たとえ汚名を着たとしても家名と所領を全うする道を選んだのであろう。
信茂は身を処する時期を誤ったといえよう。一説に、信茂は最期まで武田氏に殉じるため、勝頼のもとにとどまっていたのだとするものもある。しかし、かれが「利欲を義利に替えた」と酷評されて、拭えない汚名を千歳に残したことは残念なことであった。
もう一つの小山田氏
小山田一族のなかに、武田氏三代に仕えた備中守昌辰、備中守昌行父子がいた。この小山田氏は信茂家の直系ではなく、信茂の数代前に分家した一族であるという。後世昌辰を「古備中」といい、昌辰の旧姓は上原であったといわれ、信虎の時代に小山田の名跡を継いだのだという説もある。昌辰は信虎全盛時代に、信州攻め、佐久攻略などに活躍し、天文二十一年(1552)信州常田の合戦で戦死した。
昌辰の嫡男備中守昌行は、信玄と勝頼に仕え、占領地の海津・雨飾などの城将を務めた。天正三年の長篠の合戦では、家康の腹心松平伊忠を討ち取って、勝頼の撤退の血路を開いた。織田軍の信濃・甲斐侵攻のときは、高遠城主仁科盛信の副将として高遠城を固めて織田軍を迎え撃ち、盛信らとともに玉砕した。・2006年3月29日
【参考資料:甲斐武田氏/武田氏の研究/大月市史/町田市史 など】
●小山田氏の居城岩殿城のページ
(埋もれた古城さん)
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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