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淡河氏
●丸の内三つ鱗
●北条氏一門/村上源氏赤松氏一族  
淡河氏の居城址である淡河城西ノ丸にある阿弥陀堂に、淡河氏代々の墓碑が祀られている。白壁で三方を囲まれた淡河家の墓域には、「淡河家廟所」と掘り込まれた石碑が建てられ「三ツ鱗」の家紋が刻まれている。  


 淡河氏は中世播磨の豪族で、現在の神戸市北区に位置する淡河に城を築いて周辺を支配した。そもそも、淡河氏は鎌倉幕府執権をつとめた北条氏の後裔と伝えられている。すなわち、北条時房の子佐介時盛の子時治が承久の乱後の承久四年(1222)、播磨国美嚢郡淡河庄の地頭職として補任され入部したことに始まるという。

● 北条氏略系図

 北条時政┳政子(源頼朝室)
     ┣義時━泰時━時氏━時頼━時宗━貞時━高時
     ┃      佐介越後守
     ┗時房━時盛┳時景━信時
           ┃佐介四郎・右京亮
           ┗時治

 淡河氏がいつごろから淡河を称するようになったのかは不明だが、石峯寺文書の建長元年(1249)の寄進状には預所兼地頭代平とあり、地頭代とあることから平某が代官として淡河庄を統治していたようだ。他方、国宝『一遍聖絵六条縁起』に、「播磨の淡河殿と申女房の参りてうけ奉りしぞ」とある一遍上人から最後の念仏札を授かった女房は、時治の妻女といわれている。また、時宗二世阿弥陀仏真教から最初の念仏札を授かった「粟河といふ所の領主なる人」は、時治のことらしい。
 これらのことから、はじめ代官による支配を行っていたらしい北条佐介時治が淡河庄に入部した時期は不明ながら、淡河の領主として一定の勢力を持ちつつ篤い信仰心を持っていたことが知られる。そして、この時治が庄名にちなんで淡河を名乗るようになったと考えられる。

南北朝の対立

 十五世紀になると、鎌倉幕府の政治にも弛緩が見られるようになり、後醍醐天皇による討幕運動「正中の変」「元弘の変」が連続した。『太平記』によれば、元弘の乱に際して淡河右京亮時治は、越前国大野郡に出陣して合戦中に六波羅滅亡を聞いた。時治はただちに自殺し、妻子も入水して死んだという。しかし、時治は十三世紀を生きた人物であり、年代的にはうなづけないものである。
 南北朝時代はじめの建武三年(1336)八月、淡河庄において合戦があったという。淡河氏系譜によればときの淡河氏の当主は遠江守政宗で、延慶元年(1308)に生まれたことになっている。そして、文和二年(1354)石峯寺へ大般若経料足として田畠各一反づつを寄進した寄進状には遠江守平とあり、ついで永和元年(1375)に石峯寺に寄進した本尊胎内銘には淡河遠江守入道政宗とある。遠江守政宗が淡河の領主として、石峯寺に手厚い保護を与えていたことが知られる。
 このように、時治以後の淡河氏の動向に関しては不明ながら、南北朝時代の淡河氏は南朝方に属して武家方の播磨守護職赤松氏と対立していた。暦応二年(1339)、赤松円心は三男則祐を総大将として志染に陣を布き、南朝の拠点である山田・丹生寺を攻め、さらに淡河・石峰寺・三津田で合戦を行った。このとき、淡河城も落城したという。このあと、円心は淡河庄を拝領して東播の拠点にしたが、その後も淡河氏が勢力を保っていたことは前記の寄進状などからも疑いない。
 政宗のあとを継いだ範清は武家方に転じていたようで、明徳二年(1391)、山名氏清の乱に際して幕府方として出陣している。翌明徳三年、将軍足利義満の斡旋によって南北朝の合一がなり足利幕府体制が確立した。ここに、淡河氏も幕府体制に組込まれ、子のなかった範清は播磨守護赤松氏の一族中嶋彦八郎熙範の嫡男季範を養子に迎えた。かくして淡河氏は赤松氏の信任をえて、季範は淡河孫太郎と名乗り東播にあって摂播国境の守備を担った。

戦国乱世への序奏

 嘉吉元年(1441)、ときの播磨守護赤松満祐は将軍足利義教を弑殺して嘉吉の乱が起った。京都から播磨に帰った満祐は城ノ山城に籠城、赤松一族が馳せ参じた。淡河則政(則清)も満祐に応じて、淡河城の守りを固めた。赤松追討軍の但馬守護山名持豊が摂津有馬郡から播磨に攻め入ってくると、則政はこれを迎え撃ったが衆寡敵せず、ついに開城し山名氏に降った。
 かくして、城ノ山城も落ち赤松満祐は戦死して、播磨守護職は山名氏が補任された。以降、淡河氏は山名氏に属して、従前の通り淡河城主として勢力を保った。嘉吉の乱で淡河氏が安泰だったのは、国境の守りについていて、城山城の攻防に参じなかったことが大きかった。
 その後、赤松氏再興運動が起り、遺臣の活躍によって赤松政則が家督相続を許され赤松氏の再興がなった。やがて、幕府管領細川勝元と幕閣の有力者山名宗禅(持豊)の対立から、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。赤松政則は細川勝元に属し、播磨に攻め入って奮戦、文明二年(1470)には播磨・備前・美作の旧赤松氏領をほぼ回復した。赤松氏の播磨回復に活躍した別所則治は東播八郡二十四万石の守護代に任じられ、三木城を築くと東播に睨みを利かした。時世の転変に際した淡河政盛は別所氏の麾下に属し、子の弥三郎則盛とともに所々を転戦し、周辺の諸城主をつぎつぎと配下におさめて勢力を拡大していったようだ。男子がなかった則盛は、娘婿に赤松兵部範行の次男元範を迎えて家督を譲った。
 元範の時代になると、世の中は下剋上が横行する戦国乱世となり、播磨も守護赤松氏の威令が衰えて合戦沙汰が絶えなかった。とくに、赤松氏の重臣である浦上氏の台頭が著しく、ついには主家赤松氏を凌ぐほどになった。かくして、浦上氏と赤松氏の抗争が繰り返されるようになり、大永元年(1521)、浦上村宗は赤松義村を殺害するに至った。この一連の争乱において、元範は赤松方として行動したことが知られる。
 村宗は赤松氏を傀儡として播磨・備前・美作三ケ国の実権を手中に収め、一躍、戦国大名に躍り出た。やがて、幕府管領細川高国を支援して両細川氏の乱に介入した村宗は、享禄四年(1531)六月、細川晴元を擁する三好軍と天王寺で戦い敗れて戦死した。

播磨擾乱

 浦上村宗の死後、浦上氏は内訌が繰り返され、次第に勢力を失っていった。かくして、播磨は群雄が割拠する状態となり、守護赤松氏は置塩城、龍野城に分立し、東播磨は別所氏の支配下にあった。
 細川高国が戦死したのちの幕府管領は細川晴元が就いたものの、畿内の情勢は安定を欠き争乱がやむことはなかった。そのような情勢下で三好長慶が勢力を拡大し、ついには晴元、将軍足利義輝を追って畿内の最高権力者に躍り出たのである。
 天文二十三年(1554)、長慶の支援を得た有馬郡の有馬重則(月公)が、摂津国衆を率いて播磨に侵入し別所方の城を攻撃した。淡河城も攻撃され、元範は防戦につとめたが城は落ち、しばらく淡河氏は没落の憂き目となった。その後、永禄元年(1558)に至り、別所氏の支援を得て淡河城を回復、別所氏麾下として淡河に勢力を維持した。
 元範には長男範行と次男範政がいたが、範政は丹波攻めで戦死し、範行も子をなさないまま病死したため、範之の養子定範が淡河氏の家督となった。定範は備前国英田郡江見庄の江見城主江見祐春の次男で、弘治年間(1555〜1557)に淡河家に迎えられ、別所安治の妹を室とし弾正忠に任じた。
 別所安治はなかなかの器量人で、東播磨における別所氏の覇権を不動のものとした。元亀元年(1570)、安治が急病で亡くなったあと、十三歳の嫡男長治が三木城主になった。定範は別所家執事として、安治の弟吉親、重棟らとともに長治を後見役として支えた。一方、実家の江見家が宇喜多氏に亡ぼされると、定範は弟定治(のち長範)や一族を淡河家中に迎え入れ、定治を野瀬城主に配するなど淡河氏の勢力を拡大していった。
 このころになると、時代は尾張の織田信長を中心として大きく転回しつつあった。は、永禄十一年九月、足利義昭が信長に奉じられて上洛し、十月、義昭は征夷大将軍を拝した。以後、信長は足利義昭を支援するかたちで、武田氏、上杉氏、本願寺らと抗争しながら、着実に勢力を拡大していったのである。その間の永禄十二年、三好の残党が将軍足利義昭を襲ったとき、別所安治は弟重棟を京都に派遣して信長に加勢している。
 やがて、織田信長は毛利氏との対抗から播磨侵攻を企図するようになり、天正五年(1577)、部将羽柴秀吉を総大将に据え播磨攻めを開始した。別所長治は播磨西部の城主のほとんどが毛利氏に通じるなかで信長方の立場を示して秀吉に協力、織田軍は約一ケ月で播磨の平定に成功した。

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●淡河城址

承久の乱(1221)で勝利した執権の北条氏は、淡河庄を北条時房の所領とした。翌年に地頭職として北条一族の 右近将監成正(諸説あり)が派遣され、淡河氏を名乗って淡河城を築いたという。
・左:大手方向から見た淡河城祉
・右:竹慶寺跡の淡河氏墓所
淡河城の絵図(拡大)へ


織田軍との抗争

 ところが、天正六年(1578)二月、別所長治は秀吉に反旗を翻し、播磨全土は戦乱の巷となった。長治が織田氏から毛利方に転じたのは、秀吉の無礼な態度にあったのだという。すなわち、秀吉が糟屋城に諸将を集めて毛利攻めの軍議を開いたとき、長治は叔父吉親を名代として出仕させ、吉親は毛利氏攻略の方策をいろいろと献議した。しかし、その献策は旧態然としたものであったようで、秀吉に受け入れられなかった。面目を失した吉親は、三木城に帰ると長治に信長と手を切り毛利方に属するべきだと説いたという。
 理由はどうあれ、長治は秀吉と対峙することになったのである。かくして、史上有名な三木籠城戦が開始されることになる。
 淡河氏は三木城の後詰めをつとめ、国境の守備を担って淡河城の守りを固めた。秀吉軍の攻撃で三木城の支城が次々と落ちていったが、智略にすぐれた淡河定範の守る淡河城は最後まで残り、「三木の干殺し」が進むなか、花隈城→丹生山→淡河城→三木城とつながる重要な食料補給基地としての役割を果たした。その間、秀吉は定範の弟長範と相婿である黒田官兵衛に降伏を説かせたが、定範は義を守って秀吉の誘いには一切応じなかった。
 天正七年四月、秀吉は淡河城の四方に付城を築き、補給ルートの封鎖を狙った。五月、秀吉勢はおりからの風雨をついて丹生山に夜襲をかけ、全山に火を放ったため、丹生山明要寺は炎上し落城した。これを聞いた淡河定範は、一族・郎党、足軽人夫らを集めて、車菱を敷き逆茂木や大綱を張り巡らせるなどの防備を固めた。また、近在より牝馬を集め、防戦の準備を整えたところで、「淡河の城では、連日のように城外に出て作業をしている」という噂を流した。
 これを聞いた寄せ手はチャンス到来とばかりに、同年六月、羽柴小一郎秀長が五百騎を二手に分けて攻め寄せた。ところが、淡河城の車菱に足を痛めるものが続出、秀長は攻めあぐねた。奇略を練っていた淡河定範は、かねて集めていた牝馬を秀長勢のなかに放った。牝馬に反応した牡馬が狂奔したことで寄せ手は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込んだ。秀長らは多くの戦死者を出し、ほうほうの体で逃げ散った。秀長勢を粉砕したした淡河軍ではあったが、「秀吉はきっと大軍をもって攻めてくるはず、その際には小勢では勝利は無理なこと」と考え、三木城に入って戦うことに決め、城に火を放って一族・郎党三百余人が整然と立ち退き三木城に籠城したという。
 余談ながら、黒田官兵衛とともに秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛が死去したのは、この淡河城攻めの最中であった。いまも秀吉の本陣跡である平井山に半兵衛の墓が残されている。

 
淡河城址を歩く

   
淡河城は神戸市北区淡河町にあり、城跡東側の断崖が淡河城の要害堅固であることを感じさせる。 代々の城主は淡河氏で、三木別所氏に味方して羽柴秀吉の攻撃を受け、淡河城は落城した。淡河城に登ると城址には 建物跡があり、本丸には稲荷社が祀られている。 稲荷社のなかに淡河城址の歴史を綴った紙が貼られていて、 よく見ると本ページ(古いもの)を出力したもだった。嬉しいなかに記事に対する責任を改めて感じさせる複雑な 心境であった。    

   
本丸のまわりには内堀跡が残り、往時西側には曲輪があり建物が立っていたというが、いまは田畑がのどかに 広がっている。また、本丸の南東にある竹慶寺跡には、淡河氏一族の墓石がひっそりと佇んでいる。まさに、 淡河城址は武士(もののふ)の夢の跡を感じさせる風景である。    


淡河氏の最期

 三木城に入った定範は、城主長治の側近として守りを固めた。このころ、織田信長に仕える谷大膳衛好は、羽柴秀吉の部将として平田山に陣を構え、三木城への食糧補給路を断つ任にあたっていた。天正七年九月十日毛利の将、生石中務と三木城の別所方が平田村の谷大膳の陣を攻撃した。一方、秀吉も援軍を出し、戦いは秀吉方の大勝に終わったが谷大膳は壮絶な討ち死にを遂げた。
  この大村合戦に淡河定範も出陣して奮戦したが手傷を受け、主従五騎で逃げ延びようとしたが、追っ手に追い付かれてしまった。定範主従は敵方を追い払ったが、ついに力尽き主従ともども自害して果てた。「誠に惜しき良将かな」と、定範の死を惜しまぬ人はなかったという。
 三木城が落城したのち、淡河城は城攻めに功績があった、有馬則頼が与えられた。生き残った淡河一族のうち、定範の弟は有馬則頼に仕え、兄範春は黒田官兵衛の家臣となったと伝えられている。また、定範の娘は有馬郡道場城主松原貞利に嫁し、長男若竹丸は早逝、次男次郎丸は三木城に入質としてあったが、落城後に四国坂出に渡海したという。・2004年09月30日 → 2006年03月01日

参考資料:兵庫大百科事典/ひょうごの城紀行/神戸市淡河町の歴史/三木史談 など】

・はせ万鮨 のページ ・摂津淡河城 ・淡河城 ・全国の城(兵庫27)淡河城



■参考略系図

●淡河氏の系譜について
『神戸市淡河町の歴史』に記述されたの淡河城主の系譜をみると、『石峰寺史料』から作成されたという
 成正━政盛━教光━政高━政氏━政家(入道道光)━政信━政通(入道道円)━政盛
と「政」を通字とする『平氏の系譜』が紹介され、ついで『長松寺記録』によるという
 刑部少輔範定━行(ママ)部少輔範行━弾正少輔(ママ)之範━弾正少輔(ママ)定範
『淡河氏系譜』が紹介されている。そして、平氏系政盛が応仁の乱において滅亡したのちに、赤松氏系の刑部少輔範定が淡河城主になったとある。諸旧記によった本文の記述とは相当の違いがあるが、地元の寺社に残された記録によったものであり、中世における武家の興亡に関する記録の信憑性を考えるうえで見すごせないものである。
 
  

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