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越智氏
遠雁に竜胆
(清和源氏頼親流)
『越智古老伝』には「揚羽蝶」、『越智氏系図』には「八角菱」な どとなっているが、ここでは『見聞諸家紋』の記載に拠った。

 越智氏の出自については、いくつかの説がおこなわれている。そのひとつは伊予の名族越智氏、あるいは河野氏の後裔とするもの。また橘氏を祖とすんるものなどだ。さらに大和源氏説もある。諸説のなかでは源頼親の後裔で法華経太郎頼安の曽孫親家の後裔とする大和源氏説が有力だ。いずれにしても、鎌倉時代に大和南部を地盤とする越智党の源流が出来あがったものと思われる。
 奈良盆地は国中(くになか)と呼ばれ、興福寺の勢力が強かった。そのため、国中地方の武士は、興福寺の寺僧である衆徒(しゅと)と春日大社の神人である国民が中心であった。室町時代には、両門跡が南北朝に分裂して勢力を弱めていったが、その一方で衆徒・国民の勢力が強まっていく。これらの在地武士達は散在党(越智氏が首領)・長谷川党(十市氏が首領)・中川党(箸尾氏が首領)・乾党(筒井氏が首領)・南党・平田党の六党を結成し、それぞれに団結を強めていった。
 また、大和南部の宇智・吉野・宇陀の三郡は南三郡と呼ばれ、興福寺の勢力が比較的に弱い地方であった。宇智郡には大和源氏の子孫である二見氏の一族が、吉野郡には牧氏などをはじめとする小規模な武士が、宇陀郡には宇陀三将と呼ばれる沢・秋山・芳野の三氏が割拠しており、これらの武士たちは南北朝時代には南朝の中心的存在として活躍した。また、国中地方東部の笠置山地は東山中と呼ばれ、この地域にも小規模な武士が地域的に結合していた。
 この武士たちの中から、越智・十市・箸尾・筒井の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していったのである。とくに、南北朝時代に南朝方武士の中心勢力であった越智氏と、北朝方武士の中心勢力であった筒井氏が大和国で主導的地位を確立し、以後の大和国の抗争はこの両氏を中心にして動いていく。
・写真:若宮おん祭「お渡り式」に登場する大和士たち。衣裳の紋は中世のものか?

衆徒
中世、大和の支配者であった興福寺では、大和の荘園内の荘官、名主層の有力者を僧衆に準じて衆徒とした。鎌倉時代以来、衆徒二十人を選んで四年間本寺に在勤させたが、これを官符(官務)衆徒という。官符とは太政官符により任命される別当・三綱の被官の故というが、将軍の被官という意味もある。はじめ学侶・六方衆の指揮下にあったが、領主化するにつれて寺院内の実権を握った。筒井氏、古市氏らはその代表である。

国民
大和の春日社領荘園内の荘官、有力名主を白衣神人として任じたもので、末社神主でもあった。また、興福寺の被官ともなっていた。越智氏はその代表といえる存在であった。白衣神人のほかに黄衣神人がいたが、これは春日社内の神人である。
(出典:奈良県史)


南北朝の争乱

 南北朝時代には、越智党は吉野方として活躍した。四条畷の戦いで、楠木正行が戦死し、勝ちに乗じた高師直が大和国に乱入、吉野の行宮を焼き払った。しかし、南大和の越智党らの武士たちは果敢に高師直軍に斬り込み、師直軍を散々に悩ましたという。さらに、越智氏は、河内国にも積極的に兵を出すなど、高師直の乱入により、南朝の命運も尽きんとしたところを、越智党を中心とする南大和の武士たちが退勢をよく食い止めた。
 やがて、武家方の足利尊氏・高師直と弟の直義の間に対立が起こり、世にいう「観応の擾乱」が起こった。そして、直義は高師直、直秦兄弟の攻撃を受け、尊氏のもとに逃れ薙髪するが身の危険を感じ、大和に逃れ、越智伊予守を頼り南朝に降参するにいたった。このことは、越智氏が足利直義が頼ろうとするほどの豪族に成長していることをうかがわせる。
 その後、尊氏と直義は和睦し、武家方に戻るが、尊氏に尽くした高師直は殺され、高一族は滅亡する。その結果、今度は直義方が強勢になり尊氏が南朝に降参する事態ともなった。しかし、直義の勢力は徐々に尊氏方に押され勝ちとなり、ついに、尊氏に降り、鎌倉に幽閉され結局、殺害され武家方の内訌は終わりを告げた。しかし、この内訌の間に、後醍醐天皇の後を襲いだ後村上天皇が京都を一時回復するということもあった。
 しかし、北畠親房や後村上天皇の死、また京方の盛り返しもあり南朝は衰退の一途をたどることとなる。このころの当主、越智大和守も京方に下った。

戦乱の続く大和

 やがて、足利義満によって明徳三年(1392)南北朝の統一がなる。南北朝合一後、越智氏は大和一国を支配する春日社の氏子として隠然たる勢力を振るった。さらに、衆徒や国民は事実上の大和の領主である興福寺を凌ぐ勢力となり、大和武士団の間で紛争が頻発するようになった。そして、室町幕府の力は衰退していき、大和の争乱は泥沼化していったのである。
 この頃の越智党の惣領として家成、家経などの名が見える。また、越智氏は高市郡一帯にまで勢力を伸長し、大和南部の武士団を被官に組み込み、以前にも増して強固な越智党を結成し、越智氏はその惣領として大和の有力者に成長していった。しかし、室町幕府は興福寺衆徒を懐柔する領袖的存在として、越智氏と並ぶ大和の有力者筒井氏を支援したことから、越智氏と筒井氏との間に紛争が続いた。
 そして永享元年(1429)、大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸某との対立が顕在化し、筒井氏は井戸氏と親戚であったことから井戸某を支援し、一方、越智氏と箸尾氏は豊田中坊を支援し、筒井党と越智党に属する武士たちががぞくぞくと参戦、世にいわれる「大和永享の乱」が勃発した。
 そして、河内守護の畠山満家が越智維通の支援要求にを入れて乱に介入し、筒井氏も細川持之を頼り戦乱は長期化していった。しかし永享六年(1434)筒井順覚兄弟が越智氏に敗れて戦死し。筒井氏勢力は没落。越智党は奈良中雑務検断職(南都の警察権)を奪取、越智党の豊田、福智堂、小泉の三人がその職に就いた。しかし、幕府軍が筒井氏への援助を行ったことから、越智氏は箸尾氏らと反幕府体制を作るが永享七年(1435)多武峯の戦いで越智党は敗れて没落し、大和永享の乱は終わりを告げた。
 敗れた越智一党は吉野の奥深くに逃れ、永享十一年(1439)惣領、維通の弟、次郎が自決し維通自身も討たれた。こうして永享の乱は完全に終息したが、越智氏は惣領家が断絶、一族郎党の多くが討たれ乱による被害は甚大であった。
 その後、越智氏の家督は、河内守護畠山持国の支援で維通の遺児と思われる春童丸が継ぎ、春童丸はのちに越智家栄を名乗り、一旦は没落した越智氏を再興し越智氏の最盛期を現出するのである。とはいえ、家督を継いだ初めのころは、河内守護畠山氏の勢力の影響を受け、実質的にはその被官となっていた。やがて、長禄三年(1459)、興福寺官符衆徒として大和屈指の土豪、筒井順永と佐味城に戦っている。

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越智氏の故地を歩く

戦国時代の大和における一方の雄越智氏は高市郡越智から起った。近鉄飛鳥駅を降りると観光客のほとんどは飛鳥方面をめざすが、越智氏縁りの地はその真反対の西方に位置しており、越智氏の拠った貝吹城も観光マップに小さく貝吹山とあるばかりだ。貝吹城は筒井氏、松永氏との戦いの舞台であり、大和の戦国史には欠かせないところである。頂上の本丸跡は綺麗に整備され、貝吹城祉と刻んだ石碑が立てられている。本丸から下山していくと、竹薮にうずもれた郭のあとが散在し、規模の大きさが実感できる。竹薮を何とかすれば、もっと素晴らしい城址になるだけに残念だ。

貝吹城祉から西方に自転車を走らせると越智のバス停がある。バス停の北方を見ると、越智氏の居館があり、南方には越智氏の菩提寺光雲寺がある。光雲寺は越智邦澄の建立で、はじめは興雲寺と名付けられたが、越智氏が没落したのちに「興」の字が「光」に代えられたのだという。境内には越智氏一族の墓が祀られ、海原猛氏の手による観世元雅の碑が佇んでいる。寂々とした風情が、滅びた越智氏のありし日を偲ばせるところだ。


大和の戦国時代

 戦国時代前期になると、家栄は細川政元・畠山義就と結んで筒井氏を圧倒すると、大和における支配圏を拡大していった。とくに明応二年(1493)、政元が将軍足利義稙と結ぶ畠山政長を河内正覚寺に敗死させ幕政の中心にたつと、家栄も上洛して幕政に参画した。
 やがて、明応四年末以来、畠山宗順が筒井党とともに反撃に出、翌々年十一月には、父子ともに吉野に没落した。しかし、翌七年になると、越智氏は高取に帰り、一応、勢力を挽回している。なお、家栄は世阿弥の子観世元雅を保護し、越智観世がはじまったという。
 家栄の没後、家令が家督を継いだ。明応八年(1499)以来、畠山氏の内紛に巻き込まれて二派に分かれて抗争を続けていた大和国衆の間に和睦お図ろうとする動きが進み、永正二年(1505)盟約が市立した。しかし、この年は細川政元が、大和国衆が河内の合戦に協力しないの理由に、赤沢朝経を大和に入部させてきた。大和国衆は協力して、これに抵抗するが、家令は永正四年ごろ、この合戦で戦死したようである。
 永正四年、家令の跡を継いだ家教は細川勢との合戦のために筒井方へ参陣している。翌年、畠山氏の内紛が再発し、大和国衆は二派に分かれて抗争することになった。永正十一年には幕府と結ぶ畠山尚順と筒井軍は家教を討つため東大寺に戦勝を祈願している。その後、家教は古市澄胤とともに、筒井・十市氏と唐院に戦いこれに打ち勝っている。しかし、家教は二十八歳の若さで、永正十四年に没した。
 家教のあとは家栄が継ぎ、その跡は家広が継いだ。天文元年(1532)、天文一揆が起こり、一向宗門徒の一揆の余波は河内から大和におよび、南都を焼き払い、南下して高取城に押し寄せた。このとき、筒井・十市氏らの救援もあって一揆勢は壊滅した。このときの高取城主は家広というが、利之とするものもあり、両者が同一人物かどうかは不明である。一方、この一揆との戦いにおいて家広の叔父にあたる貝吹城主の家頼も活躍した。家広には子がなく、細川晴元の猶子某を養子としたが、夭折したようである。
 その後、永禄十二年(1569)家広の弟楢原某の子家高が家督を継いだ。しかし、元亀二年(1571)家高は妻子ともども暗殺された。その背後には叔父家増がいたといわれている。そして、家増が家督を襲い、惣領となったが天正五年(1577)に没したようである。

越智氏の終焉

 こうして、越智氏の家督は布施氏から彦七が入り、家督を継いだ。のちの家秀であろう。天正四年以降は筒井順慶が織田信長のもとで大和一円支配を進める。家秀は布施氏出身という点では筒井氏と縁に連なり、順慶のもとで天正五年には安土城に信長を迎えたり、同十年には東国出陣の軍役に従った。この間、天正八年以来、信長の命により郡山城を残して他の諸城が破却されるなかで、高取・貝吹の両城も破却された。もっとも高取城はのちに郡山城の詰め城として復活している。このころ、越智氏の所領は一万二千石であったという。
 ついで、天正十年(1582)六月、本能寺の変で信長が横死し、順慶は豊臣秀吉と結んで存続した。そして、翌天正十一年、内衆の手によって生害され越智氏は滅亡した。順慶が黒幕であったという。

参考資料:奈良県史(大和武士)/戦国大名系譜人名事典 など】

■参考略系図  


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