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入田氏
●抱き杏葉
●大友氏一族
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入田氏は大友氏の一族であるが、その祖に関しては諸説がある。たとえば『大友志賀系図』は、三代頼泰の末弟泰能を祖とするが、『大友入田系図』では、五代貞親の弟泰親(のち 秀直と改む)を祖としている。一方、『竹田市史』は入田氏の初代を泰能とし、泰能は子をなさないまま死去したため、甥の泰親がその跡を継いだとしている。おそらく、その通りであったろうと思われる。
いずれにしろ、入田氏の祖は直入郷入田を領し、入田城に拠り名字とした。入田氏の歴史をみると、大友惣領家への反発と抵抗の連続であったことが知られる。入田氏初代泰親は、建武三年(1336)、大友惣領貞宗の嫡子単独相続への転換を機に、反惣領家勢力の中心として行動するのである。
大友惣領家との対立
時代は南北朝の内乱期であり、大友貞宗は博多の陣中で長男貞順、次男貞戴を飛び越して幼少の五男千代松丸(のちの氏泰)に家督を譲った。この事態に貞順は不満をとなえ、玖珠城に立て籠った。この貞順の不満に呼応したのが、入田士寂(泰親)・出羽季貞の兄弟、大神系国人衆、豊後清原氏の一党であった。
南北朝の時代の一側面として、所領の再配分を求めて武士が蜂起したことが挙げられる。それは、惣領と庶子との対立という面も有していた。大友氏の内訌もそのような時代の趨勢がもたらしたものであった。大友貞順の反乱に対して大友惣領家は九州探題一色氏を総大将に仰ぎ、大友一族をはじめ平林らの関東御家人、都甲・富来氏らの国衆、豊後清原一族らのほか豊前勢をもって、玖珠城を攻撃した。
攻防は八か月にわたり、結果は反乱軍の敗退に終った。入田士寂・出羽季貞の兄弟は戦死し、大友貞順は城を逃れて抵抗を続けた。士寂の子泰顕は入田郷半分を没収され、翌年、入田新蔵人らとともに大友惣領家と対決し、都甲氏、戸次氏、賀来大宮司らと戦った。結果は、ふたたび敗戦となり、入田氏は勢力を失った。この泰顕が系図に見える氏綱と同一人物か否かは不明である。
以後、入田氏の動きは明確ではない。七代氏広は同じ大友一族の戸次氏の讒言によって入田城に蟄居、その後、大友家臣某の反乱を鎮圧して大友家の信頼を回復している。この氏広の孫が親廉(親門)で、大永八年(1528)、大友家奉行人の一人として歴史に登場する。奉行人とは加判衆とも呼ばれ、大友家当主の発する文書に判を添える重臣である。大永八年以後、入田氏は加判衆の地位にあり、大友氏の重鎮的存在であった。
戦国時代、各地に割拠していた有力土豪を「国衆」「国人」などと称するが、入田氏も大友氏の一族とはいえ、早くから入田地方に定着して栂牟礼城を本拠に勢力を養っており、見方を変えれば国衆的な土豪でもあった。
二階崩れの変
親廉の子が親誠(親真・親実とも)で、「二階崩れの変」の当事者の一人である。親誠は大友義鑑に仕えて、その嫡子である義鎮の教育係であった。義鑑は義鎮の性格が粗暴であり政治には不向きとして、末子の塩市丸への家督譲渡を考えるようになっていた。親誠は義鎮に諌言を行ったが、義鎮はそれを喜ばなかったという。
当時、義鑑の重臣としては津久見美作守・田口蔵人・斎藤播磨守・小佐井大和守、そして入田丹後守親誠の五人が有力者であった。五人は義鑑が家督を塩市丸に譲ろうとしていることに対して、反対意見をもっていた。天文十九年(1550)二月十日、義鑑は斎藤播磨守・小佐井大和守を呼んで、塩市丸擁立のことを話した。二人は反対意見を述べて退出したが、立腹した義鑑からの刺客によって殺害された。これを知った津久見美作守・田口蔵人は、自分らにも義鑑の討手がくることを予知し、逆に館を襲い義鑑をはじめ塩市丸、その母らを殺害したのである。
これが「二階崩れの変」で、事件発生当時、別府にいた義鎮はただちに府内に帰り、斎藤・小佐井氏および塩市丸擁立派を討つとともに入田氏の討伐に着手した。入田親誠は府内を逃れ、栂牟礼城に立て籠った。入田氏は塩市丸擁立に反対的立場でありながら、義鎮から討伐を受けることになった。そして、ついには岳父にあたる阿蘇惟豊のもとに逃れたが、そこで、惟豊から主人に対する謀叛人として討たれ、その首は義鎮のもとに送られた。このとき、親誠の子信濃守も討たれたという。
この事件について『竹田市史』では、「二階崩れの変」と肥後の国情とが密接な関係をもっていたとしている。すなわち、入田氏と阿蘇氏の関係、それに菊池氏のもとに養子に入っていた義鑑の弟義武の存在が、微妙に絡まって異変につながったというのである。また、筑後方面の武士にも入田氏に同調する動きがあったという。
おそらく、阿蘇氏は大友氏の重臣である入田氏と結び、菊池義武は豊後進出を企図していた。そして、変が起こると義鎮はただちに事態の収拾にあたり、入田氏は岳父阿蘇氏のもとに逃れたものの体よく殺害され、残った菊池義武も天文二十三年、義鎮によって殺害された。事件の結果としては、義鎮政権が盤石となり、戦国大名大友義鎮の勢力拡大が始まるのである。
大友氏と島津氏の死闘
親誠が殺害されたあと、入田氏の家督は嫡子の義実にゆるされたようだ。永禄末から元亀のころ、義実は宗麟(義鎮)から筑前国鞍手郡若宮庄三百五十町分を預けおかれ、笠木城勤番を命じられている。
やがて天正六年(1578)、大友氏は日向に侵攻し、土持氏を討伐した。ついで、島津氏と対決するため高城を攻めたが、島津勢の守りが固く、攻めあぐんでいるところへ島津軍の攻撃を受け、耳川において壊滅的敗北を喫した。この敗戦を契機として、大友氏は凋落の一途をたどることになる。天正八年、島津氏の北進作戦が本格化した。同年十月、阿蘇氏の矢崎城を攻略、翌年には相良氏の水俣城を攻めて相良氏を降した。さらに天正十二年には、肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信を討ちとり、それまで大友氏に属していた諸勢力を勢力下に組み込み大友氏を追い詰めていったのである。
天正十四年(1586)、大友宗麟は大坂に上り、豊臣秀吉に援助を乞うた。一方の島津氏は義弘が肥後口から、家久が日向口から豊後攻撃を開始した。肥後を経由してきた島津氏と大友軍との戦闘の舞台となったのが直入郡地方であった。このとき、海部郡の柴田紹安、大野郡の戸次玄三・鎮安、直入郡の志賀道益・道運・朽網鎮則、そして入田宗和(義実)らは島津氏に内通して大友氏の敗北に一役かった。とくに入田宗和は、親島津行動の主導的立場をになった。
義実は父親誠の没後、旧領の一部を安堵されたに過ぎなかった。さらに、天正十二年から十四年にかけて、大友氏の重臣戸次玄珊の讒言によって大友氏の追討を受け、そのたびごとに入田城を攻められた。このような入田宗和に対して、島津氏は新納忠元を通じて、宗和に寝返りを進めてきたのである。しかし、宗和は「武門の素意に非ず」として、はじめは応じなかった。このころの入田氏は大友氏の討伐を受け、栂牟礼城を逃れて緩木城を拠点にしていた。
島津方からの再三の誘いと、大友氏の入田氏に対する姿勢から、ついに宗和は島津方への内通を決意したのであった。ところが、大友宗麟は入田宗和を全面的に信頼して、肥後・日向国境の豊後西部の守備を宗和に一任したのである。
大友氏の没落と入田氏
島津氏への内通を決心した宗和は、大友氏と和を保つがごとく行動しながら、島津方との交渉も進め、島津軍の豊後侵入の手段を整えていった。かくして、天正十四年、島津軍の豊後西部方面への侵攻が開始された。入田宗和・志賀道益らの島津方への内応に対して、岡城主の志賀親善は島津軍を迎え撃ち、島津氏の蹂躙を許さなかった。
翌十五年二月、親善は島津軍に対して攻勢に転じ、小牧城を攻め、主将丸田強兵衛を斬り城を奪還した。この勢いに、緒方・耳忍地方の武士で島津方に内通していた者が、親善の側に寝返ったという。さらに、親善は岡城の属城である鬼ヶ城を攻めようとする島津軍を攻撃し、これを撃破している。
やがて三月、大友氏を支援する豊臣秀吉の正規軍が九州に渡海し、島津勢は兵を引き揚げて入った。ここに、豊後・薩摩戦争は終幕となり、入田氏は城を捨てて島津軍に従った。その後、宗和は島津氏から日向国諸県郡高原後川に給地一千五十石を賜り、慶長六年に死去した。子孫は、島津氏に仕えて近世に至ったと伝えられている。・2005年6月22日
【参考資料:大分の歴史(3)/竹田市史/大友宗麟のすべて(新人物往来社刊) ほか】
■参考略系図
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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