大原氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏族)
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大原氏は近江国坂田郡大原郷より起こった。佐々木信綱の長子重綱が同地を領して大原氏を称したのがその始まりである。
『蒲生郡志』には、「大原氏は佐々木信綱の嫡子太郎重綱を祖とす。重綱は父に従ひ、承久乱、宇治川に武勲あり、然るに何故にや、信綱は重綱を廃し、次子高信、三男泰綱、四男氏信に封地を分領せしめたり。重綱僧となり、慈浄と号せしが、父の没後に到り、黒衣を脱して、宗家の嗣泰綱と遺領を争ひ、鎌倉に訴訟して終に坂田郡大原庄を領するを得たり。此に於て大原氏を称す」と記されている。
大原氏は室町幕府奉公衆としても勢力をもっていた。その後、佐々木六角氏に属したようで、戦国時代の大永五年(1525)、大原政重の子五郎某が六角定頼の浅井攻めに出陣していることが『朽木文書』にみえる。
政重のあとは、六角高頼の三男高盛が継いだ。永正十七年五月、細川高国のために上洛し、その時、栗田郡金勝寺の浄厳坊や朽木稙綱から出陣見舞をもらい、それへの礼状を送っている。また某年十一月、伊勢上田の御使竜大夫に祈祷の祓と打鮑の礼状を送っている。その後、大永八年七月、水原橘左衛門に横関市における保内商人と石塔商人との権利争論の裁定について定頼の命を受けて意見を述べている。このころには、高盛から高保に名を改めている。このことは、政重の実子五郎が浅井攻めに出陣している大永五年ころから八年の間に大原氏をつぎ、高盛から高保へと改めたようである。
天文十一年(1532)三月、将軍足利義晴と子義輝とが近江より帰京する際、朽木稙綱らと供奉し、同十四年二月雁・鯛などを幕府に献上し、同十五年十二月六角定頼が義輝の元服加冠役をした時には柑杯役を務めた。また、天文日記によれば、高保は天文七年より同十七年正月まで、毎年年始・端午・七夕などに本願寺へ贈物していたことが記されている。天文十七年ころに没したと考えれれる。
高保には実子がなく、六角義賢の三男義定の子高賢が名跡を継いだ。はじめ、賢水、民部と称し、右近大夫となった。某年五月、伊勢山田の御使竜大夫に祈祷の祓と打鮑の礼状を送っている。その生涯の事歴は詳らかではなく、慶長六年(1601)七月に卒したことが知られている。以後の大原氏の詳細は伝わっていない。
ところで、『寛政重修譜』には、大原時親の後裔とする大原氏が記載されている。家紋は丸に横木瓜、丸に二つ引両。その庶流は、家紋四つ目結、五七の桐。いずれにしても嫡流大原氏は衰亡し、その庶流家が徳川旗本に名をとどめた、というところであろうか。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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