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南条氏
夕 顔
(宇多源氏佐々木氏流塩冶氏流)


 戦国時代、伯耆国東伯郡の羽衣石城に拠り 伯耆守護山名氏を凌駕する勢力を誇った南条氏は近江源氏佐々木氏の一族と伝えている。 『羽衣石南条記』などによれば、塩冶高貞の子高秀が貞治五年(1366)伯耆羽衣石に城を築き、南条伯耆守貞宗と名を改めたとしている。また『因幡民談記』では初代貞宗は明徳二年(1391)に没し、以後「嫡子宮内少輔景宗、景宗の嫡孫但馬守宗貞、其の子宗皓、嫡子豊後守宗元」の系譜をあげ、伯耆守護山名氏に属して発展していったと記している。
 南条氏が祖とする塩冶高貞は塩冶判官として知られ、元弘の乱に活躍して出雲・隠岐守護に補任された。ところが、高貞の妻に懸想した高師直の讒言によって京都を出奔、山名時氏・桃井直常ら幕府軍に追われ播磨国影山において自害した。この高師直の一件は、「仮名手本忠臣蔵」として世に流布しているが真偽のほどは定かではない。
 『訳文大日本史』には、「高貞、二子あり、母に従ひて出でて走りしが、長子は母と同じく陰山で死したれば、八幡六郎、次子を覓めて窃に路傍の僧に託し、携へて出雲に至らしめたるに、既に長じて、弓矢に便ひ、佐々木氏頼に依りしを、宗人、呼びて出雲殿となせり」と、高貞の次子が助けられたことを記している。そして、高秀は旧臣の妻の尼にひきとられて越前国南条郡宅良谷で成長、南条を名乗るようになったのだという。

南条氏の出自考察

 南条氏の初期については、同時代の記録や史料が乏しく、系図も後世に編纂されたものであり信憑性に欠けるものである。さらに南条氏の初代とされる貞宗が生まれる前に、伯耆には南条氏が存在したことが知られている。
 建武三年(1336)の『小早川文書』に、高師直が建武三年十一月二十四日に施行状を下して、南条又五郎に「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」を小早川氏に沙汰付けするよう指令しているのである。この文書から南条又五郎は伯耆守護の任にあった可能性が指摘されており、又五郎は伯耆における有力武士であった。そして、南条又五郎は文和三年(1354)の足利尊氏判物写にも「伯耆(中略)神田庄南条又五郎跡」とみえ、南北朝時代のはじめに南条氏を名乗る有力者がいたことが確認される。
 ついで小鴨氏系図の氏基の項に「母は南条壱岐守元伯女」とあり、「元弘元年(1331)三月十五日、足利尊氏卿より加冠の時、氏の字を契約」とあり、氏基は尊氏のもとで元服し偏諱を受けたというのである。小鴨氏は古代より伯耆に勢力を有した氏族であり、その小鴨氏と縁組をした南条氏は相当の豪族であり羽衣石南条氏であったと考えられる。
 このように南条氏初代貞宗が羽衣石に拠る以前に南条氏を名乗る武士が存在した。そして、倭文神社に伝来した「南条宗勝・元続連署願文」の署名は、「伯耆国住賀茂朝臣南条豊後入道宗勝」とあり南条氏は賀茂朝臣を称している。さらに『伯耆民談記』には、「干時天正五年卯月吉日(中略)奉遷宮牛頭天王棟上一宇、大檀那加茂氏南条元続」、「天正二十壬辰年二度建立奉修造三所権現、大檀那加茂氏南条虎熊元忠、同左衛門督元清、武運長久家門繁栄之処(後略)」とみえ、戦国時代後期の天正年間、宗勝・元続・元忠の南条氏三代が加茂氏を称していたことが知られるのである。
 ところで、南条氏の系図としては佐々木氏流塩冶氏から分かれたとする「羽衣石南条系図」が、倉吉市史などにも掲載されて世に流布している。一方、『系図総覧』に収められた「南条氏系図」は「伯耆、平氏、家紋夕顔」とあって、南条紀伊守某から書き起されたものである。宇多源氏なのか、加茂姓を称する古代豪族系なのか、さらには平氏なのか、南条氏の出自に関しては探るほどにに混沌の度を深めるばかりだ。
目結と輪違  加えて、南条氏の家紋は「夕顔の花」という珍しいもので、まず南条氏の独占紋である。南条氏が分かれ出た近江源氏は「目結紋」が代表紋であり、塩冶氏は『見聞諸家紋』に記載されている通り「花輪違い紋」を用いていた。そして、出雲に広まった佐々木一族は挙って「花輪違い」「目結紋」を用いており、家紋のうえからも南条氏の出自を近江源氏に求めるのは疑問が残るといわざるをえない。
・家紋 : 目結紋と花輪違紋(右)


南条氏の発展

 さて通説によれば南条貞宗には、嫡男宮内少輔景宗、二男で僧籍に入った機堂長応、三男尼子右衛門尉経時の三人の男子があった。注目されるのは三男経時に「雲州尼子経久この末葉なり」とあることで、尼子氏は塩冶氏と同じく佐々木氏の分れで、南条氏が佐々木氏の流れであることを示唆したものであろうか。貞宗は明徳二年に没し、景宗が後を継ぎ「この人武勇父に劣らず」とあるものの貞宗と同様、その事績は不明というしかない。
 景宗四代の孫但馬守宗貞は永正十一年(1514)に九十一歳で没したとあることから、嘉吉の乱のころから応仁の乱、そして戦国時代のはじめまでの動乱期を生き抜き「代々山名氏の下知を受けて家運栄へ行けり」とある如く東郷荘を中心に南条氏の勢力拡大に努めた人物であったといえそうだ。南条氏が属した伯耆守護山名氏は但馬山名氏の庶流で、応仁の乱に際して伯耆守護山名教之は、国衆「小鴨・南条・進・村上」らを率いて上洛したが、そのなかの南条は但馬守宗貞であったともみなされるが不詳である。
 伯耆山名衆は山名宗全に従って、東軍の赤松政則の軍と山名相模守らが討死する激戦を展開した。応仁の乱において伯耆は西軍、隣国の出雲は東軍という図式であった。出雲では佐々木京極氏の守護代尼子清定が奮戦、その矛先は伯耆へと伸びてきた。文明四年(1472)、教之は急ぎ伯耆に帰国すると尼子勢の侵攻に対した。翌年、教之が死去すると、嫡男の豊之はすでに死去していたため、守護の座をめぐって政之と元之とが家督を巡って対立した。その背景には打ち続く戦乱のなかで国人領主たちの自立化が進み、守護の威令が行なわれなくなったことにあった。この伯耆山名氏の内訌に際して南条氏は、元之を擁して政之と対立した。
 伯耆守護職は政之が任じられたが、元之を擁する国人領主たちの抵抗は続き、鎮圧に苦しんだ政之は但馬山名政豊の応援をあおいだ。そして、元之方の拠る法勝寺城は陥落、南条下総入道や赤松氏被官の中村五郎左衛門尉らが討死した。下総入道は但馬守宗貞の兄弟に比定されるが、その経歴は不明である。
 元之を擁する国人の反乱の背景には播磨・備前・美作の守護職を回復した赤松政則の暗躍があり、但馬守護山名政豊は播磨・備前を回復するため行動を起こした。しかし、播磨の回復がならなかったばかりか、国人衆・一族の離反を招いて領国経営に破綻をきたすようになった。これをみた元之の一派はふたたび放棄したが、南条氏らが討ち取られて元之は美作に奔って没落した。この一連の争乱が伯耆を一気に戦国時代へと押し流し、乱をしぶとく生き抜いた南条氏は守護山名氏に対抗する勢力に成長していた。

城址分布図 伯耆の擾乱

 十五世紀の末期、隣国出雲は清定のあとを継いだ経久が富田城に拠って一国を支配下に置くようになり、 十六世になると尼子勢力が伯耆にも伸長してきた。そのころ伯耆山名氏は守護職に任じる尚之と一族の澄之が 対立関係にあり「国総劇」と呼ばれる内乱状態にあった。山名氏すでに権威を失墜していて、 伯耆は南条・小鴨・山田・小森・行松らの国人領主が割拠する状況であった。このころ南条氏は宗元の時代で、 宗元はのちに入道して宗勝と号した。
 山名氏の内訌に乗じた尼子経久は澄之を支援するかたちで伯耆への進攻を繰り返し、澄之が尚之を倒して 守護職に就いたようだ。そして、大永四年(1524)五月、経久の大攻勢が行なわれて、倉吉打吹城主の 山名澄之をはじめ、尾高城主の行松入道、北条堤城主の山田氏、岩倉城主の小鴨氏、そして、羽衣石城主の南条宗勝らは 因幡山名氏、但馬山名氏らを頼って伯耆から没落した。世に「大永の五月崩れ」といわれる動乱で、 伯耆一国は尼子氏が支配するところになった。この尼子氏の侵攻によって神社仏閣などが焼失して数多の史料が失われ、 伯耆の戦国時代は分かり難い状況になったのだという。
 たしかに、経久の侵攻によって西伯耆の行松氏、村上氏らは国外に退去したようだが、東伯耆の南条氏、小鴨氏らは勢力を保持し美作の国人領主たちと結んで尼子氏に抵抗を続けたようだ。その後、尼子氏では晴久が家督を継ぎ、美作・播磨への侵攻を開始した。これに対して南条・小鴨・山田らの東伯耆の領主たちは連合して尼子軍に対した。その抵抗は五年にわたって続いたというが、尼子氏の強大な軍事力の前に南条氏は小鴨氏とともに屈服、堤城主の山田氏は但馬山名氏を頼って伯耆から退去していった。
 尼子氏に降った南条氏ら東伯耆衆は、天文九年(1540)、尼子晴久の安芸郡山城攻めに従軍して郡山城下で毛利勢と 戦った。しかし、晴久の毛利攻めは失敗に終わり、逆に大内義隆が尼子氏の居城月山冨田城を攻撃した。そのとき、 南条氏ら伯耆衆は大内氏に転じて先陣をつとめ、富田城攻めに従軍したことが知られる。文字通り、戦国乱世におけ る弱小豪族は強者に翻弄される辛い立場にあった。この大内氏の尼子攻めは失敗に終わり、東伯耆は尼子氏の勢力が 及び南条氏らは流浪の身となった。この一連の流れが「大永の五月崩れ」として脚色され、軍記物語などに 書き残されたものであろう。
 羽衣石城と領地を失った南条宗元のその後の動向は不明なところが多いが、残された文書などから、但馬山名氏を頼り、因幡の武田山城守らのもとにあったようだ。そして、毛利氏に通じる武田氏と尼子氏の対立が激化すると、宗元は因幡を離れて美作に移り、さらに播磨から安芸、さらに出雲を転々とした。こうして、宗元の流浪生活は二十年以上に及んだ。
・右図: 伯耆・因幡−国人・城址分布図


南条氏の生々流転

 宗勝が不遇をかこっている間に、大内義隆は陶晴賢の下剋上で殺害され、その陶晴賢を倒した毛利元就が尼子氏を 凌駕する勢力に台頭した。そして、備中の三村氏を支援して備中を支配下におき、因幡の武田氏、美作の草刈氏らと 結び、尼子氏をじわじわと追い詰めていった。さらに尼子晴久が死去したことで毛利氏の優勢は決定的となり、 永禄五年(1562)、南条氏をはじめ行松氏、山田氏ら伯耆の国人たちは毛利氏の援けをえてそれぞれの旧領に 復帰したのであった。そして、寺社への所領安堵を行なうなど所領支配に努め、翌六年には父親の三十三回忌 を営み、ほどなく髪をおろして宗勝と号したようだ。以後、南条宗勝は無二の毛利方として行動するようになった。
 やがて、因幡では山名豊数と武田高信とが対立抗争するようになると、毛利氏は高信を支援したため劣勢となった豊数は天神山城を逃れて鹿野城に立て籠もった。南条宗勝は山田重直とともに毛利軍に加わって鹿野城を攻撃、ついに山名豊数は没落した。その後、但馬山名氏が因幡に進攻してくると、宗勝は山田氏らとともに山名勢と対峙した。そして、永禄九年、月山富田城が陥落して尼子氏は毛利氏に屈服した。かくして、毛利氏は出雲を支配下におき、宗勝は羽衣石城主として東伯耆の支配を任せられたのであった。やがて、毛利氏と豊後大友氏の戦いが激化すると、宗勝・山田重直、日野衆ら伯耆の武士たちも九州へ出陣して大友勢と戦った。
 一方、毛利氏に降った尼子氏の残党は、山中鹿之助を盟主として尼子氏再興を図り、尼子勝久をかついで挙兵の機会をうかがっていた。そして永禄十二年(1569)、山陰の毛利勢が九州に出陣している留守をついて兵を挙げた尼子党は、但馬山名氏の応援をえて出雲へ侵攻した。尼子党には因幡や伯耆の国人らが味方して、岩倉城・八橋城など尼子方に落ちた。しかし、翌元亀元年(1570)、南条宗勝や西伯耆を任されている杉原盛重らが帰国して尼子方に反撃、次々と尼子党の城塞を攻略、翌年の夏ごろには尼子勢力は伯耆・因幡から一掃された。
 ところで、『伯耆民談記』によれば、元亀元年、宗勝は家督を嫡子勘兵衛元続に譲って隠居したとある。そして、天正三年(1575)、富田城に出仕して吉川元春に謁してのち杵築大社へ参詣、その帰途大山に登り、尾高城にも立ち寄って杉原盛重の饗応を受けて羽衣石城へと立ち帰った。その後、急病を発しついに帰らぬ人となった。死に臨んだ宗勝は、嫡子勘兵衛元続を始め次男小鴨左衛門尉元清三男九郎左衛門元秋等の一族を枕元に呼び寄せると、「毛利家に対し、等閑の所存ゆめゆめあるべからず、当家を再び引き興したること皆毛利家の恩誼なれば…」と毛利氏への忠誠を固く遺言したという。さらに、毛利家臣で羽衣石に派遣されていた山田重直に若き元続の後見を頼んだという。
 宗勝の死後、南条元続・小鴨元清兄弟は吉川元春・元長父子に忠誠を尽くすことを誓い、起血判請文を差し出している。同時に南条氏の一族、重臣ら一同も元続に対する忠誠と、吉川氏への忠誠を誓った。しかし、京を支配下においた織田信長の勢力が中国地方に及んでくると、因幡・伯耆・美作・備中など境目の領主たちには動揺が走るようになり、それは南条氏も例外ではなかった。
『羽衣石南条記』によれば、宗勝の父宗皓の没年を永正十一年(1514)としている。これが正しいとすると、永禄六年の法要は三十三年忌ではなく五十年忌に当たる。であるならば、長い流浪生活のなかで宗勝も老境にさしかかっていたことになる。


戦国時代の終焉

 天正元年、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした織田信長は、天正三年、長篠の合戦で甲斐武田氏を破ると、羽柴秀吉を大将として中国に兵を進めた。こうして、毛利氏は織田信長と鉾を交えるようになり、天正五年(1577)、羽柴秀吉の弟秀長が但馬に進攻した。しかし、播磨三木城主の別所氏が毛利方に転じて信長に反旗を翻したため播磨に兵を帰した。そして、播磨を平定すると、天正八年の正月、秀吉は弟秀長をふたたび但馬に出陣させ、みずからは伯耆・因幡へと兵を進めた。
 南条元続が毛利方から織田方に転じたのは、第二次但馬攻めが開始される前の天正七年の後半ごろであろうといわれる。元続の変心を察した山田重直は命の危険を感じて羽衣石城を脱出、堤城に逃れたが元続に攻められ、さらに鹿野城に奔って毛利氏への節を貫いた。のちに南条氏は滅亡したが、山田氏は長府毛利氏の重臣として続いた。なにやら、善き人には好い結果がもたらされる因果応報を感じさせることではある。
 元続の変節によって、麾下に属していた国人衆は織田と毛利とに分裂して対立するようになった。天正八年、羽柴勢が因幡に進攻してくると、元続は因幡の気多郡に出陣して羽柴軍に助勢した。羽柴勢に対する吉川元春は羽衣石城に対する攻撃を決意すると、杉原勢を先陣として押し寄せた。両軍は長瀬川を挟んで対峙し、やがて杉原勢の渡河によって激戦を展開、敗れた南条勢は羽衣石城に立て籠もって吉川勢の攻撃を防戦した。
 天正九年(1581)六月、羽柴秀吉みずからが因幡鳥取城に出陣、有名な鳥取城攻めが始まった。鳥取城の後詰に出陣した吉川元長は杉原らとともに羽衣石城に攻め寄せたが、南条勢も必死で吉抗戦、激戦が繰り返された。ついに南条方は吉川勢を羽衣石に食い止め、十月、鳥取城将吉川経家が自刃して鳥取城は落城した。元続らの奮戦によって吉川勢が鳥取城を救援できなかったことが、羽柴勢勝利の一因となったのであった。その後、羽衣石城は吉川勢に対する最前線となり、元続はみずから出撃するなどしながら吉川氏との対峙を続けた。翌天正十年六月、京の本能寺で織田信長が明智光秀の謀反で横死したことで、時代は新たな局面を迎えた。
 本能寺の変は南条氏にも影響を及ぼし、重臣の進藤・秋里らが山田重直に内通、おりからの祭礼に元続がでかけた留守をねらって山田氏を羽衣石城へと迎え入れたのである。城兵は抵抗したが、ついに元続らは僅かの従者とともに羽衣石から脱出していった。翌年、秀吉の後援をえて羽衣石城を回復した元続は、西伯耆に兵を進めるなどして領国の安定に努め、東伯耆を領有する豊臣大名の一員となったのである。
 以後、天下統一を進める豊臣(羽柴改め)秀吉麾下の大名として、天正十五年(1587)には九州島津攻めに出陣して感状を受ける戦功を挙げた。ところが、間もなく中風にかかり、天正十九年七月に病没した。そのあとは子の元忠が跡を継いだが、幼かったため叔父の小鴨左衛門尉元清が後見を務めた。そして、文禄・慶長の役に際しては小鴨元清が南条軍を率いて出陣し、秀吉の死後、無事に帰国を果たしている。

南条氏の最期

 秀吉の死後、豊臣政権は五大老筆頭の徳川家康派と奉行衆として政権を牛耳る石田三成派とに分かれて不穏な空気が漂うようになった。そして、慶長五年(1600)、関が原の合戦が起こった。三成から誘いを受けた南条元忠は、重臣を集めて南条氏の行く道を協議した。家中の意見は二つに分かれて紛糾したが、「西国の大名の多くが石田に味方するなかで、徳川方につけば、たちまち隣国の諸将の攻撃にさらされて滅亡は必至だろう」という意見を容れて元忠は石田方への味方と決し、伏見・大津城攻めに従軍した。
 結果は西軍石田三成の敗北に終わり、南条元忠も所領没収の処分を受けて南条氏は没落となった。『伯耆民談記』によれば、羽衣石城をはじめ出城のたぐい、南条氏ゆかりの神社・仏閣などすべて徳川方の手の者によって焼き払われたと伝えられる。
 その後、大坂の陣語こると元忠は旧臣とともに大坂方に味方して大坂城に入り、平野橋口の守備に任じたという。ところが、徳川方より伯耆一国を条件として裏切りを誘われ、それに応じた元忠は東軍方を招きいれようとしたところを見つかり、大坂城内で切腹させられてしまった。なんとも呆気ない最期だが、ここに南条氏の嫡流は滅亡したのであった。

参考資料:鳥取県史・鳥取県史タブレット・東郷町史・倉吉町史・日本城郭体系 など】

■参考略系図
・「羽衣石南条系図」をベースとして、「尊卑分脈」 「群書類従系図部」所収の佐々木氏系図などから作成。

・Ver.1 系図

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