中村氏
立沢瀉/梅鉢
(桓武平氏良文流 [異説多し] )
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大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。されど異説多く、或は佐々木氏の族、山崎の余流とも伝へ、藤姓と云い、平氏と云ふ説もあり」と記されている。橘姓、佐々木、藤姓、平氏と盛りだくさんなもので、古いむかしのことに関しては不明といったところであろう。
一方、『古代氏族系譜集成』所収の中村氏系図(参考系図参照)によれば、桓武平氏平良文流の中村庄司宗平の子二宮友平を祖としている。二宮氏は鎌倉幕府に仕えたが、二宮実忠のとき、鎌倉幕府が滅亡したことから甲賀に蟄居した。その子一宗は中村小二郎を称して宗良親王に仕え、一宗から六代目に一政があらわれ、その孫が中村一氏となっている。
ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。室町時代、六角高頼に属した多喜勘八郎俊兼は、長享の乱(1487)に活躍して甲賀二十一家の一に数えられた。多喜氏系図によれば、俊兼の孫馬杉秀信の子孫作がはじめて中村を名乗り、その子が中村一氏となっている。
伴姓中村氏参考系図
いずれが真実を伝えているのか、にわかには判じがたいが、のちのことから考えると甲賀説が有力に思えてくる。いずれにしても、中村氏は一氏の代に世にあらわれたことだけは史実である。
一氏の登場と活躍
中世、甲賀武士は近江守護六角氏に属しながら、甲賀郡中惣を形成してなかば自立した存在でもあった。六角氏が没落したあと、甲賀武士は織田氏に属するようになったようだ。天正十年(1582)六月、本能寺の変で信長が倒れると家康に通じる者、秀吉に通じる者など、思い思いの道を選んだ。やがて、天正十三年、秀吉の紀州攻めに甲賀武士も従軍したが、紀ノ川の堤防工事における失策を咎められて領地没収の処分(甲賀破儀)を受けた。秀吉にすれば、甲賀武士たちが家康方に通じた気配があったこと、郡中惣をもって自立意識が強かったことを嫌い、排除の機会を待っていたようだ。
一方、天正五年(1577)、羽柴秀吉に属した一氏は、大坂石山本願寺との戦いにおいて一躍名をあげ、次第に取り立てられた。天正十年、本能寺の変で信長が倒れたあと、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに活躍、天正十二年、一連の戦功によって和泉国岸和田城主に封じられた。翌十三年、秀吉の紀伊征伐が開始されると、紀伊の一揆勢が岸和田城に攻め寄せてきた。一氏は自ら討って出ると、大坂から駆けつけてきた黒田孝高と一揆を挟みうちにすると八百を討ち取る大勝利をえた。
紀州征伐後、近江水口六万石に転じられ従五位下式部少輔に叙任した。この人事は、甲賀破儀で甲賀武士を改易した秀吉が、かれらに睨みを利かせるため甲賀出身である中村一氏を起用したものであろう。一氏は水口東方にある小山に岡山城を築き、領内の安定に尽力した。
十四年には四国征伐に従軍して阿波木津城攻めに活躍、十八年の小田原攻めに際しては山中城攻めに先駆けをするなど目覚しい功を挙げ、駿河国府中十七万五千石の城主となった。『名将言行録』などによれば、小田原の陣後、北条氏の遺領を与えられた徳川家康に備える任を担ったとある。府中城に入った一氏は、舎弟一栄を沼津城に入れ、領国の守備体制を図るなどして秀吉の期待に応えている。
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写真:中村一氏画像
(東京大学史料編纂所データベースから)
中村氏の浮沈
文禄三年、伏見築城の工事を担当、翌年には秀吉の駿河直領(蔵入地)の代官に任じられた。このころ、稀代の英雄豊臣秀吉に老衰の色が見えるようになり、五大老と五奉行の制が設けられ、一氏は生駒親正、堀尾吉晴らとともに三中老として政事に参与した。しかし、中老職がどこまで機能したのかは疑問視されている。
慶長三年、秀吉が死去すると、その後の豊臣政権をめぐって大老の徳川家康と奉行の石田三成との対立が顕在化してきた。それに、加藤清正・福島正則らの武断派と石田三成を中心とする文治派との対立も激化、政情はにわかに波乱含みとなった。機を見るのに敏い一氏は家康に通じ、慶長五年(1600)、家康が上杉景勝征伐の陣を起こすと、その出陣を強く諌止した。しかし、家康は関東に出陣、その留守を突いて石田三成が兵を挙げた。
この関が原の合戦において、一氏は家康に味方したが自身は病気であったため、代わって弟の一栄が出陣した。そして、決戦前の七月に一氏は没し、あとを嫡男の一忠が継ぎ、戦後の論功行賞で伯耆米子十七万五千石の城主となった。一忠は松平の称号をゆるされて、秀忠養女をめとって室とするなど前途は洋々たるものがあった。
ところが、一忠の素行がおさまらず、心配して口うるさく諌める家老横山大膳を逆恨みにして、これを斬ってしまった。一忠の仕打ちに怒った横山一族は、飯山城に籠ると抵抗の構えをみせた。騒動は隣藩堀尾家の助勢などをえてどうにか鎮圧したが、両御所(家康・秀忠)の耳に入り、大いに気色を損じてしまった。そのような折もおり、慶長十四年(1609)、一忠が早世してしまったのである。一忠には男子がなく、大名中村氏は断絶、改易の憂き目となった。一説に、一忠には庶子があったというが、御所へのお目通りもしておらず、封を継ぐことはかなわなかった。一氏一代で大名となった中村氏は、わずか二代であっけなく潰えてしまった。
【参考資料:姓氏家系大辞典・寛政重修諸家譜・戦国武将総覧・日本城郭体系-11 など】
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