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武茂氏
三つ巴
(藤原北家宇都宮氏流)


    栃木県馬頭町の中心街に武茂城跡がある。武茂城は正応年中(1288〜92)に宇都宮景綱の三男泰宗が築城した。泰宗ははじめ盛宗を名乗ったが、築城に際し武茂常陸介泰宗と改め武茂庄十余郷を領した。
 泰宗の長子時景(時綱)は美濃守に任じ、次子景泰は京都守護職に任ぜられて京都・烏丸に住んだ。景泰の子宗泰は、伊予大洲宇都宮氏の二代城主となっている。時景には五人の男子があり、長子泰藤は南北朝動乱期に際して新田義貞の旗下に馳せ参じ、一貫して南朝方として活躍しその武名を天下に輝かせた武将であった。次男師泰は高尾明神の神官となり、三男泰朝は上三川安芸守の家を継ぎ、四男の氏泰は初め狩野郷を領して狩野将監と号した。五男泰景は大山田郷を領して大山田左京亮を称している。

武茂泰藤、南朝方として活躍

 泰藤は乾元元年(1302)、武茂時景を父に芳賀高貞の女を母として生まれた。高貞は宇都宮八代貞綱の嫡子として生まれたが、長じて芳賀氏を継いだ人物である。芳賀氏は本姓清原氏で、真岡の芳賀郷に住したことから芳賀氏を名乗った。芳賀氏は芳賀郡益子郷に居を構えた益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれ、宇都宮氏の両翼をになった。また、宇都宮七代景綱の四男高久が芳賀氏を継ぎ、さらに高貞がふたたび宇都宮氏から出て芳賀氏を継いだことに成る。ちなみに高久は武茂氏の初代泰宗の弟でもあった。
 こうして、芳賀氏は主家宇都宮氏と姻戚関係を結び、主従の関係を超えて宇都宮氏の一族・一門化することによってその勢力を拡張し、他の家臣を圧倒する地位を確保するに至った。やがて、武茂泰藤が宇都宮家中の最強軍団である「紀清両党」を率いて、南北朝動乱期に活躍するにいたったのも、芳賀氏との強い結びつきがあったからであろう。
 泰藤は、新田義貞の鎌倉攻めの挙兵に従って以来、義貞が越前藤島において戦死するまで終始行動をともにした。延元三年(1338)に義貞が戦死すると、義貞の弟、脇屋義助は新田義治・泰藤をはじめとする残存した新田軍七百余人を収めて越前の国府に撤退した。その後、北陸では足利軍が次第に優勢となり、新田軍の拠点は次々と陥落し、義助・泰藤らは越前から美濃に出て根尾城にこもって戦ったが、興国二年(1341)九月落城した。
 義助は、尾張・伊勢・伊賀を通って吉野に潜行し、その後、伊予国に下って兵を集め足利軍をおおいに悩ませたが、武運つたなく伊予の国府において病死した。一方、泰藤は尾張で脇屋義助と分かれて三河国和田郷に入り、上和田郷に城を構えて再挙を図った。泰藤は上和田城を築いたのち、四囲に呼び掛けて南朝勢力の挽回に努めたが、南朝の衰退はいかんともなしがたい状況であった。その後、岳父にあたる美濃の土岐頼直の勧めもあって、泰藤は法華宗に帰依し蓮常と称した。そして、正平七年(1352)三月、五十一歳をもって病死した。

泰藤後の武茂氏

 泰藤の後は、泰綱・泰道・泰昌・昌忠・忠与と続くが、泰昌の代に三河松平郷に住みつき、その子昌忠は、まだ名もない一土豪にすぎなかった松平信光に仕えて名を大久保氏と改めている。以来、徳川譜代の家臣として数々の合戦に戦功をたて、近世大名大久保氏として存続した。
 一方、武茂氏の嫡子である泰藤が南朝方に尽くして異郷で病死したあとの武茂家督は、泰藤の弟である氏泰が継いだ。氏泰も兄泰藤とともに南朝方に尽くしたが、義貞の戦死後、兄と別れて下野武茂郷に帰り武茂城にあって領地の支配にあたったようだ。その後も南朝方として行動したようだが、やがて四囲の状況、南朝方の衰退などから、北朝・足利方に従属する結果になったと考えられる。
 氏泰には二男一女があり、家督は長子の綱家が継ぎ、弟の泰長は常陸国鳥子を領し、女子は横田綱業に嫁いだ。綱家の長子持綱は本家宇都宮満綱の養子となって、応永十四年(1407)、宇都宮氏の家督を相続し、弟の賢珍が出家したため武茂氏は一時断絶となった。
 その後、永正三年(1506)に至って持綱の孫にあたる芳賀成高の子正綱が武茂太郎と称して武茂氏を再興した。しかし、正綱は寛正四年(1463)宇都宮明綱の死後の宇都宮氏を継いだため、正綱の三男兼綱が武茂氏を相続、中興武茂氏は一万石の領主となった。この兼綱の代に武茂城が修復整備されたようである。

佐竹氏の麾下に属する

 兼綱の時代になると、常陸の佐竹氏が強大化しその勢力が武茂地方に及んできた。天正年中(1573〜91)、守綱は常陸の佐竹義久が佐竹義重の命を受けて武茂城を攻めようとしたとき、老臣の北条義興を義久の陣中に遣わして佐竹の矛先を無事に収めた。これを契機として守綱は佐竹氏に属したようで、天正十一年(1583)守綱は一族の大山田綱胤、鳥子泰宗らとともに那須資晴と久那瀬の愛宕山で戦い、守綱の家臣星豊前守らの奮戦で、資晴の軍を打ち破った。守綱とその跡を継いだ豊綱の時代は、那珂川対岸の那須家との間に領地争いで合戦が絶えず、それにまつわる伝説がいくつか残っている。
 その一つに、天正十年(1582)、那須資晴が五百騎を率いて大桶に陣を張り、武茂城を攻めた。守綱親子は鉄砲を打ちかけて防いだが、那須方の大関高増・芦野資泰の二大将は二百余騎を従えて天神の森に陣取り、一斉に町家に火をつけた。町人は驚き、逃げ回るのを大関方の手勢が追いかけ、地蔵院まで乱入した。
 このとき、守綱は部将の北条守直を召し出して「那須勢が町家に放火し、寺内に乱入した。苦戦したのは加勢が遅かったためで、これは通報の鐘の音が小さかったからである。東光寺の鐘は百里に響くから、その鐘を運んで、城の非常の時に使う鐘にせよ」と、命じた。守直は「ごもっともながら、東光寺の鐘は平城天皇の御代、弘法大師ゆかりの鐘で、これを奪うことは恐れ多いこと。先に御尊父兼綱公もやはり鐘を望まれたが、鐘は不思議に動かなかった」と告げたが、守綱は聞き容れず、守直は仕方なく東光寺へ登り、主君の命を住待に伝え、人夫を集めて鐘を運ばせようとした。
 ところが、内上野というところで鐘はピタリと動かなくなった。守直は不思議に思いながら守綱に伝えると「上野の地を薬師如来に寄進せよ」という命令。このため住持も堂に一夜籠って祈念したところ、動かなかった鐘は軽くなって武茂城に無事運ぶことができたという。

佐竹氏に従って、秋田に移住

 さて、豊綱は那須氏内応の讒言などもあり、文禄三年(1594)の太閣検地にもとずき、翌文禄四年常陸の久慈郡大賀村に知行替えとなった。その後の武茂城は佐竹氏の臣太田五郎左衛門が守った。そして、関ヶ原の役に西軍となった佐竹氏は、慶長七年(1602)秋田に移封され、武茂豊綱もこれに随って秋田に移った。以後、武茂氏の歴史は秋田において続くことになった。
 いま、武茂城の麓には武茂兼綱が開基した武茂氏の菩提寺乾徳寺があり、本堂裏の墓地には武茂氏歴代の墓が残っている。


■参考略系図


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