毛呂氏
丸の内に二つ雁金
(藤原北家長良流) |
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毛呂氏は藤原北家の流れで、中世、武蔵国入間郡毛呂郷の在地領主であった。『毛呂流大谷木家系図』によれば、太宰権帥藤原季仲の子周防前司季清が毛呂郷に移り毛呂冠者を称したとみえている。季清の毛呂土着には、武蔵七党の一つである丹党との婚姻関係があったようだ。毛呂冠者季清の子が毛呂氏の基盤を築いた毛呂太郎季光である。
季光は源頼朝に仕えて、奥州合戦への参陣・頼朝の上洛に供奉にするなど、側近として活躍した。『吾妻鏡」』には「心操尤穏便也、相叶賢慮歟」とあり、その人柄と力量をもって頼朝から篤い信頼を受けた。そして、源氏一門に準ずる待遇を受け、豊後守に補任され、毛呂郷の地頭職を安堵されたのである。季光の子季綱も頼朝に近侍、建久四年(1193)、比企郡の泉・勝田の地を賜っている。
季光・季綱父子ののち、毛呂の動向は知られなくなる。おそらく、北条氏の執権政治が確立されるとともに、多くの御家人と同様に勢力を失っていったものであろう。とはいえ、毛呂郷に拠って鎌倉時代から南北朝の動乱時代を生き抜いた。室町時代になると、武州北一揆の構成メンバーの一人に毛呂三河守がみえている。
乱世の関東に生きる
室町時代の関東は、幕府の関東支社ともいうべき鎌倉府によって治められていた。しかし、鎌倉府の主である鎌倉公方はややもすれば京の幕府と対立することが多く、それを管領上杉氏がよく制御した。しかし、足利持氏が公方になると、幕府との対立が深刻化し、それが管領上杉氏との対立に発展、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦と戦乱が続発した。
持氏の滅亡後、その遺児成氏が新公方となったが、成氏も上杉氏と対立して享徳の乱が起こった。以後、関東は動乱が止むことなく続き、確実に戦国時代へと推移していった。やがて事態は、管領山内上杉氏と一族の扇谷上杉氏の対立へと動いた。毛呂顕繁(顕重)は山内上杉氏に属し、永正元年(1504)の立河合戦に出陣、奮戦したという。戦後、顕繁は戦没者の供養のために念仏鉦をつくったと伝えられている。
伝統勢力である公方足利氏、管領上杉氏が慢性的な戦いを繰り返している間隙をぬって、新興の北条氏が相模から武蔵へと進出してきた。大永四年(1520)、北条氏綱が扇谷上杉氏を逐って江戸城を奪うと、顕繁はいち早く北条氏の傘下に参じた。
毛呂氏の北条氏への服属をみた管領山内上杉憲政は、扇谷上杉朝興とともに上州兵を率いて毛呂に侵攻、毛呂要害に制裁的攻撃を加えた。北条氏綱はただちに救援の兵を送り、小競り合いがあったが、結局、毛呂城は開城して和議が成立した。毛呂合戦と呼ばれる戦いで、北武蔵が北条氏勢力下に組み込まれていく画期となる事件であった。
北条氏の麾下に属した毛呂氏は、越生の報恩寺・安楽寺・医王寺に保護を加え、毛呂館の近くに長栄寺を開基するなど、着々と在地領主としての立場を強化していた。顕繁のあと、土佐守顕季、大膳・土佐守秋重と続き、北条氏に属して各地を転戦した。
天文二十一年(1552)、上杉憲政が越後の長尾景虎(のち上杉謙信)を頼って関東から落去すると、北条氏の勢力が関東を被うようになった。しかし、永禄三年(1560)、上杉憲政を擁した長尾景虎が関東に出兵してきた。以後、北条氏と上杉氏の対立を軸に関東の戦国時代は推移することになる。永禄四年春、長尾景虎は長駆して、小田原城を包囲、攻撃した。このとき参陣した関東諸将の幕紋を記録したのが『関東幕注文』で、足利衆に「毛呂安芸守 かりかね」、勝沼衆に「毛呂 かりかねのもん」と記されている。これら毛呂氏は同族と思われ、北条氏に属した毛呂氏以外に、毛呂一族が自立した動きをしていたことが知られる。
戦国時代の終焉
関東で北条氏と上杉氏が抗争を繰り返しているころ、中央では織田信長が天下統一に向けて邁進していた。天正六年(1578)、上杉謙信が死去、天正十年には甲斐武田氏が滅亡した。こうして、滝川一益が関東管領として厩橋城に入城、織田勢力が関東に伸張してきたのである。
ところが天正十年六月二日、本能寺の変が起こり、織田信長が殺害された。神流川の戦いで滝川一益を破った北条氏は、関東の統一に向けて北関東に兵を発した。一方、中央では明智光秀、柴田勝家を滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉が天下人に躍り出た。北条氏は秀吉への外交を誤り、天正十八年(1590)、秀吉の攻撃を受けに至った。
この小田原北条氏攻めに際して、毛呂土佐守秋重は北条氏に味方して八王子城に籠城、豊臣勢の攻撃の前に一族とともに討死した。ここに、鎌倉時代より毛呂を支配した毛呂氏の在地領主としての歴史は幕を閉じたのであった。その後、毛呂土佐守秋重の後裔は徳川家に召されて旗本として存続、秋重の弟秋綱の流れも大谷木氏と改め、宗家と同様に徳川家旗本として続いた。・2007年04月24日
【参考資料:毛呂山町史史料集/埼玉叢書 ほか】
■参考略系図
・毛呂山町史史料集に収録された「大谷木家系図」から作成。
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