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宮部氏
●橘菱/桐
●桓武平氏土肥氏一族?
・桐紋は継潤を祀る御霊神社の神紋、橘菱は南部家に仕えた宮部氏の家紋という。
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宮部氏は北近江の浅井郡宮部が名字の地と思われ、戦国の風雲に乗じて大名に出世した善祥坊継潤が知られる。善祥坊継潤は桓武平氏土肥氏の後裔で坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子に生まれ、浅井郡宮部村の湯次神社の社僧善祥坊清潤の養子になったという。善祥坊清潤は、文明のころ(1469〜87)『蜷川親元日記』に湯次下庄の庄司としてみえる善祥坊全潤の後裔と思われる。
宮部氏の出自に関する異説として、『古代氏族系譜集成』に収録された「近江中原氏系図」のなかに継潤の名がみえる。それによれば、井口越前守経尚の子左衛門尉直政が「宮部」を称し、その孫にあたる善兵衛定豊の養子として継潤が記されている。井口氏は江北富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。その井口氏の一族が宮部に住して、宮部を称した可能性は十分ありえるが、『集成』の系図をそのまま信じることもできない。
いずれにしても、江北浅井郡の一角を領した土豪宮部氏を継いだ継潤が、その才覚と武略をもって一代で大名に成長したことだけは間違いのないところだ。
宮部継潤の出世
幼名孫八といった継潤は、天文九年(1540)九歳の時、比叡山に上り西堂の行栄坊で修行、剃髪して継潤と称した。その後、二十歳になって宮部に帰り清潤の跡を継ぎ、湯次神社の社僧となった。やがて、湯次神社近くに鎮座する宮部神社を修築して城塞化、土豪として自立したのであった。そして、小谷城に拠って威を振るう江北の戦国大名浅井長政に仕えた。
永禄十年(1567)、浅井長政は尾張の織田信長と同盟を結びその妹を室に迎えた。翌十一年、織田信長が上洛の軍を起こすとそれに協力して、対立する江南の六角氏を没落に追い込んだ。浅井氏の立場は磐石になったかと思われたが、元亀元年(1570)、信長が越前朝倉氏を攻めたことで暗転する。すなわち、長政は朝倉氏との関係を重視する父久政らに押されて信長と袂を分かったのである。そして、信長を窮地に追い込んだが討ち取るまでには至らず、同年六月、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の合戦が行われた。結果は浅井・朝倉連合軍の敗北となり、長政は織田氏の攻勢に晒されることになったのである。
善祥坊継潤は長政に従って織田勢との戦いに活躍したが、元亀二年、羽柴秀吉の調略に応じて浅井氏を裏切った。織田方となった継潤は、かつての同僚野村兵庫が守る国友城を攻撃した。しかし、継潤の背反行為に憤慨する兵庫は姉川を渡ると宮部勢を迎撃、馬上で指揮をする継潤を狙撃させた。股を打ち抜かれた継潤は落馬、危ういところを脱出するという始末で、国友城の攻撃は失敗に終わった。翌年、浅井長政は朝倉氏と謀って、浅井井規を先鋒として宮部城に攻め寄せた。継潤は防戦につとめたが苦戦に追い込まれていったが、秀吉勢が援軍に駆け付けたことで、継潤は城から打って出ると浅井・朝倉連合軍を撃退したのである。
このように、善祥坊継潤の拠る宮部城は小谷城攻めの重要拠点として機能し、継潤も最前線にあってよく信長の期待に応えたのであった。
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宮部継潤が居城に修築して拠ったという宮部神社は、宮部の地を開発した秦氏が建立したもので、天之御中主命神を祀り神紋は巴となっている。境内は意外と小さいが、周辺の集落も取り込んだそれなりの規模の平城であったようだ。また、神社のまわりには往時の壕跡かと思わせる水路が走っている。
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宮部神社の西方に、継潤が養子に入ったという湯次神社が鎮座している。意外に小さな神社で、神紋と思われる「波切り車」があちこちに据えられていた。一つの可能性として、湯次社僧宮部氏は「波切り車」を紋として用いていたとも考えられる。湯次神社本殿裏には、誰の者とも知れない古い墓石が風化しつつ祀られていた。継潤が一時領した但馬豊岡にはかれを祀る御霊神社があり、神社からすぐの来迎寺には継潤四百年祭の記念碑が建立されている。
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天正元年(1573)八月に小谷城が落城、浅井氏の旧領は秀吉が与えられ、秀吉は長浜に城を築くと家中の知行割りを行った。このとき、継潤は三千百石を与えられている。その高は秀吉の弟秀長の八千五百石、浅野長政の三千八百石、蜂須賀正勝の三千二百石に次ぐものであった。また、秀吉の甥(後の豊臣秀次)を一時期、養子としていたこともあり、秀吉が継潤を重要視していたことがうかがわれる。
その後、秀吉が播磨攻めの大将として出陣すると、継潤もそれに従い、各地を転戦。天正八年(1580)戦功により、但馬豊岡の地を与えられた。そして、因幡鳥取城が陥落すると、鳥取城預けられ戦後処理にあたった。天正十年、本能寺の変で織田信長が死んだ後、にわかに天下人に出頭した秀吉のもとで、正式に鳥取城主となり五万石を領した。天正十五年、九州征伐に出陣し、日向高城の戦いにおいて根白坂砦を守り、島津勢の猛攻をよく撃退している。慶長元年(1596)、高齢を理由に家督を養子長房(長熙)に譲って隠居、秀吉の御伽衆として側近くに仕えた。慶長三年に秀吉が死去すると、翌四年三月、秀吉のあとを追うかのように死去した。
余談ながら、継潤が一時領した豊岡では、領民が継潤を祀る御霊神社を建立してその徳を慕っている。このことは、継潤が武略だけではない治世家としても非凡な人物であったことをうかがわせる。
宮部氏没落、南部で再起する
継潤のあとを継いだ長房は、父とともに秀吉に仕えて信任もあつく、豊臣姓を与えられるほどであった。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いが起ると長房は家康方に与したが、のちに西軍に転じ、伏見城の戦い、大津城の戦いに参加した。その結果、所領没収の憂き目となり、その身は石川貞清らとともに南部利直に預けられた。晩年、長房はみずからの寝返りはもと宮部氏の家臣であった田中吉政の陥穽にはまったためとの書状を幕府に提出したが、ときすでに遅く、寛永十一年(1634)盛岡で没した。
長房には左衛門尉長之、兵蔵長邑らの男子があったといい、長邑があとを継ぎ、寛文七年(1664)、二代将軍秀忠の十七年忌の大赦によって赦免となり南部家に出仕して六百六十六石を宛行われた。以後、子孫は名字を多賀と改め南部藩士として続き、図書長英、その子頼母長郷は南部家の家老をつとめている。明治維新後、宮部姓に復し、子孫は現代に続いているという。
ところで、宮部氏はどのような家紋を用いたのであろうか。『宮部善浄坊継潤公』には、「橘菱」と御霊神社の神紋の「五三の桐」が掲載されている。「五三の桐」は秀吉から拝領したものと思われ、「橘」が宮部氏の用いた家紋ではなかったろうか。以下、想像だが、南部に配流されのちに南部氏に仕えて家老も務めた宮部氏は、南部氏から菱紋の使用を許された。しかし、畏れ多しとして「橘」を菱形として「橘菱」を用いるようになったのではないだろうか。ちなみに、浅井郡に鎮座する宮部神社の神紋は「巴」で、継潤の実家土肥氏も「巴」を用いており、継潤が「巴」を用いた可能性も捨て難い。・2007年04月24日→2008年03月05日
【参考資料:戦国大名370家出自事典/宮部善浄坊継潤公/東浅井郡志 ほか】
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