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益子氏
三つ巴
(紀朝臣姓)


 益子氏の出自については、『下野国誌』所収「益子系図」には、紀古佐美の十五代の孫紀貞頼が常陸国信太の郡司となり、その嫡孫紀正隆が康平年間(1058〜64)に益子那流山の山麓に益子城を築き、のち山上に住したとある。紀正隆については、『宇都宮志料』に、藤原秀郷が築いた宇都宮城を秀郷の子孫が継承していたが、のちに紀重政、同重邦、そして正隆が城主となり、正隆はその女婿宗円に宇都宮城を譲って益子に移ったとみえていて、宇都宮氏の祖宗円と深い関係をもっていたことが知られる。
 ところが、益子吉蔵家所蔵系図では、紀貫之の七代の孫で、常陸国河内郡小田の住人仲之の子之宗(行宗)が天仁三年(1110)、独鈷山那流峯に築城し、永久元年(1113)に益子氏を称したとあり、之宗の姉を宗円の室、之宗の子息を紀正隆の女婿としている。すなわち、之宗を宇都宮宗円、紀正隆とほぼ同時代の人としていて、『下野国誌』の記述とはややずれがある。
 二つの系図について共通している点は、益子氏が古くから紀氏を称し、常陸国の出身で、宇都宮宗円の下野進出と深い関係を持っていたとするところである。
 いずれにしろ、紀姓益子正隆が、外孫である宗綱が宇都宮宗円の養子となり、宇都宮氏に入ってから益子における支配力を強大化させた。こうして、宇都宮氏家中にあって、芳賀城の清原氏の『清党』と並んで、益子氏の『紀党』は天下にその名を轟かす武士団に成長していくのである。

紀清両党の一翼を担う

 文治五年(1189)頼朝が奥州藤原氏征伐の軍を起こすと、正隆の孫正重は、宇都宮朝綱の郎等として従軍し、芳賀次郎大夫高親とともに抜群の武功を顕わしている。この時、頼朝から源氏のシンボルである白旗一流ずつを贈られた。これが、紀清両党の勇猛を輝かす第一歩にもなった。
 以来、鎌倉時代から南北朝時代にかけ、宇都宮氏の幕下となって必ず紀清両党はこれに従い、各地で武勲をたてたと伝えられている。 南北朝の動乱期、関東での南朝方の劣勢を挽回すべく暦応二年(1339)北畠親房は公家武将の春日顕時を常陸国関城に派遣。顕時は関城を拠点として下野に侵略、益子氏の居城である西明寺城、八木岡城、上三川城を攻め落した。このころ、益子氏の主力は北朝方に従って各地を転戦しており、その留守を突かれた悲劇であった。
 文明九年(1477)宇都宮正綱は古河公方成氏の命を受け上野の白井に出陣し、上杉憲政の軍勢と戦い、川曲の陣中で病死。益子唯正・延正父子は正綱に従って戦ったが、上野の川曲で討死した。

東国の戦国争乱

 延正の曾孫勝宗は、天文十五年(1546)宇都宮氏に背いて、結城氏麾下の水谷氏に属し、下館に居住した。その前年の三月、勝宗は兄勝家父子を討ち城主となった。さらに勝宗は、永禄二年(1559)七井の矢島城を陥落させ、天正四年(1576)新たに七井城を築いて五男勝忠を城主にした。勝宗もこの年、高館城を修築して居城とした。
 これより前の天文八年(1539)、芳賀高経は壬生綱雄らと謀って、宇都宮忠綱の遺児を宇都宮城主にしようとしたが、宇都宮尚綱は飛山城を急襲して高経を自害させた。芳賀氏を討った尚綱は、益子勝宗の三男に芳賀氏の家督を継がせ、高定と名乗らせた。高定は高経の遺児三郎を引き取って養育している。
 勝宗の嫡男信勝は那須の大関氏に仕え、家督を継いだ安宗も重臣加藤上総の讒言で幽閉された。安宗のあとは、家宗(君島高胤の次男ともいわれる)が家督を継いだ。この家宗が家督を継いだことから周辺諸氏との争いが激しくなった。
 家宗は、天正九年(1581)境を接する笠間綱家と戦い、同十一年結城晴朝の仲裁を拒否した笠間勢を、結城氏の軍とともに大いに打ち破った。同年真岡の西の台に軍を進め芳賀氏と戦っている。天正十二年、北条軍の下野侵入の際、宇都宮・佐竹勢と結城氏の連合が成立したにもかかわらず、益子氏一族の積極的な軍事行動が展開された。
 天正十二年、七井城主益子勝忠は宇都宮国綱に叛いて戦い、尾羽寺で毒殺されてしまった。子の忠兼は天正十四年、茂木山城守と新福寺に戦って敗れ討死。益子家宗は復讐をはかり、結城晴朝に千貫の地を献じて後詰を頼み、翌年九月、茂木の佐夫良峠に攻め寄せた。矢口台に陣を敷いた益子・結城の軍勢は、茂木治良率いる軍に敗れて退却した。茂木氏はすでに佐竹氏に属していたから、この紛争は、佐竹・宇都宮の同盟に反する戦いであった。

笠間氏との抗争

 ところで、天正十一年(1583)、益子重綱は宇都宮氏の一門である笠間幹綱を攻めて敗戦している。笠間領と益子領は隣接していることから紛争が絶えなかった。このころ宇都宮氏では、当主国綱が幼少であったため、重臣芳賀氏が後見して家政を執っていた。これに対して、益子氏は不満をもち、ついには重恩ある宇都宮氏を叛いたのだという。重綱を庇護した結城晴朝は、加藤大隈守父子を大将に兵を派遣した。これを迎え撃ったのはが笠間幹綱であったが、将の谷中玄蕃允を討ち取られる敗戦を被った。
 笠間氏は益子氏に対して弔い合戦の作戦を立て、谷中玄蕃允の一周忌を期して、玄蕃允の嫡男孫八郎を先陣に、家老の江戸美濃守を後楯とした益子討伐軍を出陣させた。討伐軍は、益子方の要害富谷城を一気に乗っ取る計略を立て、城に近付いた。一方、富谷城からは五〜六百人の兵が出動した。これに対して、孫八郎軍は一斉攻撃を行い、浮き足立った益子勢を散々に打ち破り、弔い合戦は大勝利に終わった。「益子系図」によれば、この合戦で益子重綱が捕らえられたようにも記されている。
 益子勢が敗れたことを知った結城晴朝は、家老で下館城主水谷勝敏に命じて笠間氏を攻撃させたことが「磯辺由緒書」にみえている。また、「宇都宮文書」によれば、宇都宮国綱が益子氏を攻めて滅ぼしたともある。
 益子氏の系図は諸本が伝わり、それぞれ人名が異なっている。笠間氏と戦った重綱は既述した家宗の弟とする系図があり、栃木県史にみえる「益子氏系図」では、茂木山城守と戦って討死した忠兼は家宗の従兄弟とみえ重綱の名は記されていない。戦国末期に滅亡した益子氏の系図が混乱しているといわざるをえない。戦国期の武将の多くはいくつかの名乗りを持っている例が多いことから、家宗と重綱とは同一人物であったとも考えられる。

益子氏の滅亡

 さて、通説によれば、天正十二年、七井城主益子勝忠は宇都宮国綱に叛いて戦い、尾羽寺で毒殺されてしまった。子の忠兼は天正十四年、茂木山城守と新福寺に戦って敗れ討死。益子家宗は復讐をはかり、結城晴朝に千貫の地を献じて後詰を頼み、翌年九月、茂木の佐夫良峠に攻め寄せた。矢口台に陣を敷いた益子・結城の軍勢は、茂木治良率いる軍に敗れて退却した。茂木氏はすでに佐竹氏に属していたから、この紛争は、佐竹・宇都宮の同盟に反する戦いであった。
 宇都宮国綱は、天正十七年、芳賀高武・多功綱継・笠間綱家.塩谷由綱らと密かに謀って家宗を攻め、ついに家宗は討死、益子氏は滅亡した。これは、益子氏が後北条氏に内通し、笠間氏・芳賀氏の領地を侵略したことへの誅伐であったという。『下野国誌』には、同年三月、宇都宮氏に背いて討死したとある。
 なお、益子系図には家宗が天正十七年、大坂に上って、宇都宮国綱の養子をめぐって、芳賀氏と争って敗れ、流浪し、のち浅野長政の客となったとあり、勝宗の没年を文禄二年(1593)としている。いずれにしろ、勝宗の代で平安時代より連綿と家系を紡いできた益子氏が没落したことに変りはない。

参考資料:益子町史/茂木町史/栃木県史 ほか】



■参考略系図
益子氏の系譜には諸説・異本があり、にわかにその真偽を詳らかにすることが難しい。ここでは、「古代氏族系譜集成」掲載の系図を基本にして作成したものを掲載した。  
  


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