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間宮氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
平四つ目結とするものもある。


 間宮氏は近江の出身で、宇多源氏佐々木氏の分かれという。佐々木氏の場合、源頼朝に仕えて活躍した高綱らの兄弟が知られるが、間宮氏の先祖といわれる佐々木氏は佐々木神社神主家の方である。すなわち、佐々木兵庫助経方の子萬石行定の子行範が間宮氏の直接の祖といい、行範の孫にあたる時信は船木六郎を称し、信時の五代の孫信冬が間宮新左衛門尉を名乗ったのが間宮氏の始まりである。
 間宮氏発祥の地は伊豆国田方郡間宮村というから、信冬は近江より伊豆に下り間宮氏を称したということになる。そして、その時代は系図から見る限り、南北朝時代のことであったと想像される。その後、間宮氏は相模・武蔵に移ったとされるが、その間の歴代の事跡に関しては詳らかではない。

間宮氏の登場

 戦国時代の永正年間(1504〜20)の初め、小田原を本拠に勢力を武蔵に伸ばし始めた北条早雲(伊勢宗端)は、関東管領上杉氏の軍と戦いつつ、永正七年現在の横浜市域に侵入した。そして、同年七月、管領上杉憲房の家臣であった上田蔵人政盛を味方につけ、援軍を送って上杉氏に対して謀叛を起こさせた。
 憲房はただちに成田・渋江・藤田・大石氏らの兵二万騎を動員し、上田氏の居城である権現山城を攻撃した。上杉氏の大軍に対して上田政盛は果敢に戦い激戦が展開されたが、衆寡敵せず、上杉勢は権現山城に攻め込んだ。そのとき城中より「われこそは、神奈川の住人間宮の某」と叫びつつ上杉勢に突入した勇ましい武士がいた。この間宮某こそ、間宮氏のなかで史料的に裏付けられる初めの人物である。この間宮某は、信冬もしくはその子の芳彦四郎信盛と伝えられ、川崎の堀之内城にいて北条早雲が相模東部に進出すると、いち早くその家臣となったものである。ただ、信冬と信盛の間には系図上に断絶があり、間宮某は信盛であり信冬の血脈に連なる人物であろう。
 北条氏に仕えた間宮氏は笹下城を居城としことが知られる。笹下という地名は、佐々木をのちに佐々気と書き、さらに佐々下=笹下と転訛したのだという。佐々木間宮氏は古くから鎌倉周辺に居住し、戦国時代に笹下に本拠を移し勢力を拡大していったのだともいう。ちなみに、現在の鶴見区下末吉にある宝泉寺は永正五年(1504)に間宮信冬が開基したと伝え、永禄二年(1559)に成立した『小田原衆所領役帳』に、信冬の子孫にあたる康俊が末吉を知行していることから、この伝えはほぼ信頼していよいものであろう。
 杉田の東漸寺にある『間宮教信覚え書』には、永正年間に信冬の子信盛が杉田郷へ移ったとある。おそらく、信盛は権現山城の戦いののち、杉田に落ち延びたのであろう。
………
・図は『神奈川砂子』の権現山城の戦いの図に見える間宮彦四郎。旗指物に「目結紋」が描かれている。


間宮氏の勢力拡大とその後

 大永年間(1521〜27)になると横浜市域は完全に北条氏綱の支配下となり、北条氏に仕えた間宮氏の勢力も磯子区域に伸張していった。信盛の子信元は天文年間(1532〜54)に笹下城を築き、東樹院を再建し、若宮八幡宮・安房洲神社・御霊神社を城の近くに創建した。
 間宮氏は信盛ののち、杉田間宮・笹下間宮・氷取間宮などの系統に分かれた。信盛のあとを継いだのは嫡男の康俊で豊前守を称し、玉縄城の北条綱成に属して重臣の一人に列した。康俊の知行は『小田原衆所領役帳』によれば、笹下城を本拠に、杉田・小雀・末吉・川崎、さらに遠く国分・富屋・不入斗などが知られる。当時の貫高制に換算して七百貫で、軍役高にすると足軽も含めて約二百人で、北条家中の中堅武将に位置していた。
 康俊には綱信・信俊・信吉の兄弟があり、綱信は分家して氷取に住んで氷取間宮氏の祖となった。これら間宮一族は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻撃に際して、北条氏に属して箱根峠の中山城で奮戦し、康俊は討死を遂げている。
 北条氏が小田原城を開城したあとの間宮一族はそれぞれ独自の道を歩んだ。ちなみに康俊の娘おひさは徳川家康の側室となり、その縁からか康俊の孫の直元・高則らは徳川旗本に取り立てられ、また、康俊の弟綱信の子正重・重信らも徳川家臣となった。北条氏の家臣としては珍しいケースで、それぞれの子孫は中里・杉田・氷取沢に陣屋を構えてそれぞれ繁栄した。
 間宮氏では樺太探検で有名な間宮林蔵がいる。林蔵の間宮氏は北条氏没落ののち、常陸国筑波郡に住んだ間宮氏の後裔という。加えて、『解体新書』を著した蘭学医の杉田玄白は、小田原開城後橘樹郡菅生村に住んだ杉田間宮氏の後裔といわれる。

参考資料:図説:横浜市の歴史・神奈川県姓氏家系事典・佐々木氏族の系譜  ほか】


■参考略系図
・初期の部分は『系図纂要』『佐々木氏族の系譜』、信盛以後は『寛政重修系譜』などから作成。信冬と信盛の関係は父子とするものがあるが、その間に断絶があったとするものもあり真偽は不詳である。  


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