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万喜土岐氏
桔 梗
(清和源氏土岐氏流)


 安房国は、源頼朝の鎌倉幕府開幕以来、室町期に至るまで、安西・神余・丸・東条の四氏が支配してきた。明応四年(1495)八月、安西三郎は安房にも及んできた乱世の波に乗じて、客分としてあった里見義実を先鋒大将に命じて、神余・丸・東条の各氏を討ち、安房の大守となった。
 ところが、安西三郎は里見義実の剛勇と家中における人気に危惧を抱き、これを排除しようとした。これに対し義実は、安西氏を倒して自らが安房の覇権を握ろうと決断し、明応五年十一月、安西館を急襲し、安西三郎を討ち、その余勢をかって安房国内を平定。稲村に筑城し、安房源氏を称して、安房武士団の棟梁におさまった。
 明けて明応六年、義実は上総侵攻戦に着手。真里谷武田氏の一族勝真勝を軍門に降したのを皮切りに、文亀二年(1502)佐貫城と対の砦亀之城を築いた。これら一連の侵攻戦を陣頭指揮したのが、土岐弾正少弼頼房であった。頼房は義実の篤い信頼を得て、安房勢の尖兵として上総夷隅郡に進出し、万喜城を築き、四周に武威を轟かせたのであった。

万喜城主土岐氏の出自-諸説

 万喜城に拠った土岐氏は、清和源氏頼光流土岐氏の後裔という。美濃守護土岐頼芸の一族が、斎藤道三のために家運の衰えたのを恨み、美濃を出て諸国をめぐって武者修行をし、のち関東に下り、やがて上総万喜に居住し、里見氏の知遇を得たというのが定説である。
 ところで、万喜城主の土岐氏については諸説があり、三代説(元頼−為頼−頼春)五代説、九代説などさまざまで、いずれも確証がなく、謎に包まれている。さらに、奥州藤原氏の子孫という「土岐氏八代説」もある。
 三代説については、万木城址下、万木にある海雄寺に江戸時代のものと思われる、土岐頼元−明応元年(1492)、土岐為頼−天正十一年(1583)、土岐頼春−天正十八年(1590)の三つの位牌がある。これによると、頼元と為頼の没年には九十一年間もの隔たりがあり、三代説は覆えされる。『房総通史』には、為頼の父を頼定とし、九代説では頼元のあと頼房−頼定と続いて為頼−頼春となっている。さらには、頼定を頼芸と同一人物にする説もあり、いずれにしろ、為頼・頼春父子以前の土岐氏の事蹟を詳らかにする史料はない、というのが現状である。
 とはいえ、萩原の天台宗行光寺『金灌私記』奥書には、万木城主土岐為頼が僧慧鑑を招いて中興開山したことのなっており、万木の海雄寺には天正二年十月、開山慧鑑が土岐為頼との仏門上の交わりを書いた文書が残っている。その他、中村家文書、光福寺文書、鶴岡家文書などをみても、戦国時代の万木城と、為頼・頼春の実在は疑いのないものである。
 さらに、土岐氏が安房にくることになった説のひとつとして、美濃の土岐氏の一族土岐頼元は摂津の富山城に居住していたが、領土争いに敗れて摂津を去り、温暖な房総に安西三郎をたよって下ってきた。そして、安西氏に仕え、そののち安西氏の推挙で里見氏に属するようになって活躍、城を夷隅郡万木に築いてこれに拠り、やがて東上総をその支配下に収めるようになったとするものがある。しかし、文献にとぼしく、その詳細は不明である。

万喜城主土岐氏の活躍

 上総土岐氏の歴代のうちで、実在が信じられる土岐為頼は、頼元の子とされており、父の死後万木城主となり里見氏に属していた。そして、土気や東金の酒井氏、大多喜の正木氏とともに「里見の三羽烏」と称された。さらに里見義堯は為頼の娘を室とし、里見氏と土岐氏の縁故関係は深まっていた。
 天文七年(1538)十月、里見義堯は、足利義明と連合して北条氏綱と国府台において第一次国府台合戦に及んだ。このとき、為頼は義堯に従って出陣したが、戦に利あらず義堯とともに安房に退いた。天文十一年、北条氏康は使いを土岐為頼や真里谷信政に派遣して二人を北条方に招いた。真里谷信政はこれに応じたが、為頼は、義堯は娘婿であり、二人の間に生まれた義弘は孫であるとして応じなかった。そして、この件を里見氏に報じたのである。これを聞いた義弘は怒って、天文二十一年十一月、軍を進めて信政を攻めた。為頼もこれに参加して、同年十二月、信政を滅ぼしたのである。
 その後、里見義堯は、為頼や正木時忠に命じて下総を制圧させた。このころ、義堯の室であった為頼の娘が没したようで、義堯は次第に為頼に疑いをもつようになった。当然、為頼も義堯に対して不満を抱くようになった。これを探知した北条氏はしきりに為頼を招くようになり、永禄七年(1564)第二次国府台合戦に際して、為頼は義弘に従って出陣はしたものの力が入らず、ついには北条氏に走ったのである。
 天正三年(1575)里見義弘は、正木頼忠に命じて万木城の為頼を攻めた。しかし、この攻撃は里見氏の失敗に終わった。義弘にとって為頼は祖父である、義弘は戦いにくかったのかもしれない。為頼は天正十一年四月に没し、その跡は頼春が継いだ。
 頼春は家督を継ぐと、近隣を侵略して、武名を高め、領地は十万石に充つといわれる万喜土岐氏の最盛期を現出した。土岐氏の領地は長年天災に遭うこともなく、民は豊かに兵も強く、毛利家文書に、万喜城主土岐頼春の存在を伝え「土岐五千騎」とその兵力の概数をも現在に伝えている。
 しかし、土岐氏は里見氏を離れ北条氏に属してからは、里見氏の配下にある近隣の諸将とは絶えず対立し、四面楚歌の状態であった。頼春はこの険しい状況にあって、よく家臣団を統率し、常に沈着、時に機略をもって里見氏の攻勢を撃退し、万喜城の要害を活かして、つねに勝機を逸しなかった。
………
・土岐氏が里見氏と戦った万喜城祉


土岐頼春の武勇

 天正十年二月、里見義康は、配下の兵を率いて三浦をこえ、網代の城を攻撃した。頼春は兵を派遣してこれを防がせた。これをみた勝浦城の正木左近は、その虚をうかがい、土岐氏方の小浜城を攻めとった。頼春の部将で小浜城主の鑓田美濃守は大いに怒って引き返し、これを攻めて小浜城を奪還した。
 天正十六(1588)年九月、大多喜城主正木頼忠と安房国丸城主山川豊前守、里見氏家臣団が、万喜城に押し寄せた。正木頼忠は自ら三千の兵を率いて大手から、山川は二千六百の兵で海路搦手から攻めた。頼忠は万喜城の西の八幡山に砦を築いて対陣し、万喜城を固く守った。戦いは激戦であったが、頼春はよく防ぎ、各所に奮戦し里見勢には討死するものが続出し、正木頼忠はついに敗れて大多喜に退却、山川も居城に還った。つづいて、翌年春、里見義康が海を渡って相模国を攻撃した。これを迎かえ撃つ北条氏は、関東八ケ国の兵を召集し、土岐頼春にも派兵を要請してきた。頼春は里見氏の攻撃に備えて自ら出陣が叶わないことから、弟頼実や部将の上階友忠を小田原に送った。
 一方、里見義康は、万喜城の兵力が減ったことをみて、上総庁南城主武田信栄に万喜城を攻めさせた。豊信は数千の兵を率いて庁南をたった。多賀六郎左衛門、同管解由左衛門らの兵六百が先鋒であった。豊信は夷隅川をはさみ万喜城から約一キロの地点、松丸村に陣を張った。五月、豊信は夷隅川を渡って万喜城に迫った。城内からも矢を射返してこれに応戦した。やがて、日没も近くなったころ、万喜城の支城である鶴ケ城主加治有久と、亀ケ城主麻生主水助とが、松丸の豊信の本陣を襲撃した。さらに梶新五郎も豊信軍に向かっていった。さらに、後詰めの兵も加わり、豊信は命からがら庁南に逃げ返ったのである。土岐方の大勝利であった。
 里見義康は六月にも万喜城を攻めさせた。すなわち、堀田城主安西遠江守が大手から、山川豊前守が搦手〜攻めた。正木頼忠は千余の兵を率いて後軍という陣容であった。これに対し、里見軍が万喜城の背後に廻ったのをみた頼春は、安西・山川の両軍を発坂峠に待ち伏せして撃破した。正木頼忠は大敗を聞き、戦わずして軍を引き返した。この合戦もまた、土岐頼春の大勝利であった。
 翌天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが諸国に伝達され、開戦も間近であったが、里見氏はなおも万喜城に固執していた。同年正月、正木時堯が土岐攻めに出陣した。戦いは苅谷原で展開されたが、この合戦も頼春が勝利し、正木軍は大多喜へ逃れた。

万喜土岐氏の滅亡

 このように、里見氏が土岐氏攻めに手をやいている最中の天正十八年二月、秀吉の小田原出兵が開始された。土岐頼春は北条氏政・氏直父子の要請により、軍勢を小田原へ馳せ参じさせた。一方、里見氏も兵船で三浦へ渡り、北条氏の支城を攻略しながら鎌倉方面へと向かった。
 天正十八年七月、小田原北条氏はあえなく秀吉に降伏して没落した。北条氏と運命をともにした万喜土岐氏も、ついにその命運はつきることになった。小田原開城後、房総にあった四十八の城には、豊臣・徳川の軍勢が津波のように押し寄せ、諸城を攻略していった。
 里見氏は秀吉に気脈を通じ、勢いを得て万喜城を攻めたてた。これに対して、土岐一族の諸将、熱田丹後守、益田志摩守、神子上典膳らが、よく防ぎ戦ったが支えきることはできなかった。万事終われりとさとった土岐頼春は、城に火をかけて自刃して果てたと伝える。いまも、万喜城址には、当時のものと思われる井戸や、落城のときに焼けた米が炭になって、当時の米倉であったと思われる南側の台地の土中に散在している。
 一説には、小浜海岸から小船で脱出してのち、三河に片田舎に落ちのびて、余生をおくったともいう。しかし、戦国末期に万喜城主として武威を誇った土岐氏は永遠に歴史から姿を消したのである。


■参考略系図
万喜城主土岐氏の系譜については、文中にも書いたが諸説ある。ここでは九代説によって作成したものを掲載。

 


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